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虚構日記~6月2日~

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■本編

 六月二日(日)
 今日は生憎の雨模様だったが、日曜ということもあって、ハルさんがシャルを買い物に誘いにやってきた。紫の面倒を見ているから行っておいでと提案したのだが、紫がハルさんにしがみついて離れようとしないので、結局二人が連れて行くことになり、私は手持ち無沙汰になった。
 紫がいてはのんびり自分の買い物など見て回ることができないので、私は私で買い物に出かけることにした。
 夏物の服をまだ買い揃えておらず、春先に着るようなシャツやジャケットを着て歩いているので、夏に備えて涼しい格好を揃えておきたいところだ。それからしばらく書店で新刊のチェックをしていなかったから、目ぼしいものが出ていないかどうかも見ておきたい。
 私は家を出ると車に乗りかけて考え直し、傘を差して歩いて行くことにした。雨が降っていると歩くのが億劫になるが、降りしきる雨が空気中にも溶けて漂っているような重い雰囲気と、雨特有の音、車の濡れた走行音、雨粒が地面を叩く音。そうしたものが好きだった。
 並木道を歩いていると、時々雨の重さに負けた枝が跳ねて雨粒を飛ばし、傘に降り注いではたはたと音をたてることがある。それがシャル流に言うと「趣があって」、私は好きだ。
 シャルは私が生み出した人物だ。だが、あくまで生んだのが私であって、シャルの人生はシャルのものだ。彼女とは、こうした雨の日に出会った。
 傘も差さず、濡れた赤い髪を顔に張り付かせて、シャルは駅前広場の植え込みの前の石垣に座っていた。濡れたことで妖しい魅力を振りまく彼女に街ゆく人々は目を留めたが、声をかけようと試みる者はいなかった。
 私はその日仕事の用事で隣県まで電車で行き、帰って来たところだった。濡れそぼった彼女の姿を見た瞬間、それがシャルロッテであることはすぐに分かった。近づいていき声をかけた瞬間、シャルは顔を上げて私の顔を視認し、安堵したように、だがぎこちなく微笑んで気を失った。
 それが随分遠い過去のことに思える。だが、ほんの数年前の出来事だ。
 私はなんだか感傷的な気持ちになって、駅前へと足を向けた。家から歩けば距離があるが、散歩にはちょうどいい。
 濡れたシャルを家に連れて行くと彼女はすぐ目を覚ましたので、私は風呂を沸かしてやった。
「なぜ私を助けた?」とシャルは猜疑心に満ちた赤い瞳で私を睨みつけるように見て言った。
「ぽち丸を思い出して」
 ぽち丸、と怪訝そうに目を細め、呟く。
「ああ、すまない。昔うちで飼ってた犬で。何回か逃げ出したことがあるんだけど、決まって雨の日だったんだ」
 話が見えないな、とシャルは私が貸したオーバーサイズの私のTシャツの裾を引っ張りながら不信感を滲ませて言った。
「うん、そうだな。とにかく、雨の日に逃げたぽち丸は、駅前広場でいつも私を待っていた。待っているくらいなら逃げなきゃいいのに。迎えに行くとしっぽを振って喜んでついてきて」
 必ず駅前広場の真ん中で、お座りをして待っていた。行きかう人には目もくれず、私がやってくる、家がある方角をじっと見つめて、雨に打たれて待っていた。
「犬と一緒にしてくれるな」とシャルはむっとしながら言うと、私の視線を気にしながらソファに腰かけた。
「そうだよな。でも、なんだか思い出してしまって。そうしたら、放っておけなかった」
「そのぽち丸とやらはどうしてるんだ」
 シャルは部屋を見回してた。その姿を見ていると、どこからかまたぽち丸がかけてきて、私にじゃれついてくるような気がした。
「死んだよ。私が高校生のとき、信号無視のトラックにはねられて。ぽち丸がいなければ、私も死んでただろうね」
 すまん、とシャルは申し訳なさそうに頭を下げ、項垂れた。
「だが、私はぽち丸の代わりにはなれない」
 そう言って謝るものだから、私は意表を突かれて笑ってしまった。笑った私を、シャルは釈然としない顔でみつめていた。
 私はぽち丸の代わりなんて求めていなかった。きっとシャルに手を差し伸べたのは、あの日救えなかったぽち丸への贖罪みたいなものだったのだろう。実に浅はかで、都合のいい考え方だ。だがその未熟さが、私とシャルを結びつける橋渡しとなったのだから、人生何が役に立つのか分からない。
