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イステリトアの空(第18話)※最終話

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■本編

 葵さんが消えてしまって、途方に暮れていた僕は、やがて自分を取り戻して両手で頬を二度強く叩いた。ひりひりとしたけれども、頭はすっきりとクリアになった。
 僕はアパートの自分の部屋の前まで来ると、ゆっくりと、扉を開く音がしないように開けた。父さんに殴られるのが嫌で身に着けた技術で、我が家に音もなく忍び込むことなんて朝飯前だった。
 玄関には父の革靴と、女物の赤いピンヒールがあって、ピンヒールの片方は倒れていた。
 靴のまま足音を殺して廊下を進むと、正面のリビングから光が漏れているのが見えた。右手のトイレには誰もおらず、左手の六畳の僕の部屋にも誰もいない。さらに進むと、左手にあるキッチンが荒らされ、皿が割れて粉々になっていたり、フォークやスプーンなどが散乱していた。リビングの戸をそっと開けると、目の前の電話機の乗った木製のキャビネットは中身が出されて押し寄せる波のように白い紙が床に広がり、電話機はコードが切られて受話器が離れたところに転がっていた。
 ソファの影に入りながら進み、さらに扉から死角になっていた部屋の様子を眺めると、惨憺たる惨状だった。隣の和室の箪笥は倒れて衣類が散乱し、洗濯物を干すパイプラックはへし折られて原型を留めていない。リビングのダイニングテーブルは足が折れて傾いていたし、天板がひしゃげていた。窓は割れ、カーテンは鋭い爪でひっかいたように裂かれていた。
 テレビの前のソファに人影があった。父だ。ほっとして僕は声をかけようとしたが、父の表情が虚ろで、瞬きをしないことに気づき、声を抑えてじっくりと父の様子を観察した。よく見ると、父の首から下は真っ赤に染まっていた。シャツは肩から腹の辺りにかけて赤く染まり、首筋に切り傷があり、胸に包丁が突き立っていた。口は半開きで、はみ出た舌の先端が切り落とされていた。
 父はここで死に、イステリトアへ渡ったのだ。もし僕たちが早く着き、父を助ける結果になっていたら、旅行代理人は消滅し、歴史はすべて変わっていたかもしれない。それを防ぐため、旅行代理人は待ち構えていたのだろうか。
 ずる、ずる、と濡れた足音が聞こえて、僕は思わず身を低くして隠れる。
「おかしいわね。あの子はどこかしら」
 母であったものは前傾姿勢でゆらりゆらりと左右に揺れながら、周囲を見回している。手には柳刃包丁が握られている。
 どうする、どうする。僕は問いを頭の中で繰り返した。かつて空は桜華だったとき、剣の達人だった。その達人相手に素人で、しかも子どもの僕が突っ込んでいったところで、返り討ちに遭うのが関の山だ。こっちには遺物が二つ。『絆の指輪』と何の効果か分からない腕輪。戦力としては心もとないことこの上ない。
 見たところ、空は『吸命の剣』を持っていないようだった。『不動の匂い袋』については隠し持っていられては確かめようもないが、恐らくその二つは葵さんとの戦いで失われたのだろう。あの柳刃包丁は見たことがあるから、遺物ではない。
 空の姿を見たとき、僕は対話による穏便な解決、繋がりの構築という可能性は捨てた。あれは、そんな次元を超越した存在だ。
 こちらが遺物の力を使えることはぎりぎりまで隠した方がいい。葵さんの消し去りの力を知る空なら、たとえ葵さんの百分の一の威力でも、牽制にはなる。だが、そもそも接近するまでが困難だ。包丁は日本刀ほどの間合いはないとはいえ、入り込めば死が待っている。口の中に宝玉を押し込むには間合いのさらに内に踏み込まなければならない。
 とにかく、やってみるか、と体を起こしかけたところで、頭上から声が降ってくる。
「見つけた。こんなところにいたのね、冬悟」
 慌てて飛びのくと、僕がいたところに包丁が振り下ろされ、フローリングの床半ばまで包丁が突き刺さっていた。
「あら、逃げることないじゃない。お母さんよ」
 空だと知っていることは、素知らぬふりをしながら、「母さん、どうしたの、危ないよ」と怯えたふりをした。
「ああ、ごめんなさい。目障りなハエがいたものだから。さ、大丈夫だから冬悟、いらっしゃい」
