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四姉妹の話~黄(ジョーヌ)~

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■本編

 こんな晴れた日は、散歩をするにうってつけですな、と老人は杖を突きながら朗らかに言った。石畳を照らす朝日のような温もりのある声の響きだった。
 私と老人は連れ立ってサン・パル通りを南に向かって歩いていた。この通りは商店なども少なく、運河に面してもいるので、蒸気船が貨物を運んでいる光景がよく見られる。
 私の住むこの街は海に面していると同時に山に囲まれてもいるので、陸路が険しい。街から出る道は、運河を除けば一本しかなく、それが山を一つ越え、二つ越えてようやく東西に伸びる街道筋に出ることができる。おまけに山賊や獣による被害が絶えないため、陸路で行くには十分な装備と護衛を備えなければ危険な道のりで、ほとんど陸路を選ぶ者はいない。
 海路は海も穏やかで、ちょうど都市と都市の間の中継拠点となっているため、海運が盛んである。近海で水揚げされる魚も種類が多い。暖流と寒流がそれぞれ近くを流れているため、獲れる魚は豊富だ。おまけに養分に富んでいるとあってか、漁獲量も多く、味もいい。そうした魚料理がこの街の特産で、港付近にはうまい飯屋が軒を連ねている。
 運河は南北の外海を結んでおり、南の海は首都に、北の海はかつて「王国」として栄えた、現在は共和国と呼ばれている国に繋がっている。そのため、政治的、経済的なこの街の運河の重要性は子どもの学校の教科書にも載るほど、当たり前の知識としてこの国では語られている。
 運河を開いたのは、およそ千年前に存在した「蒼の聖女」だと言われている。謎の多い人物で、食料飢饉から始まった二つの王国の戦争を、食物を実らせ、飢饉から救うことで止めたと言われる伝説の人物である。だがそれがいかなる業によってなされたのか、今もって分かっておらず、「蒼の聖女」は虚構の人物だとする研究者もいる。
「ブルームさんは、『蒼の聖女』の伝説を信じますかな」
「『蒼の聖女』ですか。伝記は読みましたし、教科書でも習いましたが」
 正直私は疑っていた。「大罪の魔女」じゃあるまいし、そのような超常的な力を持った人物がいるとはにわかに信じがたかったからである。それに、私が読んだ伝記や学んだ教科書の記述は、どれも聖女の行いを賛美するもので、聖女の美点しか語られていなかった。それは歴史研究としてはフェアではない。フェアではない以上、そこには何者かの思惟が働いている。だから私はテキストとしてそれらを信用していない。よって信用していない情報から組み立てられている「蒼の聖女」像を、私は信用しないのだ。
「その顔では信じてはおられないようですな」
 老人は横目でちらと眺めると、気を悪くした様子もなく、むしろ私が信用していないことを予測したように納得して頷いていた。
「あなたは信じておられるのですか」
 老人は木漏れ日が心地よさそうな、大きな樫の木の下にあるベンチを指さすと、「座りましょうかな」と方向を変えて歩いて行こうとするので、私は腕を貸してベンチまで歩いて行く。
「わしも初めは信じておりませんでした。眉唾だろうと」
 老人はよっこらせ、とベンチに腰掛けながら言う。
 私も彼の隣に腰かけ、日影になった横顔を覗き込みながら、「今では信じていると」と訊ねる。
「そうです。それが今からお話しする、わしの二番目の娘、テェールに関わりのある物語なのです」
 老人は空を見上げ、太陽の眩しさに目を細めながら、ゆっくりと語りだす。

 若者は息せき切って走り、村を東西に貫く大通りを走り抜けると、その奥にある村長の屋敷の敷地へと飛び込んだ。だが彼は長の屋敷ではなく、その建物のかたわらにちょこんと親熊に突き従う子熊のように立った小屋の扉を叩き、返事を待つことなく開けて飛び込んだ。
