ロールド・オムレット・ストラータ(第1話)
■あらすじ
心を病み、町に流れてきた僕は、町の住人に受け入れられ、新聞屋として新しい人生の一歩を踏み出した。行きつけの、ちょっと気になる女店主のハルさんがいる定食屋。ある雨の日、そこに集まった面々の中で騒動が持ち上がる。トシゾウさんが街の崖から出た石をゾウの骨だと疑わず、それを雨の中掘り起こしに行ってしまう。
フクロウは紙芝居屋で手品師。興業の準備で新聞屋である僕を探すが、トシゾウじいさんのゾウを巡る話に巻き込まれ、シンガーソングライターのカーディガンや定食屋のハルさんにゾウの描かれたコインで手品を見せる。想い合うフクロウとカーディガン。ハルさんに淡い想いを抱きながら踏み出せない僕の前に、奇跡が起こる。
■本編
カウンターのスツールに腰かけながら、窓の外を眺めた。神様が地表にあるものをすべて洗い流そうとしている、と思うくらいしつこくて激しい雨だった。
耳元で蚊がぷうんと羽音をたてる。振り返って手を叩くと、僕の手の中で蚊は潰れた。手には真新しい血がついている。誰の血だろうか。
僕はハルさんに声をかけて新しいおしぼりをもらうと、手をよく拭った。これから食事だというのに、血なんぞ見たくないや、と心が少しささくれて萎れるのが分かった。
「しかしこう雨続きだと気が滅入って仕方ない」
そうこぼしたのは町のパン屋のタカさんだ。タカさんは湯のみで茶を啜っているように見せて、あの中にはビールが入っている。健康診断で肝臓が悪かったとかで、奥さんから飲酒を止められているのだが、どうにも禁酒ができない。湯のみで飲んでいるのは、ハルさんから奥さんに告げ口されるのを恐れてだ。でも、ハルさんはとっくにそんなタカさんの目論見なんぞ見抜いている。
タカさんはパン屋というよりは警察官が似合いそうなほどに体が大きく、筋肉で引き締まっていて、顔も強面だから、そこらのチンピラになめられることもない。でも、実際は気が弱くて、喧嘩なんか真っ平御免と真っ先に逃げ出すような人で、奥さんに尻を蹴とばされて泣きながら配達に出かけるところは、僕も見たことがある。
パン屋としての腕はいい。おススメはコロッケパンとメロンパンだ。コンビニやそこらのパン屋じゃ比肩できないような味だ。僕も小腹が空いたときにコロッケパンをよく食べる。ソースもタカさんのお手製で、市販のものよりも甘みと味が濃い。パンによく合う。
「気なんぞもちようだ、若造。それより心配なのは山だ。ゾウの骨が流れとらんか気にかかる」
そう言ってタカさんの湯のみにビールを注いでいる共犯者が、町では変わり者で知られているトシゾウさんだった。
トシゾウさんはもう七十を超えているのにそうは見えないほど若い。かくしゃくとしているし、歯の一本も差し歯がなく、全部自前なことが自慢だった。白髪を無造作に垂らし、豊かな白い口髭を蓄えたところは、どこか文豪然としているのだが、田舎の少年のように落ち着きがない人だった。
何より変わっているのは、町の北東にある山から、ゾウの骨が見つかったと主張していて、この辺りにはかつてゾウが生息していたのだと、町でただ一人主張している人で、これが学会で認められたあかつきには、新発見されたゾウをトシゾウゾウと名付けるのだと公言して憚らないのだった。
「はい、おまちどうさま」
そう言ってハルさんが僕の目の前に並べてくれたのが、僕がこの定食屋に通う理由の一つでもある「玉子焼き定食」だった。だし巻き玉子が三切れに、甘い玉子焼きが三切れ。プチトマトやレタスが彩に添えられ、ご飯のお供にと、牛肉のしぐれ煮の小鉢や、納豆やオクラ、長芋などねばねば系の小鉢、自家製ドレッシングのサラダの小鉢に大根の味噌汁がつく。
