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白露に映るものは

 顧問の黒田しづねが文芸部の部室を覗き込むと、鷺橋美織だけがいて、彼女は机や椅子を雑巾で拭いていた。
「なんだ、鷺橋さん、一人なの」
 ああ、黒田先生。と美織は額の汗を腕で拭うと、「そうなんです。でも、部長もすぐ来ると思います」と笑いかけた。
 黒田はこの高校の卒業生で、ベテランの多い教師陣の中では三十代前半と比較的若いことと、愛嬌のある顔立ちで、馴染みやすい気さくな性格から「しづちゃん」と呼ばれて生徒から愛されていた。来月結婚する予定とあって、名字が黒田から変わってしまうことを残念がる男子は多かったけれど、黒田のことを悪く言う生徒はほとんどいなかった。
「鷺橋さん、文集の編集委員の方もよろしくね」
 小首を傾げて言われると、仕草が小動物じみていて、思わず撫でまわしたくなる愛くるしさがあるのだが、よだれが出そうな気持を美織は押し留めて、行儀のよい笑みを浮かべて「もちろんです、黒田先生」と答える。
 この学校では各生徒の提出した作文の中で優秀だったものや、文芸部や文化部の作品を一つの文集として編集し、印刷会社に依頼をかけ、発行する習わしがあった。そして文芸部からは必ず一名以上の委員を編集委員に出さなければならず、今年はそれを美織が務めることになっていた。
「わたし、なかなか手が回らなくて、頼っちゃうことになりそうだから」
 黒田は申し訳なさそうに伏し目がちに言う。
 新婚とあれば、色々と生活も変わるし、忙しいこともあるだろう、と美織は考えて、まるで自分には想像のつかない、別世界の出来事みたいだと自分の乏しい発想力を笑った。
「大丈夫ですよ。私たちでなんとかしますから」
 そう請け負った美織に、黒田は手を合わせて片目を瞑り、「ありがとね、鷺橋さん」と頭を下げると、打って変わった声色で、
「文芸部って幽霊部員がいるのよね。本物の」
 と真剣に言うので、美織も思わず背筋がぞくっとした。
 本物の幽霊部員って、なに?
 美織は背を向けて部室から出て行った黒田の背中の残影を、いつまでも追っていた。

 雨が降り続いている。雨が続くと湿気で髪の通りが悪くなる。つまり、姉の機嫌がとみに悪くなる。だから嫌いだ。
 美織は読んでいた文庫本を閉じて、短くため息を吐いた。今日の朝も、姉の髪の毛が決まらず、姉は苛立ちを美織にぶつけて、親に隠していた数学の答案をばらされてしまって、親から大目玉を食った。平均点すれすれの七十点。姉ならば余裕で満点をとるだろう。でも、美織にはどうしても数学という学問が好きにはなれなかった。言い逃れを許さないような絶対的な強迫観念が、担任の後藤を想起させて辟易してしまう。
 高校二年の五月、と悠長に構えていると、あっという間に受験はやってくる、と姉は言うけれど、美織は受験のために高校生活のイベントを犠牲にするような、分不相応の努力をしたいとは思わなかった。
 だから親からは散々学習塾に通え、と求められても部活だから、と断って、今ここにいる。
 別棟三階の東側奥、文芸部の部室。
 雨がしとしとと降りしきる中、文芸部の部室の中には美織の他に部長の田島がいた。普段ならここに三年の別所や一年の椎名がいるのだが、今日は田島と二人きりだった。田島は部長ということもあってか、毎日文芸部に顔を出していたし、美織もほとんど毎日やってきては、ノートに小説を書き殴ったり本を読んだりして過ごす。時折部員とおしゃべりをすることもあるが、基本的に部員は寡黙な質の人間が多く、各々黙々と過ごすのが一般的だ。
 田島は部室に一台だけある、ウインドウズのPCに向かい合って、ワードソフトで小説を書いていた。PCで小説を書くのは田島や椎名で、美織は専ら手書きだった。パソコンが使えないわけではないが、どうにも手書きで文字を書かないとしっくりこない。機械が打ち込んだ言葉は機械のもので、自分のものではないような錯覚を抱いてしまう。椎名は「美織先輩、古風ですね」なんていって茶化すが、プロの中にも手書きの人は多いような気がする。エッセイや雑誌の記事なんかを読んでいると、そう思う。
「鷺橋。合評の議事録、できてるか」
 田島が振り返らずにキーボードを叩きながら問いかけるので、美織は顔を上げて、「できてます。所定のフォルダに」と手短に答える。
「そうか。ありがとう」
 田島は書き上げた小説のファイルを上書き保存すると閉じ、デスクトップに戻って合評用の保存フォルダを開く。
