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借物の外套

 私は本屋のアルバイトだった。しがない本屋のしがない学生アルバイト。
 大学でも地味でぱっとせず、人付き合いのいい方でもないから、当然彼氏はいないし、友だちも少ない。合コンに誘われることもない。マッチングアプリで一度男の人と会ってみたことがあるが、これがひどいマザコン男で、女は嫁で、子どもを産む装置で、労働力と考えているような、前時代的、という言葉が優しい響きに聞こえるほど化石的な思想をもった人物だった。
 初対面で経験人数を訊かれたので、ぐーで殴って帰った。ぐーで。幸い男は警察に訴え出るようなことはしなかったらしい。
 そのぱっとしない私の人生には春も夏もなく、氷河期のような冷え冷えとした風が吹くばかりだ。だからと言って、これはあまりにひどいのではないかと思う。
 私の目の前には、包丁を持った男が立っていた。
 男は濃紺のウインドブレーカーを着てフードをかぶり、サングラスに眼鏡と、いかにも僕怪しいです、という風貌だった。顔がほとんど見えないから、年齢を推測することはできないが、声からして男だった。声は若そうだが、声だけ若い声優みたいな声の持ち主はごろごろしてるから、それだけで判断することはできない。
「三日月兼城(みかづきけんじょう)の新刊を出せ」
 男は震える手で包丁を突きつけながら、早口にそう言った。ちょっとやめてよ、手が震えてるじゃない。弾みで私に刺さったらどうするのよ、と思ったが、それを口にできるほど私は肝が据わってはいなかった。ただ「は、はひい」と喉まで引き攣ってしまったような情けない声を出して返事をすることで精いっぱいだった。
「早くしろ!」
 そうは言っても、と私は頭をフル回転する。三日月兼城なんて作家、見たことも聞いたこともない。人間検索機みたいな店長なら即座に在庫状況まで答えるのかもしれないが、ただのアルバイトの私にはそんなことできない。そして店長は、二日前の雨の雨漏りがする、と言ってコーキング材を買いに出て行ったきり。
 さらに悪いことに、店の中には男と私の二人っきりで、お客さんが入ってきて助けてくれるという展開も期待できない。なぜなら夜の八時過ぎで、この店にそんな時間に人がやってくることなど滅多にないからだ。だから私一人に店を任せて店長が出て行くなどという真似ができるわけだ。
「み、みみみ三日月兼城って作家の名前ですか?」
 私は質問をするという行為が最適解だとは思わなかったけれど、必死に考えてそう口にした。ない、と突っぱねてしまえばよかったのかもしれないが、実は店頭に並んでいて、それに気づいた犯人が逆上して私を刺し殺すようなことがあれば、目も当てられない。分からないことは嘘を吐かず、正直にするに限る。
「当り前だろ! 知らないのか本屋の癖に」
 男は信じられない、といった口調で天を仰いだ。うっと私は言葉に詰まる。店長からよく言われていたことだ。「アルバイトでも本屋は本屋だ。お客さんにはアルバイトかどうかなんて関係ないからな」と。
「今日デビューの新進気鋭の小説家だ。デビュー作の『ロウアンの彼岸』が今日発売のはずだぞ」
 デビューしたての、有象無象の新人のことなんか知るわけないでしょ! 私は口角をひくひくさせながらも懸命に吊り上げて、笑みを形作って「申し訳ありません」と頭を下げた。相手はお客様じゃなくて強盗なのに、なんで愛想笑いして頭なんか下げてるんだろ、という疑問が意地の悪い道化師のように忍び足でにじり寄って来ていたが、猛々しい獅子のような生存本能がそれを振り払った。
「多分うちには入っていないと思います。うちのような弱小書店には、著名な作家さんの新刊くらいしか入ってきませんから」
 そんな馬鹿な、と男はよろめいて一歩下がった。ここで私が屈強な男なら、一撃お見舞いして撃退するのだけど、とできもしない妄想を頭の中で組み立てて満足する。
「三日月兼城はこの街の出身なんだぞ! それを、それを、出身の街唯一の本屋で扱わないってどういうことだ」
 男は唾を飛ばす、いや、マスクを飛ばす勢いで怒鳴るので、私は思わず身を竦めて縮こまる。そしてこれもまた思わずなのだが、ほとんど条件反射的に口に出してしまう。そう、これは私の悪癖なのだ。頭の中に疑問が生じると、それを確認するために口に出さずにはいられない、という。
「随分その、み、三日月兼城? って人にお詳しいですね」
 私は口に出してしまって、「あ、やっちゃった」と血の気が引いた。相手が友人ならいざ知らず。とはいえ、その友人たちにもこの悪癖は嫌がられている。話に矛盾点などがあると即座にそこを突いてしまうからだ。ましてや、謎の強盗犯相手にいつもの悪癖は、文字通り命取りになる。
「うるさいっ。ど、どうでもいいだろ。そんなこと」
 男は私の問いにたじろいでいたが、場の主導権を渡したくないという思いからか、威圧的な態度は崩さなかった。