 これは好機かもしれない。空はまだ僕を侮っている。接近して消し去りの力を使って行動不能にして、宝玉を飲ませる。作戦としてはそれしかない。
 僕はゆっくり近づいて、右手に神経を集中させる。勝負は一瞬だ。相手の遺物の力を使わせず終わらせる。それしか僕には勝ち目がない。
 包丁の間合いに入った。でも、空はそれを振り下ろす素振りを見せない。多分、母親だと信じ込ませて裏切り、絶望する顔が見たいのだろう。だが、その慢心がお前の敗因だ、空。
 僕は懐に入り、母の、空の胸に顔を埋め、消し去りの力を発動させようと空の胸に手を置いた。その瞬間、ポケットから宝玉が落ち、床とぶつかってごとりという音を立てて転がった。先ほどの包丁の一撃が、どうやらポケットのところをかすめていたらしい。血の気が引いた。顔を上げると、空は不思議そうな眼差しで転がっていく宝玉を眺めていたが、やがて怒りに顔を歪め、悪鬼のような形相で僕を見下ろした。
 空は包丁を振り下ろしたが、もうそこには僕はいなかった。咄嗟に時渡りの力に切り替えて十分な間合いをとって離れたのだ。止めていられるのは十秒そこそこだったけれど、この狭い空間なら効果的だ。空の近くでは遺物の効果が制限されると聞いていたけれど、これぐらいの効果を発揮してくれたことに安堵する。僕はすぐに時渡りの指輪を発動し、距離をさらに保つ。よし、と内心ガッツポーズをする。読みは正しかった。恐らく僕には、空の力に対する抵抗力のようなものがある。
「その力、遺物の力ね。誰に何を吹き込まれたのか知らないけれど、あなたは騙されているのよ。お母さんとその人たち、どっちを信じるの」
 僕は胸を押さえる。時渡りの反動だろうか、胸が刺すように痛い。でも、視線は空から一時も離さない。離せば待っているのは死だ。だけど、時間稼ぎが必要かもしれない。僕だけじゃやっぱり勝てない化け物だ。葵さんが旅行代理人を倒して戻ってきてくれるのを待つ方が賢明だろうか。いや、そんな弱気じゃ勝機があっても掴めやしない。
「いつまで母さんのふりをするんだよ、空。お前が何者なのか、僕は知ってるぞ」
 空はぴくりと眉を動かすが、すぐににこやかな笑顔になる。
「ほら、あなたそんなに辛そうじゃない。それは使ってはいけないものなのよ。あなたは騙されて使わされているの。命を削って、一体なんになるの」
 僕も空も迂闊に間合いを詰めない。だが、逆に下がろうとする素振りを見せると、空は詰めてくる。空も僕の後ろにある宝玉を気にしている。僕にそれをとらせたくない。あわよくば奪いたいという欲が透けて見える。
 だがそうした硬直は十秒も続かなかった。空はにやりと笑むと、無造作に間合いを詰めてくる。僕はやむなく時渡りの力を使って宝玉を拾ったが、力を維持できたのはそこまでだった。七秒。短くなっている。使えば使うほど消耗し、効果時間が短くなる。振り返った僕の顔の横を凄まじい速度で柳刃包丁が走り、後ろの壁に突き立った。空が投げたのだ。だが空も手を伸ばせば僕を捉えられる距離にいた。
「時渡りの力。藤堂葵が指輪を渡したのかもしれないけれど、あの子ほどは使いこなせないようね」
 空の生ぬるい手が僕の頬を撫でる。得体のしれない軟体動物に撫でられているような、そんな気色悪さがあった。
「それもそうよ。藤堂葵は選ばれし英雄。でもあなたは何者でもないの。ただの子ども。英雄の真似事をしても、それはおままごとに過ぎないわ」
 知っているよ。僕は口には出さなかったけど、心の中で答えた。葵さんも、春洋さんも、正宗さんもソフィヤさんも、目狩りのおじさんだって運命に選ばれた人たちだ。でも僕は違う。違うからこそ、彼らにできなかったことができる。英雄ではない、数多くの人たちの意志を紡いで、繋げていくことができる。
 僕の目は絶対に闘志を失わない。それが気に入らないのか、空は右手を掲げた。右手は異形の手と化していて、鋭く長い爪が生えていた。その爪で僕の肩を斬り裂く。痛みに顔を顰めるものの、目は空の目から逸らさない。空の顔がみるみる不愉快の色に染まる。
「あなたは私の糧。それ以上でも以下でもないのよ。私がより高位の存在になるためだけに生んだ子どもという肉塊。それがあなたなの」
「何を怖がっているの。英雄でもない、ただの子ども相手に」