「先生!」
 若者はそれだけようやく言うと、膝に手を突いて息を切らせているので、テェールは水差しから水を一杯注ぎ、若者に差し出した。彼は手で謝意を示しながら、それを受け取ると一息に飲み干し、冷たい息を吐いて天井を仰ぎ見た。
「カストーさん。どうしたのです」
 テェールは水差しを置き、椅子に掛けておいた白衣を纏いながら訊いた。それはもう何事か起こっていることを理解し、臨戦態勢に入っている証拠だった。テェールの眼鏡の奥の目は、眦が鋭利な刃を思わせ、吊り上がった目は理知的で、目の前の情報を逃すまいとする貪欲さ、抜け目なさも思わせた。
「先生、出た。出ちまった、地死病だ」
 テェールは驚かなかった。だが、このときが来てしまったか、と予見しながらも何ら有効な手が打てないでいた自分を歯がゆく思った。拳を握りしめ、唇を噛み締め、「場所と規模は」と顔を上げて訊ねた。
 カストー青年はいつにも増して先生の顔は白いな、と思った。疲れが額に見える。それも無理もない。先生は、自分たちのために身を粉にして病の研究をして戦ってくれているのだから、と深く感謝するとともに、申し訳なくも思うのだった。
「カストーさん?」、テェールは怪訝そうに、心配そうな眼差しを向ける。
「ああ、すまねえ。何でもねえ。場所はクルラスの畑だ。芋が全部やられてる。幸いまだ範囲は畑一つ分といったところだ」
 カストーの説明にテェールは腕を組んで考え込み、「一番病に抵抗がある芋が」と呟くと、「もしかして」と顔を上げ、黒革の鞄を引っ掴んで走り出し、小屋を出て行く。
「先生、待ってくれ」と慌ててカストーも追いかける。
 テェールは農耕地が広がる村の北西側に向かって走る。その途中道端に立ち止まり、咲いていた花を、鞄からメスを出して切って摘み、その断面を確かめた。維管束の部分を凝視し、そこに黒い目詰まりのようなものを見つけると、ビニール袋を出して採取し、再び走り出す。
 健康な青年カストーですら追いつけないほど、医者であるテェールは俊足だった。本当にあの人は医者なんだろうか、とカストーが疑問に思ってしまうほど。
 クルラスの畑にテェールたちが辿り着いたとき、そこには村中の農家や役人が深刻な顔をして集まっていた。テェールの姿を認めると、一団の中には安堵に似たため息を漏らす者もおり、テェールの存在は村の精神的な支柱となっていることが窺えた。
「先生、おれの、おれの畑が」
 中年の農夫クルラスは、両手を震わせながら芋を持っていた。だがその手の上の芋は黒い炭のような色に変色し、土を被っていながらも毒々しいほどに瑞々しく見えた。
「間違いない。地死病だわ」
 テェールが悔しそうな面持ちでそう認めると、一団の間にどよめきが広がった。
 地死病とは、かつて古代に存在したとされる病で、その病は人や生き物ではなく、植物にまず発生し、その植物を摂取した動物、その動物から人間というルートを辿って広がる病であり、人間同士による空気感染などはしないのが特徴だった。「食」という行為の上にしか存在しない病ではあるが、問題なのはその感染力であり、伝承上の記述に寄れば、一晩で国の作物が全滅し、感染しているとは気づかず食物を食べてしまった人間たちに病が広がるのに要した時間はもう一晩。もう一晩で、国の人口の三分の二が感染した。二週間後には、人口の四分の三が死亡したとされている。
 地死病にかかってしまうと、身体が炭のようなどす黒い色に染まっていき、壊死していく。感染後三日で壊死が始まり、一週間目には感染が心臓や脳まで達して死に至る。致死率はほとんど百パーセントに近く、これを治療する方法も現時点で存在しない。伝承にのみその存在が語られる伝説の薬草エリクサーならばあるいは、と残されているが、眉唾だとテェールは考えている。どんな薬効があろうと、薬草程度で治癒する生易しい病ではないと。