 包丁を無意味にちらつかせ、男は威迫行動に出るが、腰が引けていて脅威には感じない。恐らく男も要求を述べるところまでは気を張ってやってきたのだろうが、その要求が空振りに終わってどうしたものか、と迷いが生じているのだろう。だが、包丁のもつ威力は些かも減じていないし、男の精神状態が不安定で緊張状態におかれていること、私自身は非力な小娘に過ぎないことを考えると、無闇に迂闊な行動にでるべきではないだろう。
「取り寄せにしますか? お時間かかりますけど、出版社から取り寄せることもできます」
 何を口にしているんだ私は。自分で自分に絶句したが、男が逡巡してまごまごして、気だるい緊張感が漂うのが私には耐えられなかった。
「お前馬鹿か。どこの世界に本の注文をしていく強盗がいるんだよ。じゃあまた後日強盗に来いってか!」
「別に強盗しなくても。本一冊くらいなら買えるじゃないですか。強盗するなら銀行とかの方がいいんじゃないですか」
 あああ、口が滑る滑る。思っていることが滑り落ちてしまう。恐怖と緊張というダムの堰が切れてしまったかのようだ。
「銀行強盗が成功するのは伊坂幸太郎の小説の中くらいだ。現実にはうまくいきっこない」
「じゃあ真面目に働きましょうよ。強盗なんかせずに。私みたいなアルバイトでも、本は買えます」
 と言っても、生活費の半分は実家からの仕送りに頼っているのだけれど。伊坂幸太郎といえば、本屋を襲撃する話があった気がするが、あれは何というタイトルの小説だったか。高校時代に読んで夢中になった記憶がある。
「生活が苦しくってやってるんじゃないんだよ、こっちは!」
 じゃあ、どういうことだ、と私は首を傾げる。つまりお金は求めていないということか。金目当てなら、わざわざ売りさばいてもたかが知れている本一冊を強盗したりしないだろう。しかも三日月兼城という得体の知れない新人作家の、売れるかも分からない本だ。古本屋に持って行ったところで二束三文にしかならないだろう。
 目的は、と自問自答する。金じゃないなら、本自体。三日月兼城の本がほしいということか。でも、金に困っていないなら買えばいい。買うのではだめなのか。いよいよ伊坂幸太郎じみてきた。あの小説の中で広辞苑を盗みに行った二人だが、目的は全く別のところにあった。それと一緒で、この男の目的も本自体はどうでもよく、別のところに何か意図があるのかもしれない。
「本当に知らないのか?」
 男は肩を落として包丁の切っ先を下げ、萎れた秋桜のように頭を垂れながら訊ねた。
「申し訳ありません。知りません」
 そうか、と男はさらに肩を落とした。そしてウインドブレーカーのフードをとってマスクとサングラスを外すとポケットに押し込んだ。
 男は二十代中ほどで、切れ長の吊り上がった目が怜悧さを感じさせるが、口元が緩んでいる印象を与えるせいで、切れ者に見えるばか者、といった言葉が私の中に浮かんだ。
「俺が三日月兼城だ。見たことないか」
「はあ?」
 私は訳が分からずぽかんとして、思わず口からそうこぼしてしまった。
 どこの世界に自分の本を強盗にくる作者がいると思うだろう。いたのだ、この日本という国に、その頭のいいばか者が。
「あなたが三日月兼城、さん?」
 そうだ、と鼻息荒く、胸を張って三日月兼城は言う。
「何のためにこんなことを」
 それは言えない、と言下に退けられてしまう。「サインをやってもいい」、と包丁の先端で木のカウンターを引っかき、傷をつけていく。机に彫刻刀で名前やら卑猥な言葉やらを刻んで喜んでいた不良学生のように、カウンターに刻み込むつもりらしかった。
 ちょっとちょっと、と私が慌てて止めに入ると、男は不服そうに「なんだよ」と声を荒げて、包丁を私に突きつけるので、体温が一度下がったように感じた。両手を挙げて下がり、「そこに傷をつけないでください」と声を震わせて頼んだ。
「いやだ。俺は自分の存在をこの店に刻みつけなきゃ気が済まない」
 そう言ってがりがりと一心不乱に自分の名前を彫っていく。店長早く帰って来ないかしら、と思ったが、多分これ幸いとのんびり一服してくるだろうから、望み薄だなとため息を吐いた。
「ふん、あまりの出来映えにため息がこぼれるか」
 ご満悦の顔で三日月兼城は言うが、刻まれた文字はお世辞にも上手いとは言えず、中学生の落書きのようにしか見えなかった。後で店長に言って木工用ヤスリを買ってきてもらおうと思うが、そうするとまたきっと一人きりにされるに違いなく、そういうときに限って三日月兼城のような変な客ともつかないような輩がやってくるに違いなかった。
 私はつくづく男運がないのだな、と思う。新進気鋭の小説家と二人っきり、という物語のようなシチュエーションなのに、相手がよりによってこれなのだ。それとも小説家と名乗る連中はみんなこんな奇妙奇天烈摩訶不思議な奴らばかりなのだろうか。
 この三日月兼城を名乗る男は、何が目的なのだろう。
 自分の本を強盗する。
 本がなかったら自分の正体を明かす。
 店に自分の名前を刻む。
 やっていることの意味がさても分からない強盗犯は珍しいのではなかろうか。そもそも自分の本なら、出版社に頼めば手に入るのではないだろうか。だとすれば本自体は目的ではないとすると、何が目的だ。自分の正体を明かしたり、名前を刻む行為は自己顕示欲の発露に見えないこともないけど……。
 自己顕示欲?