 僕の挑発に冷静さを少し取り戻したのか、空は「時渡りの力を得たぐらいで、いい気になるなんて子どもね」と顔を潰されたようにくしゃくしゃにして笑って、上を向いて口を大きく開けた。口の端は裂けて、真っ赤な口内が見えていた。そこに手を突っ込むと、ずるずると棒状のものを引き出していく。僕の身長ほどはあろうそれは、両刃の剣だった。刀身と柄だけの剣で、柄頭には柘榴石が埋め込まれていて、刀身には僕の読めない文字が綴られていた。無骨な剣だけれど、存在感のある剣でもあった。
「これは異世界イステリトアで、僭称王と呼ばれたアラベルという男が使った剣よ。アラベルは残念ながら藤堂葵に討ち取られてしまったけれど、剣だけは回収しておいたのよ。とても貴重な効果をもった剣だったからねえ」
 赤杯騎士団のアラベルの剣。精神を操る遺物。実物を僕も見た。ということは僕にも精神操作の力が使えるはずだ。だけどその効果は空のものよりも遥かに劣るはず。ほんの一瞬判断を迷わせる、ぐらいの効果しかないと思った方がいい。でも、これで僕にも手持ちのカードが増えた。
 もう一つ、僕には手札がある。部屋に入ったとき、こっそりとキテンを放しておいたのだ。キテンはきっと、僕の力になってくれるだろう。今はどこに隠れているか分からないけれど。
 アラベルの剣の使用を許せば、それはイコール僕の敗北を意味する。この後の数秒は、いかにアラベルの剣を防ぎつつ、空の懐に潜り込むかだ。ただ、僕の推測が正しければ、「絆の指輪」は空にとって弱点となる。それは、複数の遺物の効果を使っていても、一つの遺物しか使っていないということだ。そして、どういうわけか僕はタイムラグがなく次の能力を使える。勝機はそれらにしかない。
 空がアラベルの剣を振りかざそうとする。先んじて使っていた僕の一つ目の力が効果を発揮する。空の動きが止まり、驚愕の表情を浮かべる。「う、動かない。あなた、遺物は一つじゃなかったの」
 一つ目は「不動の匂い袋」。多分動きを封じられるのはほんの一瞬。でも、それで僕には十分だ。「垣間見の数珠」の力で空の動きを読む。続いて「時渡りの指輪」の力を使って懐に潜り込む。効果は五秒ほどで切れる。胸や手足に鋭く激しい痛みが走る。でも、そんなことに構っていられない。懐に入られたことを悟った空の爪が振り下ろされてくる。僕は「天走の指輪」の力で跳ね上がり、爪を左腕にかすめながら宙に飛び、空が振り上げていたアラベルの剣に触れ、「消し去りの指輪」の力を使う。空の腕ごと剣は消え去り、僕はソファの上に背中から落ち、勢い余ってフローリングに落ちる。
「なぜ。なぜなの。立て続けに遺物の力を行使できるだけじゃなく、失われた遺物の力まで」
 空の消失した右手の先からだらだらと血が零れ落ちていた。まだ空は僕の力に気づいていない。畳みかけるなら今しかない、そう思って立ち上がろうとした。だが、想像を絶する、全身をばらばらに引き裂いてハンマーで粉々に砕いたような、凄まじい痛みが襲ってきて、僕はのたうち回った。
「ふ、ふふふ。どうやらあなたの力も何らかのリスクを伴うようね」
 空は左腕の爪を真っ赤な舌で舐めながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。一息に距離を詰めないのは、警戒しているからだ。だが、僕が痛みで身動きできないと知ると、勝ち誇った笑みを浮かべて跳躍して僕の枕元に着地して、「お母さんに逆らった子には、罰をあげないとね」と心底嬉しそうに言って爪を振り下ろした。
 爪は僕の肩に深々と刺さる。だがそれが意外だったのか、空は「あら?」と首を傾げ、僕を突き刺したまま眼前まで持ち上げた。
「ねえあなた、また何かしたかしら」
 ああ、したよ、と僕はおかしくて笑いをこらえながら言った。空の顔が不愉快そうにくしゃっと歪む。
「何をしたの。言いなさい」
 そう言いながら、空は口を大きく開けた。なぜ、という目をしていた。
「この期に及んで何をされたか気づかない、その愚鈍さがお前を滅ぼすんだ、空」
 僕はポケットから宝玉を取り出して、空の口の中に押し込んだ。そこで僕が施していたアラベルの剣の精神操作の力は途切れ、空は全力で吐き出そうと抵抗した。僕は手を突っ込んだまま喉奥に押し込もうとしたが、肉の壁に阻まれて飲み込ませられない。
