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私は孤独だ。そう嘆くことができる人は、孤独なんかじゃない(読書記録5)


■沖縄には何があるのか

そう言われても困ってしまいますよね。観光名所を挙げればきりがないですし。ここではそうではなく、「私」にとって、ということです。

この作品、買いはしたものの、読むのは後回しにしようとしていました。理由は、舞台が沖縄だから。
日本全国どこが舞台であっても気にならないはずなのですが、沖縄だけはどうしても心理的に避ける傾向があるらしく。それまで面白そうだな、と思っていた小説でも、沖縄、という単語や彷彿とさせる言葉が出てくるだけで棚に戻してしまうのです。

理由は私にもよく分かりません。
戦火が及び、悲惨な歴史をもつ地だから?
でも、私は戦争を知らない世代です。それで避けるのは何だか違う気がします。

沖縄は本土と比べて、文化も習俗も異質です。その異質さが、異界の存在を色濃く感じさせて、私の手を止めるのかもしれません。

■主な登場人物

〇未名子 主人公です。たった一人の事務所で、問読者として、孤独な環境
     にある回答者たちにクイズを提示する仕事と、沖縄の歴史を個人
     的に収蔵した資料館で資料の整理を行う仕事をしています。人間
     関係が希薄で、交流らしい交流が描かれるのはモニター通信の回
     答者たちとがほとんどです。そんな未名子ですが、台風の去った
     朝、宮古馬のヒコーキと出会うことになります。

〇ヴァンダ・ポーラ・ギバノ クイズの回答者たちです。それぞれ独自の理
              由により、非常に孤独な環境下に置かれてい
              て、彼らの精神衛生のためなどの理由で、ク
              イズが課されることになります。彼らとの交
              流が、未名子の意識を変えていくことになり
              ます。

〇カンベ主任 未名子に問読者の仕事を紹介した人物。にこやかで好意的な
       態度で接するが、どこか底の知れないところがある。未名子
       は概ねカンベ主任に好印象をもっている。

〇順さん 郷土資料館の主。個人的に始めたことな上、取材も心に傷を負っ
     た沖縄の人たちを更に傷つけることになり、周囲から疎まれてい
     る部分がある。作中では老いのため、セリフを発することなく、
     資料館の片隅に座っている。

■ストーリー

コールセンターで仕事をするかたわら順さんの資料館の資料の整理をしていた未名子はコールセンターの廃止に伴って職を失い、仕事を探す過程でカンベ主任と出会い、問読者の仕事に就くことになる。
問読者は世界中で様々な理由によって孤独を強いられている人の心のケアなどを目的に、クイズを出題するという仕事で、未名子はヴァンダ・ポーラ・ギバノという三人の人物に問題を出題していた。
彼らとのコミュニケーションと資料館の整理、それが未名子の世界だったが、ある台風の夜の翌朝、馬が庭先にいるのを見つけ、この馬との交流が始まる。
ヒコーキと名付けられたこの馬の存在が鍵となり、未名子の世界の扉は、少しずつ開かれていくことになる。

■印象的だった文章等

〇男は沖縄の一部の人間が比較的長寿であることを、他のそうでなかった多くの人間の命を数日、数年ずつ引き継いだからだと、本気で信じているふしがあった。
〇透明ななにかが自身の体の中にしみこんでいくみたいにして、感情だけでなくいろいろな機能を鈍らせていきつつあった。
〇台風というのは低気圧の巨大な塊で、人間というのは水の詰まった袋みたいなものだ。だから気圧によって人は体調も精神もすこしばかりおかしくなる。
〇彼らにはまったく悪意がなくて、あるのは深い家族愛だけだった。ただ、わたしだって彼らを愛している。今でももちろん。なのに、そのとき確かにわたしの心には絶望だけがあった。深い、深い絶望。
〇今僕が生きているのは、親の親の親が、人や動物をいっぱい殺したから。僕は殺したほうの子ども。戦うことが好きな、強い生き物が残って、殺すより死ぬほうを選ぶ生き物は、途中で消えた。
〇だから、守られなくちゃいけない。命と引き換えにして引き継ぐ、のではなく、長生きして守る。記録された情報はいつか命を守るかもしれないから。今は神なんかに祈るよりも、彼らと積みあげてきた短い会話を思い浮かべたほうがずっと心強かった。

■感想

あとがきにも書かれていることですが、この作品を読んで感じるのは「孤独」です。
登場人物みんなが「孤独」を抱えています。物理的な障壁、精神的な障壁、そのどちらも。彼らの間は分断されています。

あなたは「孤独」を感じたことがありますか?
それはどんなときでしたか?
そして今もそれは続いていますか?

自分だけがみんなと違う意見をもったとき。
物理的にはぐれて、見知らぬ街で一人になってしまったとき。
夜、一人でお酒を飲んでいるとき。

ふとしたときに、ささやかなきっかけで、人は「孤独」を感じるものじゃないでしょうか。

それは本質的に人間は一人で、「孤独」だから?

そうかもしれません。究極的に自分のことが分かるのは自分だけです。自分以外の頭の中を覗いて何を考えているのか確かめる、ということはできません。ですからいついかなるときでも、例えどれだけ多くの人と行動していても人間は一人であり、「孤独」なのではないでしょうか。

そしてその「孤独」と戦う矛として言葉が生まれ、物語が生まれたのだと私は考えます。
物語は「孤独」の肯定か否定です。戦うなら、恐らく「孤独」を多面的に見る必要があったのでしょう。

物語は喜劇と悲劇に大別できます。
ここで喜劇とは、ノヴァーリスが定義したところによれば、「あらゆる物事を関係づけて結びつけていく物語方式」であり、その理屈に従うと戦争は喜劇になります。戦う力のない一般庶民が兵隊に駆り出され、鍋やフライパンが武器の材料になる――、すべてが戦争という行為に結び付けられていく点で喜劇だと言えるのだと。
悲劇とはその逆です。「あらゆる関係性が断たれていく物語形式」、これを悲劇と言います。登場人物の死などで関係が途切れていく、と考えれば分かりやすいでしょうか。そうすると戦争には死がつきものですから、戦争は悲劇の性質ももっていることになります。

「孤独」を肯定すれば悲劇に。否定すれば喜劇に辿り着くのではないでしょうか。その両方を飲み込む戦争という人間のプリミティブな行いは、人間を「孤独」たらしめる、もっとも忌避すべき存在なのではないかと思います。

そしてまさしくその戦争が無惨な爪痕を残した沖縄という地を舞台に、「孤独」をテーマに小説が書かれたことに、私は感慨を抱かずにはいられないのです。

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