 この三日月兼城は短絡的な思考をもつ、愚かな男の一人だと考えると。強盗することも、自己顕示欲の発露と考えればどうだろう。
 自分の本を強盗して、どうして自己顕示欲が満たされるか。
今日デビューの新人作家のデビュー作が、出身地の本屋で強盗される。その符号はちょっとしたニュースバリューをもつかもしれない。テレビや新聞は地方局や地方紙に限られるかもしれないが、ネットやSNSの話題をさらうことはあるかもしれない。
 話題になれば、興味をもった大衆が本を買い求めるかもしれない。そうすれば三日月兼城は自己顕示欲も懐も満たせるし、一石二鳥ということだ。
「あの、私SNSで呟きましょうか」
「え?」
 意表を突かれたのか、三日月兼城はたじろいだ。
「目的がそうなんでしょ。自分が、自分の作品がバズること」
 な、なぜそれを、と明らかに狼狽える。包丁を構えてこそいたが、私はもう何も怖くなんてなかった。こちらが強硬な手段に出たりしなければ、この人は包丁を使う勇気なんかありはしないと分かってしまったからだ。
「『うちの店に、今日デビューの三日月兼城を名乗る強盗がやってきて、デビュー作を強盗していった。ちな、三日月兼城はこの街出身。ヤバい!』とか」
 おお、と三日月兼城は感心したように嘆息して、「いい、いいじゃないか」と興奮した。
 三日月兼城が興奮すればするほど、私の頭は急速に冷えていった。相手に考える時間を与えると、ろくでもない要求をしてきそうなので、さっさと帰るよう促そう。
「あの、それじゃあ、早く……」
 言いかける私にさっと包丁を突きつけて言葉を遮り、三日月兼城は「写真も載せたら、臨場感がでるんじゃないか」と頓珍漢なことを言い出した。
「君と俺のツーショットだ。バズる投稿には写真がないとな」
 早く、と手招きをする彼に、私は深い、伊豆・小笠原海溝より深いため息を吐いた。
「あの。犯人と被害者が仲良く写真撮ってたらおかしいですよね。作為的な香りがぷんぷんするでしょ。逆効果です」
「じゃあ、俺が君を刺そうとしてるところとか?」
 もういい加減にしてくれ。創作は紙の上でだけやってくれと思う。どんなコメディ小説だ。
「誰が撮るんです。自撮りですか? おかしいでしょ」
 私が突っぱねると、三日月兼城は「そうかなあ、そうかなあ」と腑に落ちないのか唸りながら考え込んでいた。
「それより、早く出て行かないと、店長が帰ってきますよ」
「ん?」
 驚くことに、三日月兼城は店長が帰ってくることの意味を理解していないらしかった。曲がりなりにも強盗が成立して見えるのは、私が独りだからだ。
「あなたも本当の強盗犯になりたくはないでしょう。顔も名前も晒しちゃってるんだし」
 ああ、と手を打って、ようやく理解してくれたらしかった。「忠告に感謝するよ」
 三日月兼城は包丁を懐にしまって、踵を返して店を出て行こうとするが、自動ドアを潜りかけて足を止め、なぜか振り返った。
「投稿にはハッシュタグをだな……」
 戻ってきそうになるので、私はカウンターの後ろに積んであった本を一冊手に取り、投げるふりをしながら「さっさと帰りなさいよ!」と叫んだ。
 三日月兼城は怖れをなしてそそくさと立ち去って行ったが、彼がいなくなった後で手に取った本を見ると、その本が『ロウアンの彼岸』、三日月兼城の本だった。
 興味本位でぱらぱらと開いてみる。うっと私は瞬間的に閉じてしまいたくなる。句読点は少ないし、改行は皆無で、漢字を多用しているせいでページが真っ黒に染まって見える。その黒の圧力に目を背けたい。せめてもの、と思いで物語の冒頭だけ我慢して読んでみると、三日月兼城にぴったりな書き出しだな、と思って私は思わずくすりと笑みをこぼしてしまう。

 其の外套は私の物でしょう。貴方は唯借物を誇って驕っているに過ぎませぬ。そんな欺瞞はすぐに大衆に打砕かれてしまいます。
『ロウアンの彼岸』三日月兼城著 より抜粋

〈了〉


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