 空は抵抗しながら、僕の腕を食いちぎろうと嚙みついた。万力で締め上げられるような痛みに、僕は絶叫を上げる。このままじゃ本当に食いちぎられる。なら、と僕は「吸命の剣」の効果を発動する。だが僕にはせいぜい、空に食いつかれている腕の傷を気休めに癒すぐらいの生命力しか吸い取れない。空を弱体化させるには程遠い。
「そうか、あなた」
空に僕の力がばれた。そう思ったとき、キテンが走ってきて空の口を押し広げ、その中に飛び込んだ。
 キテンは喉奥に滑り込むと、宝玉を支え、小さな体で懸命に玉を押して奥に押し込もうとしている。でも、僕らの力を合わせてもまだ足りなかった。押し込むにはあと一歩、あと少し何かが必要だった。力が必要。力が。僕が強く望んだそのとき、腕にはめていた腕輪が光った。すると僕の腕に力が漲り、宝玉を空の喉奥へと押し込み、飲み込ませることができた。後は吐き出させないようにするだけだ。
「キテン、こい!」
 僕は叫んで、空の上あごと下あごをそれぞれ掴み、無理矢理押し広げた。顎の骨が外れる音がした。キテンがするりと口の中から逃れ出ると、僕は今度は掴んだ上あごと下あごを叩きつけるほど強く閉じ、うつぶせに押さえつけた。
 空は抵抗して口を開こうともがくが、腕輪の力を得た僕の腕力には敵わなかった。爪を滅茶苦茶に振り回し、それが僕の腕や顔を傷つけたけれど、けっして腕の力を緩めたりはしなかった。
 やがて空はぴたりと抵抗することをやめて動かなくなり、腹がどんどん膨れて、はち切れんばかりになったところで急速に萎み、腹の中心に向かって体が収束していくように空間に飲み込まれ、最後の一欠けらまで飲み込まれたところで眩い光を放ち、光もまた空間の一点を中心に集まるように消えた。
 後に残されたのは静寂だけだった。
 僕はその場にへたり込んで、最後の力を貸してくれた腕輪を撫でた。この腕輪の力がなんなのか、正確には分からない。持ち主に怪力を与えるものかもしれないし、持ち主の願いを叶えるものかもしれない。
 なんにせよ、僕は勝ったのだ。葵さんですら、完全に勝つことはできなかった空に。
 全身が引き裂かれそうに痛い。指先を動かすことにすら困難を感じる。でもいついつまでこうしていても、もう空は戻ってこない。母さんも。
 母さんは最初から空だったのだろうか。それとも、ある時点から空という存在に目覚めてしまったのだろうか。
 空になってしまうまで、母さんは僕にとって優しい母さんだった。僕の好きなじゃがいもをごろごろと入れたカレーを作って、帰りを待っていてくれる、そんな温かい母さんだった。それすらも演技だったのか、それとも空という存在がいなければ、僕らはまだ温かい親子でいられたのか、いくら考えても答えは出ない。
 母さんは空として滅び、父さんは旅行代理人として滅ぶのだろう。まだ葵さんは戻ってこないけれど、僕には葵さんが負けるところは想像できなかった。常勝無敗。そんな言葉を背中に背負って颯爽と立っているような人だから。
 血の繋がった家族はいなくなった。でも、どこか清々しい気分だった。薄情なのとは違う。僕は旅立ちを予感していた。だから、何も持たず、何にも縛られず広い大地に足を踏み出せるのは、とても気分が高揚するものだと思った。
 キテンが駆け寄ってきて、僕の肩に乗る。そして体を僕の頬に押し付けてこする。
「ごめんごめん。僕は一人じゃないよね。キテン、君がいる」
 キテンは甘えたような鳴き声を上げる。
「僕は世界を旅してみようと思うんだ。葵さんや、ソフィヤさんのように。そして、誰よりも強い絆をこの指輪に刻んで、いつかイステリトアへ行く」
 つるはしを担いで、ベランダに出た。手をかざし、遠くまで見晴るかす。巨岩の森のようにビルやマンションが林立している。
 人は誰しも目狩りなのかもしれない。何か大事なものを探して岩の中を掘り続けている。
 僕は部屋の中から母さんがよく使っていた赤いストールを出して首に巻き、父さんが仕事に行くとき着ていた白いカーディガンをマントのようにして羽織り、葵さんを真似てサングラスをかけた。
 さあ行くぞ。目狩りでヒーロー。僕は新しい存在になる。世界を見晴るかす。

〈了〉


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