 文芸部では月に一回合評を行う。合評は一回につき二人分の作品を読んで作品の感想や長短を論じ、次の創作の糧にすることを目標としている。そのため、「つまらなかった」「おもしろかった」などの意見は認められず、「どの部分が」「なぜ」「どのように」おもしろいのかつまらないのかということにまで言及しなければならない。
 文芸部の部員は幽霊部員を含めて十二人いるため、半年で一巡することになる。合評は作者が出席していようといまいと行われる。幽霊部員の中には作品はきっちり提出するが合評には顔を出さず、後日議事録で内容を確認する、という者も多いので、作者不在は珍しいことではない。
「次は鷺橋だな」
 田島がくるりと椅子を回して美織に向き直ると、からかうように言った。
「気が重いですよ。去年の合評を思い出すと」
 去年の合評で、美織の小説のある描写が物議を呼び、別所と田島が真っ向から意見を対立させてそこに椎名や二年の倉内が参戦して喧喧囂囂とした議論になってしまった。そして最終的に書き手の意図は、と美織にお鉢が回ってきてしまって、美織は申し訳なさそうに、別所とも田島とも異なる意図を披露して二人を愕然とさせてしまい、振り上げた拳を下ろすところも分からなくなり、気まずい空気のまま合評を終えた経緯があった。
「ああ、去年は傑作だったな。俺も別所も、とんだお門違いだったわけだ」
 くくく、と田島は口元に手を当てて笑い声をもらす。
「笑い事じゃあないですよ。あの後二週間別所先輩、口きいてくれませんでしたからね」
「別所の奴はプライドが高いからな。一旦機嫌を損ねるとしつこいんだ」
 プリンターが音をたてて紙を排出する。型の古いプリンターだけあって、一枚印刷するだけでもオーケストラのような音をたてて排出し、時折印字が薄くて読み取れないことがある。
 田島は立ち上がって排出された紙をまとめて整えると、角をホチキスで留めて一部美織に差し出した。
「先輩、これって……」
 田島はにやりと笑って「そうだ」と頷く。
「うちの部には幽霊部員がいる。本物のな」
 幽霊部員に本物も偽物もいるのか、と思ったが、美織も田島の言いたいことは分かった。なぜならば渡された原稿が「白露綾人」のものだったからだ。
 「白露綾人」。二年三組。だが、二年三組には白露綾人なる生徒はいないし、彼は去年も二年三組だった。その前の年も。その前の前の年も。十年以上前から。彼はずっと二年三組で、文芸部の幽霊部員だった。合評に姿を見せたことはないが、作品だけは毎年欠かさず提出していく。書く作品のジャンルは一貫してミステリ。トリックや謎解きに特筆して見るべきものはない作品ばかりだが、人物の描き方ととにかく地の文がうまかった。
 白露綾人の存在は文芸部公認の謎であり、これまでに卒業していった幾人もの部員が謎に挑んできたが、誰も解くことができなかった。
「今回の原稿。謎を解く突破口になるかもしれない」
「え?」
 美織は慌てて原稿に視線を落とし、ざっと目を通した。
「これって、名字は変えてありますけど、文芸部のメンバーですよね」
 田島、美織、別所、椎名、倉内、それから幽霊部員の数名と思われるメンバーをモデルにした人物が描かれ、そのメンバー内で殺人事件が起こり、部長の田島が解決に乗り出す、という内容だった。
「まず椎名が殺されているのが発見される。見つけたのは鷺橋、君だ。そして文芸部内で起こった事件として、俺が探偵役に名乗りを上げる」
「犯人と白露綾人はリンクしているんでしょうか」
 美織は先を急いで後ろのページを覗こうとするが、田島のボールペンが美織の手の原稿をぴしゃりと叩き、「そう急くな。予断をもって事に当たれば、見えるべき結末も見えないぞ」と言葉とは裏腹に楽しそうな口調で言った。
 絶対に楽しみたいだけだ、この人、と内心で美織はそう見ていた。
「一つずつ整理していこう。まず殺された椎名は除外しよう。残る容疑者は田島、鷺橋、別所、倉内。それから幽霊部員の面々だが、彼らも除外していいだろう」
「どうしてですか?」
 美織は不服そうに訊ねた。予断をもつなと言った口で、予断に基づいたような推理を展開されては、美織としても承服しかねた。予断をもたないのならば、幽霊部員の面々も容疑者から外すべきではない。
「これはフェアじゃなかったな。先を読み進めたまえ。彼らはみな殺害される運命にある」
「そんなの読まなきゃ分かりませんよ」
 美織は口を尖らせて反論する。その様子をにやにやと眺めながら、田島は「すまないな」と膝を叩いて頭を下げる。