 私は駅前に辿り着くと、感慨深く広場を眺めた。雨のせいか人通りはまばらだが、中央に聳える真新しいブロンズのモニュメントの周囲にはスマホを操作した数人の若い女性や、スーツ姿のサラリーマンが佇んでいて、シャルがいた植え込みの前には一人の女性が立っていた。
 黒髪ショートカットの女性で、黒いレザージャケットにジーンズを履いて、足元はレザーのロングブーツだった。植え込みの方を見ているので顔は窺えないが、この雨の中だというのに傘を差していなかった。
 シャルを思い出させるその女性に、私は自然と近づいていた。そして傘を差しだし、「使いますか」と声をかけていた。
 女性は私の声に気づくと振り返り、驚いた様子もなくにこっと口角を上げて笑むと、「大丈夫です。お構いなく」と答えた。
 女性は顎が細く、顎から頬にかけてのラインが細く引き締まり、小顔だった。黒い眉は意志の強さを示すかのように濃く太く、その線のシャープさがきりりと引き締まった印象を与え、大きな目と鳶色の瞳が、凛とした風情をそこに加えている。
 美人だな、と思うと同時に、どこかで見たことがある顔のような気もした。だが、その答えが掴めそうなところに置いてあるのに、邪魔する鉄格子があるせいであと数センチ届かないようなもどかしさを、私は感じていた。
「あれ、ひょっとしたら水瀬くんかしら?」
 こちらが思い出せないのに、相手に機先を制せられて、私はいささかたじろいだが、やはり知己の相手だという推測は合っていたらしい。だがそれが誰かは思い出せない。
「ひょっとして忘れちゃった? わたしキキョウです。中学まで一緒だった」
 あ、と私は声を上げていた。確かに言われてみればキキョウの面影があるが、中学生の頃とは顔立ちがまるで違って見えるし、化粧に覆われていることも、思い出す妨げになったに違いない。
「君があのキキョウ?」
 私の中のキキョウは、野山を駆けずり回っていた私やクロウと一緒になって遊んでいた、活発で男勝りなキキョウで、女性らしいたおやかな顔つきのキキョウではなかった。人とは、女性とは成長することでこんなにも変わるものかと、まさしく度肝を抜かれたような気分だった。
「そうよ。でも水瀬くんは変わらないね。あの頃のまま大人になったよう」
 懐かしむような、羨むような眼差しでキキョウは言った。
「それは今も子どもっぽいってことか。それとも当時が老けていたってことか」
 キキョウは声を上げて笑い、「後者じゃない?」と首を僅かに傾げて言った。
「傘、使えよ。相手が俺なら遠慮はいらないだろ」
 そうね、と頷くと、キキョウは私の手から傘を受け取って差した。「あなたも濡れちゃうわ」と言って私の腕を引っ張って身を寄せ、二人で傘の下に入る。
「こんなことで何をしてたんだ」
 私とキキョウの身長はほとんど同じだった。女性としてはかなり高いと言えるだろう。だから、ちょっと横を見ようとすると、身を寄せ合っているせいで、キキョウの白くやわな頬や寒さに血色の悪くなっている厚い唇などが嫌でも目に入る。おまけに香水か柔軟剤なのか、肌の匂いと混じった甘い香りが漂っているので、目の前がくらくらするようだった。
「人を待ってたの」
「人」と鸚鵡返しに私が言うと、キキョウは「そうよ」と頷き、思わせぶりな目でじっと私を見つめる。
「水瀬くん。君をね」と真剣な顔で言った。
「俺を」と意図の読めないキキョウの言葉に動揺する。するとキキョウはぱっと笑顔になって、「なんてね。冗談」と肩を竦め、「今は職務中」と言ってジャケットの内ポケットから手帳を出して広げて見せる。
 それは単なる手帳ではなくて、警察手帳だった。
「キキョウは今、警察官なのか」
 そうよ、と頷くと手帳をポケットにしまって、「久闊を叙したいところだけど」と残念そうな顔をする。「今は職務中だから。ごめんね」
 いや、いいよ、と手を振って、私は「じゃあ、いずれまた」と去ろうとする。それをキキョウが呼び止めて、私の耳元に口を寄せて囁く。
「わたしは今反政府組織の調査をしているの。水瀬くん。クロウと最近会ったりしていない?」
 クロウが、と私を声を上げてしまい、「しっ」とキキョウに手で口を塞がれる。