 だが、遥か昔、時の忘却の果てに滅びたはずの病だった。伝説の中にだけ残る病。それゆえに研究する者もいなければ研究する手段もなかった。古の治療法とは祈祷や呪いによるもので、医療とは程遠かった。
 テェールは元々首都の医療施術院の主任医師だったが、貧富の格差が激しい首都で、貧しい者は顧みられることなく死んでいく姿を目にし、自身の医術とはなんなのか、と見直すための旅に出て、途上で立ち寄った村でたまたま地死病の兆候を見つけたため、ここに留まり研究を続けてきた。だが、どれだけの時間をかけて研究を重ねようとも、テェールが辿り着く結論は、病が発症したが最後、防ぐ術はない。速やかに土地を捨てて逃げるしか方法がない、というものだった。
 だが、逃げ出すのも容易ではないだろうと考えていた。絶滅したと思われている地死病には資料が少なく、歴史上の被害が語り継がれるだけだ。恐怖ばかりが先行し、恐らくその恐怖は地死病が疑われる者たちへの排斥という形で現れるだろう。そうなれば、かつて二つの王国の間で起こった戦争が、「蒼の聖女」によって防がれたような大戦争が再び再現されかねない。そして聖女はもういない。
「ここに来る途中、ちょうど村の中間地点です。そこに咲いていた花を切り取ってみました」
 テェールは鞄からビニールに入った切り花を差し出すと、「茎の中を見てください。地死化が始まっている」と茎の黒色に染まった部分を指で示す。
「それじゃあ、西側一帯はやられちまってるってことか」
 西側の土地の農夫なのだろう。粗末な麻の上衣を着ている男が頭を抱えて叫んだ。
「いや、この花の感じじゃあ、東側も危ないぞ」
 カストーは親指の爪をかじり、周囲を見回すと悔しそうに言った。「先生が、あれだけ尽力してくださったってのに」
「病気を防げなきゃなんの意味もねえべ!」
「わしらはお終いだ」
「破滅だ!」
 口々にみなが絶望を口にする中で、テェールは一人必死に頭を巡らせた。
 西側の作物は全滅。東側も危ない。すると既に収穫して貯蔵されているぶんしか食糧はない。それで村人全員を賄えば、一週間で尽きる。一週間。その間に地死病に対抗できる薬や治療法が確立できる? いや、どう考えても無理だ。時間稼ぎにしかならない。勝負は地死病にかかる前だったのだ。かかってしまった時点で、もう勝負は決したと見ていい。国も、恐らくは動くまい。下手に救済を訴え出れば、この村を封鎖して、最悪の場合処理される。
 だけど、医者の自分が治療の匙を投げるわけにはいかない。村人から罵られようと、何もできなかろうと、最善だと思える手を尽くす。自分にできるのは、それだけのことなのだ、とテェールは結論付けた。
「カストーさん、村長に報告を。それから、貯蔵庫を開くようにと。それ以外の食物は一切口にしてはならないと。井戸水もだめです」
 カストーは分かったと頷くが、すぐには立ち去らなかった。
「あんたはおれたちを殺す気なのか!」
 体の大きな、険しい顔をした農夫がピッチフォークを手に構え、語気荒く怒鳴った。
「この村の作物はすべて感染しているとみるべきです。食べれば感染します」
「そりゃあんたの推測だろう」
 テェールは些かも臆さず、「食べても大丈夫だというのも推測です。同じ推測ならば、助かる可能性が高い方をとるべきだと思います」と言い張るので、農夫は顔を真っ赤にしてフォークを振り上げ、「屁理屈をこねて騙そうとしやがって!」といきり立った。
「いい加減にしねえか」
 張り上げられたその大音声に一番驚いたのがテェールだった。声の主がカストーだったからだ。彼はいつでも温和で物腰が柔らかく、声を荒げるところなど見たことがなかった。農夫たちの間でもそうだったのか、カストーの大声に驚いた農夫はフォークをゆっくりと下ろした。