僕はハルさんの玉子焼きが大好物だった。だし巻きのしょっぱい玉子焼きもご飯と一緒に頬張るとにじみ出るだしの味がご飯と絡んでよく合うのと、一通り食べた後に、口の中を締めるのに、甘い玉子焼きほど相応しいものはない、と僕は思う。
初めてハルさんの玉子焼きを食べたのは、三年くらい前だった。
大学を卒業してすぐに就職した広告代理店で、発注ミスをおかした僕はメンターの先輩から苛められるようになり、ある日職場のパソコンを前にしたら体が動かなくなった。異変に気付いた上司がすぐに僕を病院に連れて行き、僕はその日の内に中度のうつ病であると診断を受けた。上司は休職を勧めてくれたが、僕は仕事を続けられる気がしなかったので、申し訳ないが退職させてもらい、僅かばかりの口止め料という名の退職金を受け取って仕事を辞めた。
そして流れ着いたのがこの町だった。
僕は今町で、町内新聞の編集委員を任されている。薄給だけれど、町から給料も出る。男一人、贅沢せずにいれば暮らしていける額だ。
新聞はそれまで、小学校などで配っているようなわら半紙に文字や簡単なイラストだけを載せたもので、編集委員も高齢のおばあさん一人でやっていたので、記事も病気や葬儀のことばかりだった。
僕は編集委員になって、おずおずと町の担当者の元に向かい、新聞をカラー刷りで、上質紙とまでは言わないものの、通常のコピー用紙にさせてほしいと頼み込んだ。担当者は僕と同じかそれより若い青年で、熱心に話を聞いてくれ、上司に談判して予算を回してくれることになった。それから担当課で使っていない一眼レフがあると言って、それも譲ってくれた。
まず、町を巡って色々な風景を写真に収めた。僕の病気は回復していない。人と話すのは苦痛だ。だからまず、町の人たちの暮らしぶりをファインダーに収めることから始めた。そうして一通り町を巡った後で、特に気になった写真に写っていた人たちを紙に書き出し、インタビューすることを箇条書きにメモして、そのメモを片手に一日に一人ずつインタビューした。
一日に一人、というのが僕のキャパシティーだ。それも、一人当たり一時間から、一時間半。それ以上長くなると、手が震えてきて、思考がぐちゃぐちゃになり、逃げだしたい気持ちでいっぱいになって、インタビューどころではなくなる。
タカさんもトシゾウさんも、そうしてインタビューをさせてもらった人たちだった。今ではすっかり慣れて、彼らの前で緊張することはなくなった。
町の議員のヤマネさんのインタビューをしたとき、僕は失敗を仕出かした。ヤマネ議員は自ら新聞に載せるようインタビューを申し入れてきた、強引なところのある人だった。細かいことは思い出したくもないが、ヤマネ議員は僕を怒鳴りつけ、悪しざまに罵った。僕の頭の中はパニックになってしまった。このままだと、あの日パソコンの前で動けなくなったようになる、と怖くなった僕は取材道具をかき集めて抱えてヤマネ議員の家を飛び出し、町をさまよった。家がどこだったのかさえよく分からなくなり、泣き出したくなる一歩手前に至ったとき、目の前にあったのがこの定食屋だった。
町を一通り巡ったはずだったのに、僕はこの定食屋を見逃していて、吸い込まれるように中に入ると、客は誰もいなくて、カウンターを雑巾がけしていたハルさんがちょっと驚いたように目を丸くして立っていた。
開店前だ、と僕は内心で自分の迂闊さに舌打ちしたかったけれど堪えて、踵を返そうとした。するとハルさんはそれを呼び止めて、「町に新しく来た人よね。よかったら食べていきます?」と優しく声をかけてくれた。
