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私の思考が還る場所(読書記録10)

■はじめに

今回は吉田篤弘著、「京都で考えた」の読書記録です。
こちらは小説ではなくてエッセイとなっておりまして、吉田篤弘さんが小説を書く際に考えている「本当にそうか?」をテーマに、京都の街と絡めて語られております。

小説ではないので、登場人物やストーリーの紹介はありませんので簡素な記録となりますが、よろしければお付き合いください。

■印象に残った文章

  • つまり、「街」を歩くことも、「考える」ことも、その根幹を成しているのは、どちらも前へ進むことである。

  • 前へ進むということ。このきわめてシンプルな事象は常に厄介な怪物を引き連れていて、「考える」ことのあらかたは、この怪物と対峙することから生まれてくる。

  • 本というのはこれすべて過去から届く誰かの声である。

  • しかし、書いている側からすると――まさにいまこうして書いている自分の実感なのだが――本というのはこれすべて未来に向けて、未来の読者に声を届けるために書いている。

  • それはもしかして、傷や汚れを負いながらも、千年にわたって守られてきた事物に触れるためではないか。そこに流れた時間が孕む人々の機微――数えきれないほどの喜怒哀楽を確認するためではないか。

  • 「本」と「街」と「考える」は頭の中でつながっているのである。

  • おそらく、物語というのは、このAに対抗するBというもうひとつの主張があらわれたときに活き活きと動き出す。

  • 書き手としては、この「云い合い」を書き続けることによって、停滞しがちな自分の考えを多角的に進展させていく。たしか、ソクラテスもプラトンもガリレオもこの方法で自分の考えを磨いていた。

  • 「答えはいつもふたつある」

  • とにかく飛行機に乗りたくない。ときどき、街中で頭の上を飛行機が通過していくのに気づくと、あんな高いところに何人も人が詰め込まれて移動しているなんて、「どうかしてる」と思う。

  • もちろん、読んだことで一生のつきあいになる本は沢山あるが、こうして読まなくてもつきあっていけるのが本の奥深さで、これもまた、本が物としてそこに存在するからだと思う。

  • 本当に気になる言葉は、見失っても残像のように消えのこる。

~吉田篤弘著、「京都で考えた」より抜粋~

■京都の不存在

吉田さんは「考える」ときには京都を巡り、そこの喫茶店などで執筆をされると書いています。自分のフィールドである東京、「ここ」、から、フィールドの外である「そこ」、京都に行くことで考え、「ここ」と「そこ」の境界に身を置くことで物語が湧き出てくるのだと。

では私にとっての「ここ」と「そこ」はどこだろう、と考えると、「ここ」は今住んでいる場所です。でも、「そこ」に当たる場所がない。何かあるとつい足を向けてしまう――できれば遠くがいいと吉田さんもおっしゃっていますが、それが私にはない。つまり私には京都がないのです。

ひょっとしたら私は「ここ」でばかり物事を考えているから、思考が停滞し、淀んでいくのではないかと思えてきます。

どこか「そこ」を見つけ、行かねばならない。そう思います。

■考える・書く場所

みなさんはたとえばnoteの記事でもいいです。書くとき、どこで書いていますか?
自宅、という方が多いのだと思いますが、私はnoteの清書こそネットに繋がねばならないので自宅でやりますが、小説などの下書きは近所の図書館や、足を伸ばしてコメダ珈琲などに行って書きます。最近では家にいると書けません……。気づくと夢の世界にいることが往々にして。

記事の内容のアイデア出しは、主に散歩中や入浴中にやります。
特に入浴中が一番小説のアイデアが浮かびやすいです。なので基本入浴は子どもとではなく、一人で入りたいのです。子どもも私と入ると体が洗えてないだのなんだのとうるさく言われるので、入りたがりません。

遠くへはなかなか行けませんが、幸い近くに歴史のある街がありますから、そこへ足を向けて、ぶらぶらと思索をしたり、ちょっとカフェに寄って執筆をしたりするのもいいかもしれない、と密かに計画しています。
その街が私にとっての「そこ」になるかもしれませんね、ちょっと近すぎますが。

上の印象に残った言葉にも書きましたが、吉田さんは大の飛行機嫌いで。そして私も同様です。新婚旅行のためやむなく乗りましたが、フライトの時間中ずっと座席とトイレの往復でした。拷問です。

それ以外にも書かれていることは私も普段考えていることだったり、自分と共通項が多くて、改めて親近感を抱いたというか、作家の小説ばかりでなく、こうしたエッセイを読む機会というのも、いいもんだなあと腕組みをしてしみじみと感じ入った次第です。

■私を取り巻くABC

物語の主役は作者の考えるテーマを抱えて立ち上がります。
これが燃える情熱のAくんです。
そこへ「おいおい、ちょっと待ちな」と物事斜に構えて見るニヒルなBくんが反対意見をもって現れるのです。

物語のステレオタイプな構造ですね。
テーゼがあればアンチテーゼが必然的に現れる。正義と悪、富める者と貧しい者、対立する意見がなければ物語が推進力をもたないこともあります。

正義のヒーローは街や人を脅かす悪の組織が存在しなければ、なんの活躍の場もありません。

吉田さんの言葉を借りるなら、「本当にそうか?」と考えてみます。

正義のヒーローをA、悪の組織をBとします。

ここで無力な、街に住むただの人々Cが現れます。
彼らCの視点で見たとき、危険なのはBだ、というAの意見にCは賛同します。

ですが、そもそもBがなかったら、CにとってAとは、活躍の場がないヒーローではなく、自分たちに危害を及ぼしうる「力」をもった危険な存在となるのではないでしょうか。そうしたら、CはやがてAに対する迫害を始めるかもしれません。

物語の形が変わるわけです。
もちろん、視点(ここでは立場のことを指しています)が多くなればなるほど、物語を操るのは難しくなりますが、普段からこうした視点をもって物事を考えていると、基本からずらした物語の練り方というのが練習できます。

前提として、物語の基本形を把握している、という条件がつきますので、古典と呼ばれるものは必修になりますし、最近の物語のトレンドを抑えておくという意味では最新のものの履修も必要です……。つまりは読んで読んで読むしかないということで、なかなか険しい茨の道。

ということで、今回の読書記録はこの辺りにいたしましょう。
それでは、次回の読書記録で再びお会いできますよう。

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