「先生の指示に従おう。一番地死病の怖さと戦い方を知ってるのは先生だ。おれたちは知ってるはずでねえか。先生がどれほど献身的にこの村にしてくださったかを。その先生が、おれたちの利益にならねえことをするはずがねえよ」
 カストーの哀切な響きの訴えに、その場にいた全員が胸を打たれ、項垂れた。フォークを振り上げた農夫が「すまねえ、先生」としおらしく謝ってくるので、テェールは微笑みを浮かべて首を振り、「いいんです。それより、これからのことを」と肩をそっと叩く。
「カストーさん、村長に今後の対応を協議したいと伝えておいてください。わたしは他の皆さんと手分けして、地死病が出たので食べ物をくちにしないようにと訴えて回ります」
 カストーは頷いて走り出し、「みなさん、各自分担して村を回ってください。わたしはこの北西エリアを回ります」、と言ってテェールは誰よりも先に走り出した。
 村中に知らせが回るのには二時間はかからなかった。小さな村だけに、誰がどこにいるかは村人相互が把握しており、速やかに情報の伝達が行えたからだ。幸い昼食前の早い時間だったことも幸いだった。村人たちは用意していた昼餉をすべて廃棄し、テェールの指揮の元、貯蔵庫の食材を使って作られた昼食をとることができた。
 テェールは村長や村の有力者たちと協議し、貯蔵庫の食料が尽きるまで一週間。その間にテェールは病の治療に全力を尽くし、村人たちは食料を巡っての争いなどが起きないよう、相互扶助と監視を強め、また国に知られることのないよう情報統制を徹底することを約束した。
 そして二日が経過した頃、テェールの治療は暗礁に乗り上げていた。
 だめ。治療の糸口すら掴めない。
 テェールは唇を噛み締め、拳でテーブルを叩いた。ランタンの明かりが身震いするように揺れ、映し出したテェールの影を震わせた。
 あと五日。あと五日の間に治療法を見つけなければ。食料が尽きてしまえば、村人たちを抑えておくことはできない。そうなれば、感染者たちは村から溢れて食料を求め、他の町や村に殺到するだろう。その途上で力尽きた遺体を、野生の動物が食べれば。そこから感染が広がる。恐らく、瞬く間に、気づかぬうちに大陸全土へと。
 そうなると、国に知らせなかったのは悪手になる。だけど、今知らせれば、古の病への恐怖に、国は過剰な防衛に出るかもしれない。知らせることは、やはりできない。
 症状を訴えた者が今日は五人増えた。恐らく感染している。禁止する前に食べた作物の中に、感染したものが交じってしまっていたのだろう。
「先生、大丈夫かい。だいぶ根を詰めておられるが」
 カストーが小屋の中に入ってきて、夕食を置いて行く。テェールの好物の、三種の芋を使ったクリームシチューだった。三種の芋はほくほくしていたり、とろりとほどけたり、味わいも歯触りもそれぞれ異なって、舌を楽しませてくれる絶品の一品だ。こんな時でなければ、テェールも喜びたいところだったが、とてもそんな気にはなれなかった。
「カストーさん。なんとか、治療法を見つけないと。時間はもうありません」
 切羽詰まったテェールの声に、カストーは「そうだな」と労わる響きをこめて頷くと、テェールに近付いて後ろから首に腕を回し、そっと抱きしめた。
「先生はよくやったよ。もういいんだ。もう忘れて、二人で生きていかないか?」
 カストーはテェールの耳元で微笑みながら甘く囁く。テェールは困惑し、慌てて振り返りながら「カストーさん?」と首を傾げて、しばらく二人は見つめ合っていたが、やがてテェールが何かに気づいたのかはっとして、カストーを突き飛ばした。
「カストーさんじゃない。あなた何者」
 テェールの顔は青ざめて、声は震えていた。
 カストーは口元を押えて、くっくと笑うと、「ばれたか。なかなか鋭いな」と愉快そうに言った。