失策の動揺と、優しくされたことへの困惑と、美しいハルさんの笑顔に、僕の心はこんがらがった末にちぎれてばらばらになってしまいそうだった。
そんな僕の前に出されたのが、「玉子焼き定食」だった。あの日の味を、僕は生涯忘れることがないだろう。
「むう、やはりいかんな!」と叫んでトシゾウさんが立ち上がり、タカさんが必死に袖を引っ張って止めていた。
「どうしたんです」と声をかけると、「どうしたもこうしたもあるかっ」とトシゾウさんが叫び、僕は思わず体を緊張させた。それがトシゾウさんにも分かったのか、ばつが悪そうに「ああ、いや、大声を出してすまなんだ」と頭を掻いて下げた。
「爺さん、今からゾウの山を見に行くって言うんだよ」
タカさんが困り切った弱弱しい声で僕とハルさんに訴える。
「あら、無茶ですよ、そんなこと。この雨の中」
「無茶なものかっ」とトシゾウさんは再び叫ぶ。
ゾウの山と呼ばれる山はかつて採石場があった跡地が近くにあり、無茶な採石が元で地盤に悪影響を及ぼしているとも言われている。トシゾウさんがゾウの骨を見つけたと主張する辺りは古い地層が剥き出しになっていて、雨の中地滑りを起こしてもおかしくない。僕も一度トシゾウさんに引きずられるように連れられて行ったことがあるが、マーブル状の地層は、どことなく幾重にも折り重なって焼き上がってくる、玉子焼きに見えないこともないな、と思った。
「どうして急に行こうだなんて」
「あの掘りかけていた石……、あれは石ではなくてゾウの骨ではないかと思えてきたのだ。だが、この雨では流されてしまう。貴重な遺物が流される前に、わしの手で掘り出して保全せねばなるまい」
トシゾウさんの手元を見ると、ビール瓶が二本、お銚子が二つ転がっていた。したたかに酔っているに違いない。だが、こう言い出したトシゾウさんを説得するのは容易じゃないことは、その場の全員が知っていた。
「石だよ、ただの石。だからやめとけって。石のために死んだら馬鹿みたいだろ」
タカさんが袖を引き引き、哀願するように訴える。
「石だとなぜ分かる。お前はゾウの骨の専門家ではあるまい。専門家であるわしが言うのだ。あれは骨だ」
あれは骨なのだ!
そう叫ぶとタカさんの手を振り切り、トシゾウさんは店を出て行って雨が降り注ぐ灰色の闇の中に姿を消した。
「僕、追い駆けます」
ゾウの山までの道は覚えている。だが、トシゾウさんは僕の知らない道を通って山まで行くだろう。「秘密の抜け道があってな」と以前酔ったトシゾウさんが自慢気に言っていたのを思い出す。山の前で追いつくのは難しいかもしれない。
「ちょっと待って」とハルさんが呼び止め、壁に掛かっていた女物のレインコートを手渡してくれる。「ないよりはましだから」
僕がそれに袖を通すと、ふわりと甘いような匂いが漂った気がした。窮屈ではあったけれど、細身の僕なら着られないことはなかった。
「少しだけ待って。きっと必要になるから」
そう言ってハルさんはしじみの味噌汁を水筒に注ぎ、手早く握り飯を作ると、余っていた玉子焼きの切れ端と漬物を添えて包んで巾着に入れ、少しでも濡れないようにと保冷バッグに詰めてくれた。
トシゾウさんも、きっと温かいものを口にして、おいしいおにぎりと玉子焼きを食べれば、満足するはずだ。僕はハルさんの真っ直ぐな眼差しに応えて微笑み、頷いてみせた。
雨の中を飛び出す。激しい雨が散弾銃のように僕を撃ち貫く。それでもこれだけは死守しようとハルさんの料理が詰まったバッグを抱え、ただひたすら真っ直ぐに走った。
〈続く〉
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