「騒がないで。あなたにも疑わしいところがあれば調べなければならないわ。で、どう。クロウからの接触はあったの」
 私は黙ったまま首を横に振った。
「そう、残念ね」と言うとキキョウは私の口から手を離した。
「クロウは、あの男は」とキキョウは憎悪を滲ませて言った。
「目的遂行のためなら手段も犠牲も厭わない男よ。一人の要人を殺すために、何千人と犠牲にするような」
 確かにクロウは子ども時代から合理主義的なところがあった。必要とあれば、肉親すら迷わず殺しそうな狂気を孕んでいるような、そんなところが。
「クロウが、反政府主義者」
 私の言葉に、キキョウははっきりと頷いた。
「わたしは奴を追っている。もしあなたに接触するようなことがあれば、連絡して。凶行が行われる前に、何としてもクロウを捕まえなければ」
 キキョウの目には強い意志が宿っていた。執念と言い換えてもいいかもしれない。
 私の初恋の相手は、キキョウだった。だが、キキョウはずっとクロウに思いを寄せていた。キキョウに恋い焦がれていた私だから、キキョウの想いの在処ぐらい、私には分かった。だから身を引いた。クロウが相手では、勝ち目がないと思ったからだ。中学校のとき、二人は急接近していた。優秀だった二人は揃って進学校に進み、そのまま関係を温めているものだと、私は勝手に思っていた。
 それが、こんなにもクロウに敵愾心を剥き出しにするキキョウを見ることになろうとは。
「もしあなたがクロウを隠し立てしたりすれば、わたしたちはあなたも逮捕しなきゃならなくなる」
 分かるわよね、と脅しつけるような低い声で言う。クロウが反政府組織に身を投じたと同じように、キキョウもまた刑事になって、私の知るキキョウではないのだな、と思い知らされる。
「これ、わたしの連絡先。何かあったら連絡して」
 そう言ってキキョウは名刺を取り出すと、私の手に握らせる。
「決してクロウの言うことは信用しないで」
 念を押すように言うと、キキョウは「傘、ありがとう」と言って傘から出て行き、走ってその場から立ち去った。
 私はその日の予定をすべてキャンセルし、家に帰って自室にこもった。クロウが反政府組織に身を置いていることも、クロウとキキョウの反目もショックだったけれど、一番堪えたのは、美しい思い出に浸っていたのは自分だけだったというお気楽さにだった。現実はいつも想像を超えて、思いもしない望まない結末へと、人を導くのだ。
「いるのか。入るぞ」とノックして、遠慮がちにシャルが扉を開ける。
 私は椅子を回して振り返ると、「紫は」と訊いた声が自分でも驚くほどしゃがれて疲れ切っていることに気づいた。
「一日中連れ回してしまったからな。今はぐっすり眠っているよ」
 そうか、と頷いて私は膝に両手を置き、大きく息を吐いた。
「何かあったようだな」
 私がその問いに答えずにいると、シャルは私の隣に膝を抱えて座り、私の顔を見上げた。
「言いたくなければ言わないでいい。ただ一つ忘れないでくれ。私はお前の味方だ。いつまでも」
 シャルのそっと柔らかな微笑みに、私はクロウとキキョウもかつてはそんな関係だったに違いないと思った。キキョウは何があっても味方でいるつもりだったのだろう。だが、クロウの身の処し方はその「何があっても」の範囲を逸脱するものだ。警察官というキキョウの立場では味方でいることなどできようはずもない。それならば。
 自分の手で、始末をつける。
 真面目だったキキョウなら、そう考えてもおかしくはない。
「シャル。もし私が道を踏み外したときは、君の手で私を」
 殺してくれ。
 そう言いたくとも、言えなかった。クロウならきっと言ったに違いない。だが、私にはそんなことを言う度胸はない。それに、シャルに手を汚させるような、彼女を悲しみと苦しみの坩堝に突き落とすような残酷なことは、私にはどうしても言えなかった。
 シャルは怪訝そうに私の顔を見上げている。私は「いや、なんでもない」と首を振って言葉を打ち消すと、椅子から立ち上がった。
「お腹が空いたよ。今日の晩御飯は何かな」
 シャルも床に手を突いて立ち上がり、「今日はカレーだ」と言ってそっと私の手を取る。
 鍋の煮える音は、人ごみの喧騒に似ている、と私はいつも思う。

〈後日に続く〉


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