 カストーの姿をした者は漆黒の外套を翻してすっぽり頭まで包む。すると風が巻き起こり、テェールの影を激しく揺らす。
 風が収まり、外套が再びはらりと開いたときには、カストーの姿は影も形もなく、褐色の肌の若者がそこに立っていた。
 若者は伸びた髪の毛を無造作に散らしており、目は落ちくぼんでいるが、眼光は鋭い。着ているものは粗末なのに、堂々たる風格があった。衣服は着るものを飾るだけのものであり、人間の本質ではないと説得されている気がした。
「あなたは誰」、警戒して後ずさりながらもテェールは何かないかと探り、テーブルの上を探っていて小刀を見つけた。植物の茎を切ったりするのに使っていたものだ。
「おれは『世界』あるいはお前たちが『神』と呼ぶもの」
「そんなこと」、言いながらテェールは小刀の柄を掴む。
 男はゆらりゆらりと無造作に距離を詰めてくる。「近づかないで」、テェールは鋭く叫ぶ。
「なぜだ? 距離など意味をもたないが、人間はこうして近づいて話すものだろう」
 男は肩を竦め、やれやれとため息を吐きながら首を振る。「度し難い生き物だ。人間」
「その『神様』とやらが、ここに何をしに来たの」
 ふむ、と男は腕を組んで、顎をさすりながら、「まだ信じておらんようだな」と不服そうに呟いて、「ならば見ておれ」と右手を軽く前に突き出して指を振ると、テェールの手から小刀がするりと逃げ出し、男がくいと指を曲げたと思うと、小刀は勢いよく男に向かって飛んで、その胸に突き刺さった。
 テェールは短い悲鳴をあげる。だが男はけろっとした顔で「心配ない」と刺さった小刀を引き抜いた。刃には血もついておらず、体に空いた木の洞のような黒い穴は瞬く間に肉で埋まって消え去った。痕すら残らなかった。
「おれの話を聞く気になったか、ドクター・テェール」
 テェールは頷いた。目の前の存在が神にしろ悪魔にしろ、人智を超えた力を有しているのは間違いない。都で流行っている奇術のような、種もしかけもあるまやかしとは違う。目の前の男は「本物」だとテェールは悟っていた。望むと望まざるとに関わらず、話を聞かざるをえないのだと。
「あなたは何をなすために、あるいはもたらすために、この地へと来たの?」
 男はテェールの言葉に不敵に笑って、「救済」と言葉短く答えた。
「この地に蔓延る、地死病を癒すことができるの」
 テェールは身を乗り出して叫び、食い入るように男の顔を見つめた。
 男はははは、と声を上げて笑って、「勘違いするな」と首を振ってテーブルの籠の中のリンゴを手に取って、齧りつく。しゃくしゃくと音をたてて咀嚼して飲み込むと、腕で口を拭った。
「おれが救うのではない。ドクター・テェール。君が救うのだ」
「わたしが。でもどうやって」
 男は椅子に腰かけ、指を振ると、引き出しにしまわれていた紙とペンが中から飛び出し、くるくると宙を回りながらテーブルに落ち、ペンが一人でに文字を綴り始める。
「おれが病を癒す術を授けてやろう。ただしその代わり、君には忠誠心を差し出してもらう。生涯君は神の忠実な僕となるのだ」
 テェールは誘われたように文字を綴り続けるペンと紙の前の椅子に腰かける。
 ペンは文字を記述し終えると、糸が切れたようにその場にことりと音をたてて倒れた。
「僕、といって何をすればいいの。奴隷のようにかしずけばいいの」
「愚かな。神は奴隷など欲さぬ。忠誠の証に、君は医術をおれに差し出せ。要は医術を捨てろ、ということだ。これからは医術の代わりに奇跡の力で人々を癒すのだ」
 人を救えるのなら、それはやぶさかではない。だが、奇跡の力では。テェールが医学に傾倒したのは、正しい知識と研鑽を積みさえすれば、誰にでも再現可能な普遍性に惹かれてのことだ。それを捨ててしまっては、テェールが積み重ねてきた努力や研究が水泡に帰してしまう。
「奇跡の力は、わたしにしか使えないの。わたしが死ねば、誰かに引き継がれたりするの」