「それなら、探偵役の田島先輩も除外すべきでは」
 事件を解決するべき探偵が犯人というのは、読者にとってもっともアンフェアな要素だ。
「だめだ。君は『アクロイド殺害事件』を読んだことはないのか」
 ありません、と美織は首を振る。殺人だの、殺害だの、物騒なタイトルを冠するミステリは美織の守備範囲外だった。ミステリを読んでみたことはあるが、おもしろいと思えた試しがないのだった。
「読みたまえ。クリスティの名作だぞ」
「はいはい」
 美織は田島が熱弁を振るい出しそうになるので適当にあしらい、「田島先輩も容疑者なら、誰が犯人なんです」と田島が制止するのも構わず後ろの謎解きを読む。
「先輩」と美織はがっくりと肩を落とす。なぜならば、謎解きが書いてあるページには、犯人をいよいよ名指しする、という場面で、なぜか謎の人物の独白が挿入され、そのまま作品が終わっていたからだ。つまり、犯人が明らかにされないまま物語を畳むという暴挙に出たわけだ。白露綾人は。
「なんです、これ」
「俺は白露綾人からの挑戦状じゃないかと思っているんだ。正体を知りたくば謎を解けという」
「謎を解けと言ったって、わけのわからない独り言で終わってるじゃないですか」
 そうなんだ、と田島は顎に手を添えて、俯きがちになって考える。
「物語とは噛み合わない独白。これは白露綾人自身の告白ではないか?」
 まさか、と美織は引きつった笑みを浮かべて、もう一度独白に目を通す。

「私が殺したのは誰か。それは私自身に他ならない。
 だが、無惨な死体として横たわっていることすら、誰も知らない。私は誰でもない。そういう境遇に送り込んだのは、間違いなく私自身だ。
 十年前のあの日、雨の降りしきる日だった。
 君と私は放課後の部室に残って、君の作品の手直しをしていた。君は才能に満ち溢れていたがでも、作品との距離の取り方が適切ではなかった。あまりにも作品と君とが近すぎて、君は小説を書く度に茨の鎖で自分を締め上げているようだった。
 君が最後に書いた小説、『春鳴り』は傑作だった。私はたとえ幾百年研鑽を積もうと、君の才覚の前では無価値なのだと悟った。だから、私は君を殺して、その栄誉を、作品が受ける称賛を、我がものとしたのだ。君の名前の書かれた原稿を破棄して、私の名前で書き直した『春鳴り』を公表し、作品は称賛を受けた。だが、私がその称賛を受けることはなかった。私は影となったのだ。名前だけの、幻影。君を殺したがために、その罰として私は儚き影となり、誰も知らない、作品を提出し続けるだけの存在に堕したのだ。
 だが、後悔はすまい。『春鳴り』はそれだけの価値がある作品だったのだ。
 私は『春鳴り』を超える作品を書くことはできないと知っていながら、書き続ける。私は創作という牢獄に囚われた罪人なのだから……。」

 春鳴り、と呟くと美織は立ち上がって本棚に歩み寄り、十年以上前の文集を引っ張り出し、ページをめくった。古びた紙のすえた臭いがした。
「あった。春鳴り」
 美織は白露綾人の名前で投稿されたその作品を開いて田島に突きつけた。一年で入部したとき、当時の部長からこんなすごい作品を書く人もいた、と教えられたのが「春鳴り」だった。それで覚えていた。
「そう。白露綾人の最初の作品だ。ミステリでない、唯一の作品」
「白露綾人は独白のとおり、誰かを殺して作品を奪ったんでしょうか」
 いや、と田島は首を振って、「そうした事件の記録はなかった」と言って立ち上がると、文集の内、「春鳴り」が掲載された後の三号を順にボールペンで軽く叩いた。
「これら三号には白露綾人の寄稿はなく、その次、四年後の号から再び投稿が始まっている。それからは毎年だ」
 美織は田島の後を追うように文集の背を撫でながら、「三年……」と呟き、「卒業した?」と疑問を口にした。
「その可能性はあるな。だが単純に、最初の『春鳴り』の白露綾人と四年後の白露綾人は別人。名前だけが引き継がれていると考えることもできる」
「誰かが意図的に引き継いでいると」
 ああ、と田島は窓の外を眺めながら頷く。「その場合、白露綾人は我々のうちの誰かということになる」
 犯人探しに逆戻りするわけだ。白露綾人イコール小説の犯人ということになる。
 だが、独白をどう捉えるのか。作品の流れを切ってまで挿入したものである以上、意味のないものだということは考えにくい。美織はやはり白露綾人とは誰かが入れ替わっているもの、それが発端ではないかと考えた。