 ふん、と男は鼻を鳴らし、齧りかけのリンゴをテーブルに置いて指で弾くと、リンゴは転がってテェールの前で止まる。
「奇跡の力は一代限りだ。かつて『蒼の聖女』が救済にその身を投じたように、君も聖女となるのだ。時代が求めている」
 地死病にかかった村の人たちは救えるかもしれない。けれど、テェールがいなくなった後にもし地死病が復活してしまったら、そのときには救うことができない。いや、医学も発展を続ける。その頃には救う術も見つかっているかもしれない。だが、その保証はない。テェールが生涯かけて解明に尽くせば、地死病の治療法を確立できるかもしれない。聖女になるということは、そうした可能性すべてを放棄して、安易な力に頼ることだ。
 テェールは迷い、答えを出せずにいた。現状テェールが聖女になるしか、村人を救うことはできない。残りの日数で治療法を確立するのは不可能だ。だが、それでいいのか。自分の医者としての矜持はそれを許すのか、と自問自答し、唇を噛み締めた。
「先生!」
 今度は本物のカストーが駆け込んでくる。だがそこに見知らぬ男が座っていたのでたじろぎ、何かを言い出したいが迷ってまごまごしていた。
 テェールは立ち上がって、男を手で示して、
「大丈夫よ、カストーさん。彼はわたしの協力者。地死病解明のため来てもらったの」
と、極力にこやかに紹介してみせた。
「そうでしたか」とカストーは安堵するが、すぐに「それどころじゃない」と血相を変えてテェールに詰め寄る。
「先生大変だ。王国の軍隊が、すぐそこまで来てる」
 軍隊が、と絶句し、男の方を弾かれたように見て、男がにやにやしているのを認めて憎々し気にねめつけた。
「王国軍はなんと?」
「これより一時間後に病の駆除を行うと。村から脱走しようとした者は問答無用に処分する。一時間神に祈る時間をやろう、と」
「なんてこと!」とテェールは額を押さえてよろめき、慌ててカストーがテェールを支える。
「傑作だな。神に祈る必要もなく、神は救おうとしている。祈るなら、ドクター・テェールにだろうに」
 男は愉快そうにげらげらと笑う。それを見てカストーはテェールが侮辱されたように感じて不愉快になり、男を睨みつけた。
 テェールは「大丈夫だから」とカストーの肩を叩いて俯いた。
 もう覚悟を決めなければならない。医学を、自分が生涯かけて学んだ、学ぶと誓った努力の結晶を捨て去り、奇跡の力に、神に頼るのか。それとも、奇跡を拒否して、村人とともにこの村と滅びるのか。選ばなければ。
「覚悟が決まったら、その書類に署名し、リンゴを食べるがいい。さすれば、君が築き、磨き上げてきた叡智は忘却の淵に沈み、無垢なる聖女として生まれ変わるだろう」
 さて、と男は膝に手を突いて立ち上がると、テェールに歩み寄って肩を叩き、「無粋な神は去るとしよう。影から聖女の活躍を見ているとするか」と言ってにっと笑い、小屋から立ち去って行く。
「なんなんだ、あいつは」
 口を尖らせて、不平そうにカストーが言うと、テェールは微笑んだ。
 リンゴを手に取り、じっと見つめる。
 医者としてのテェールは死に、聖女テェールとなる。医者としての本懐を自分が遂げることができないのなら、自分の意思を継ぐに足る人に任せればいい。そして幸いなことに、自分にはそうした存在がすぐそばにいた、とテェールは微笑ましくカストーを眺める。
「カストーさん。わたしは神と契約し、聖女になる誓いを立てます」
 カストーは混乱したように目を白黒させていたが、構わずテェールは続ける。
「聖女になると、わたしはもう医者として振舞えません。ですが、自分の築き上げてきたものを無為にするのは忍びないのです。そこで」
 テェールはカストーの手を取り、自分の額に当てる。祈りを捧げるように。