 白露綾人が「春鳴り」とは異なる作風のミステリばかり寄稿することも気にかかる。「春鳴り」とそれ以外では異なるが、それ以外同士はナンセンスなミステリだということで、作風が似通っているように思える。作風まで引き継ぐことができるか。そこまでして存在させ続けねばならない名前なのか、白露綾人は。
 美織は考えれば考えるほど、白露綾人という人物は一人しかいないのではないかと思った。その方が筋が通っている。だが、十年以上高校生を続けている生徒などいるわけがない。こっそり卒業生が忍び込んで、というのも考えにくい。なら、白露綾人は十年以上学校にいても不自然でない者の誰かではないか。美織はそう結論付け、はっと閃いて文集の棚から、「春鳴り」が収められた号の前の号を引っ張り出した。
「鷺橋、その前の号には白露綾人は登場しない」
「先輩、私が探しているのは白露綾人じゃありません。その逆です」
 逆、と訝しそうに田島が首を傾げる。しっかりしろ、田島探偵、と美織は心中で叱咤する。
「白露綾人が現れたことで、姿を消した人です」
 そうか、とぴしゃりと田島は手を打つ。
「独白が事実なら、白露綾人は誰かと入れ替わっているはずだ。前の号に載っていてその後の号にいない者、それが」
 美織は後を引き継いで、「白露綾人が殺したと告白した人間」と言い切る。
 美織は二つの文集を開いて目次の作者をそれぞれ対照させていく。
「先輩、これって……」
「殺したと告白する以上、彼女は死人であるべきだが」
 白露綾人が姿を現したことで消えた名前、それは「黒田しづね」、顧問の名前だった。
 そうか、と美織は顔を上げる。
「しづちゃんはずっとこの学校にいる。教育実習もここだって言ってた。卒業して教育実習にくるまでちょうど三年空く」
「なるほど、三号分の不在の謎か」
 美織は頷く。
「だが、黒田しづねを殺して白露綾人が『春鳴り』を奪ったのだとすると、犯人と被害者が一つになって成立しないぞ」
「独白は文面通りなんですよ、先輩」
 私が殺したのは誰か。それは私自身に他ならない。
 この一文が真実の鍵だったのだ。美織は独白のその一文に目を落とし、拳を握りしめた。
「しづちゃん、黒田先生は何らかの理由で自分の才能を抹殺して、白露綾人を生み出すことを選んだんですよ」
「その理由は、直接本人に訊いた方が早いだろうな」
 美織は大きく首を横に振って、「やめましょう」と田島を諫めた。
「謎を解くことは、白露綾人を殺すことになります」
「そうしたら、黒田しづねとして寄稿してもらえばいいじゃないか」
 恐らく、黒田も白露綾人を抹殺するつもりで今回こうした作品を出してきたのだろうと思う。結婚を一区切りに真実を打ち明けたくなったのかもしれない。
 美織は文集をゆっくりと棚に戻しながら、物問いたげな田島の視線をひしひしと感じ、振り返って申し訳なさそうに微笑む。
 十中八九、「春鳴り」は彼女の作品ではないと美織は考えていた。なぜなら、白露綾人が現れたことで姿を消した名前がもう一人あった。多分、転校したなどで、学校から存在がいなくなってしまった人なのだろう。その消えた女生徒の作品だろうと思った。独白は文面通り。黒田しづねは彼女自身を葬った。作品を盗んだという罪を犯したために。
 これは彼女の贖罪だ。それを横から得意げに謎を解いて罪を明らかにし、許してやるなんてのは烏滸がましい。彼女自身が自分の罪と向き合い、許すのでなければ、贖罪なんて何の意味もないのだ。
 外野である自分ができることなど、せいぜい白露綾人の作品を論じてその議事録を作ることぐらいしかない。
 不服そうな田島に、美織は苦笑して、
「真実は、なんて血眼になって事実を明らかにすることなんて、ナンセンスですよ、先輩」
 と言って文庫本を片手に立ち上がる。
「次の合評、私と白露綾人ですね」
 振り返って田島を一瞥すると、田島は苦々しげに笑って、「荒れるぞ、場が」と肩を竦めた。
 そうですね、と頷いて声をたてて笑った美織は、「失礼します」と頭を下げて部室を出た。
 階段を降り、昇降口を出ると、雨が上がって、遠くの空には晴れ間が見えていた。
 長い雨のときもいつかは終わって、晴れ間が見える。きっと虹だって。
 美織の見上げる先には、うっすらと虹がかかっていた。傘立てから傘を引き抜くと、ゆっくりと水たまりを踊るように避けて歩く。アスファルトにできた水鏡のような水たまりは、美織の晴れやかな顔と、虹を映して揺らめいていた。

〈了〉

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