「この小屋のわたしの医学書や研究道具、治療用の器具や薬品など、すべてをあなたに譲ります。今度はあなたがわたしの志を引き継いで、ドクター・カストーになってください」
「ちょ、ちょっと待ってくだせえ。おれにはそんなことできるはず……」
 テェールはカストーの手を握ったまま首を振る。
「いいえ、わたしは知っています。あなたがこっそり勉強していることを。わたしのそばにずっとついていてくれるのは、少しでも医学の知識を吸収せんがため」
「ち、違う。それだけじゃねえ。おれは先生を」
 テェールはそっとカストーに口づけをすると、「ありがとう」と涙を流しながら微笑んで、さらさらと署名をすると、リンゴを齧った。
 眩い光がテェールの体から迸り、小屋から溢れ出た光の波は王国軍の目にも届いた。

「少し風が出てきたようですな」
 そう言って老人は立ち上がった。
 私は次女の物語の結末がどうなったのか訊きたかったが、それは無粋だろう。私も噂に聞いた覚えはある。遥か彼方の王国で、新しい聖女が生まれ、人々を救っていると。単なるデマだと思っていたのだが、どうやら本当だったらしい。
 私も立ち上がると、通りを歩いてきた紳士が気さくそうに老人に声をかけた。
「やあ、おじいさん。足の調子はどうですか」
「おお、先生」
 老人は背筋をしゃっきりと伸ばして、軍人が敬礼でもするかのように畏まって「この通りですわい」と足を杖で叩いて見せた。
「散歩は足腰にいいですから。無理ない範囲で続けてください。ああ、それと。コーヒーにブランデーを入れる悪癖は出てないでしょうね」
 老人はぎくっとして表情を強張らせた。若い男は眉間にしわを寄せて怖い顔をして、「だめですよ、いいですね」と指を突きつけて𠮟りつけた。老人はまるで悪戯が見つかった悪ガキのようにしゅんとして大人しく「はい、はい」と頷いていた。
 若い男は私の存在に気づくと、咳払いをして「これは失礼。今日はご友人が一緒でしたか」と笑みを浮かべて手を差し出した。私は「ブルームです。彼にはお世話になっていて」と手を取って握手をする。スマートそうな着こなし身のこなしに反して、手はまめやたこが多く、ごつごつとしていた。およそ医者の手には似つかわしくないな、と思った。
「僕はカストーです。医者をしています」
 私は驚いてまじまじとカストー氏を眺め回してしまった。田舎くささは微塵も感じさせず、洗練された発音と振る舞い。都会の紳士に相応しい紳士になっていた。
「ドクター・テェールの後継者のカストー氏ですか?」
 私がそう訊ねると、カストー氏は嬉しそうに口元を歪めて笑った。
「嬉しいですね。テェールさんをドクターと呼んでくれる人は、もうほとんどいません。彼女の名は聖女とともにしか語られない。ですが、彼女が医学界に貢献した功績は、聖女の名声以上であるべきなのです。僕はそう信じています」
 能弁にそう語ったカストー氏は、思い出したように胸ポケットから懐中時計を取り出し、「やあ、往診の時間だ。申し訳ありません。失礼します」と頭を下げて足早に立ち去って行った。
 テェールの医者としての心は、弟子にしっかり受け継がれているのだなと思った。自分では本懐を遂げられなかったが、誰かに引き継ぎ託せるということは、幸せなことではないか、と私は思った。
 私は受け継いだものも、残していけるものも何もないろくでなしだが、彼女たち姉妹の話は引き継がれていくべきだと思う。私はその手助けができたならどんなに幸せだろうと思うのだが、今のところどうしたらいいかは考えあぐねている。
 私は老人の肩を叩いて、「ブランデーはお預けですね」と言うと彼は消沈して、小さくなってしまった。
 近くに美味いコーヒーショップがありましてね――。そう誘って、私たち二人は長閑な日差しの中、通りを歩いて行くのだった。

〈了〉


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