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イステリトアの空(第12話)

■これまでの話

■本編

 悪夢を見た。内容は覚えていない。だが、自分の罪を糾弾されるような、苦しく恐ろしいものだったことは記憶に残っていた。
 跳ね起きると、全身にぐっしょりと汗をかいていた。
 生きている、と正宗は自分の掌を眺めた。顔を上げて見回すと、広い部屋に寝かされている。襖にはどこかの滝と鳥を描いたものであろう水墨画があしらわれていて、欄間の彫りも精巧な龍や鳳凰等が刻まれていた。寝かせられている寝具も上等なものだろう。正宗はこれまでこのような寝心地の寝具に横たわったことがなかった。
「お目覚めになりましたか」
 にこやかな顔でつるりとした卵顔の美しい青年が開け放たれた襖の外に膝を突いて座して、朗らかに言った。
「あ、ええ。私はどうやら、このお屋敷に御厄介になったようで」
「そうですね。まあ、実際危ないところでした。小川先生が偶々江戸に来ていたからいいようなものの、一歩間違えばあの世行でしたろうね」
 小川先生、と怪訝そうに口にすると、青年は「関東八州で随一の名医、と自称していらっしゃるお医者様ですよ」とおかしそうに言った。
「自称、ですか」
「ええ。でも確かに腕はいいようです。あなたに盛られた毒物もぴたりと当ててみせましたし」
 毒、と聞いて体の痺れを思い出す。痺れはもうないようだが、体が固まってなまってしまっているような気がした。一晩寝ていた、というわけはないらしい。
「何の毒だったのです」
「トリカブトですよ。症状から見て、量は殺す気で盛られたものではないようですが、効きすぎてしまったようです」
「何日眠っていましたか」
 青年は指を三本立てて突き出す。「三日です。もう夕刻ですから、四日近くですね」
「それは誠に申し訳ない。ここまで世話になっておきながら、私には報いることができるものなど……」
 ああ、と青年は慌てて手を振って、「主も見返りを求めてしたわけではありませんよ」と否定する。
「ただ、あなたが目覚めたら会いたいと主がおっしゃっておられました。無理にとは申しませんが、いかがいたしますか」
「助けていただいた礼を申し上げたい。こちらからもぜひ御目通り願いたいとお伝えください」
 承知しました、と頷いて青年は下がる。
 正宗は格子縞の寝間着を脱いで、枕元に洗濯して丁寧に畳まれた自身の藍色の小袖に袖を通し、剣杖の浅葱裏の羽織を羽織る。大小二刀は刀置台に置かれていたが、屋敷の中に危険もあるまいと手を伸ばすのを止める。
 開け放たれた障子の向こうには大きな庭が広がっていた。石橋を設えた池、その畔には楓の木が植えられている。池からは川に見立てて水が流れ、その流れに沿うように各所には築山が築かれ、庭は見事な山水となっている。秋ともなれば赤く色づいた楓の葉が池の面に落ちて浮かび、それは風情があることだろう。
「よろしいでしょうか」
 正宗が返事をすると、先ほどの青年が襖を開けて、「主がお待ちです。ご案内いたします」と促すので、正宗も頷いて後に続く。
 屋敷の中は静かだった。青年と正宗の衣擦れの音以外聞こえない。だが寂しさのようなものを感じさせないのは、廊下の表面に至るまで磨き上げられ、手が加えられて整えられているからだろう。この屋敷の中には確かに人の息吹を感じる。多くの人が関わって屋敷が維持されているにも関わらず、ここまで静謐さを保てるのは主の差配の見事さと言う他ない。
 あのとき確かに、芙蓉は正宗を殺せる状況にあった。殺す気ならできた。だがそうしなかったのはなぜだ。正宗は幾度思考を巡らせてみても、その理由が分からなかった。
 結果的に助けられた形にはなる。だが、遊女屋からかなり大身の武家屋敷とは、繋がりが一向に分からなかった。芙蓉が殺さなかったことと合わさって、正宗の思考は暗礁に乗り上げて手を尽くしても元の大海へと戻ることは叶なさそうだった。あとは、この屋敷の主に訊いてみるしかない。
 大きな間の前に辿り着くと、青年は膝を突いて、「御客人をお連れしました」と声をかける。しばらくして、「よい、通せ」とよく通る張りのある声が響いた。中年の男のものだが、威厳に満ちている。人に命ずることになれた声だ、と正宗は若干緊張する。
 青年が襖をするすると開け、「どうぞ」と勧める。正宗は意を決して足を踏み入れる。
 中には、正面に見事な金糸の刺繍が施された羽織を纏った、老境に片足を踏み込んだ中年の男が一人。それから、男の正面やや右前に下ろし髪の女が座っていた。
 女は微かに振り向き、正宗を見る。彼女は白い襦袢のような着物を着て、その襦袢には正宗の見たこともない文字のようなものが書かれ、浮世絵とはまた違う傾いた絵が書かれていた。下は目の覚めるような鮮やかな青の半袴のようなものだが、それより明らかに丈が短い。遊女であろうとそんな破廉恥な格好はせぬだろうという出で立ちをしていた。それに髪を結っていないのも不審だったが、不思議と女には下ろし髪が似合っているように思えた。
「加減はどうかな、正宗殿?」
 男は猛禽類を思わせるような鋭い目で威圧するごとく見ながら、口元には笑みを浮かべて試すように言う。
 やはりこちらの素性は知られている、と冷や汗をかきながら、「御救いいただいたおかげで命を拾ったようでございます」と座について平伏して感謝を述べた。
「そうかしこまることはない。そこにおる葵(あおい)殿が見つけてくれねば、危ないところではあったがな」
 葵と呼ばれた女は慌てて両手を顔の前で振って、「いえいえ、わたしなんて見つけただけで、大したことは何も。迅速に処置してくれた小松さんと小川先生のおかげですよ」と恐縮してみせる。
「運び込まれたときにはぴくりともせんかったからな。死んでいるものと思ったぞ」
 男はかかと笑って手に持った扇子で膝を打つ。
「そうでしたか。それは危ないところを葵殿には助けられました。して、小松殿というのは?」
 正宗がそう問うと、葵は先ほど正宗をここまで案内した青年の方に手を向けて指し示し、「彼が小松さんですよ」と笑った。
 正宗は小松の方に向き直り、「危ないところをかたじけのうございます。この礼は必ず」とまず小松に頭を下げ、次いで葵に頭を下げて、居ずまいを正して男に向き直った。
「恥ずかしながら、命を御救いいただいた身でありながら、その御尊顔を拝する栄誉に浴したことがなく、御尊名を存じ上げ申しませぬ。甚だ失礼ながら、お伺いしてもようございますか」
 手を突いて深く平伏する。隣で葵が「わお、本物の武士っぽい」と両手で口を覆って目を輝かせているのは、正宗は気にしないことにした。
 男は肘置きにもたれて、扇子を開いたり閉じたりする。そのパチンパチンという音だけが間の中には響いている。
「そうだな。一応儂はお主たち剣杖の最高責任者ということになっておった。今では間部の奴にその座を譲ってはおるが」
 やはり、と正宗は確信するとともに背中を冷たい汗がつつと流れていくのを感じる。場合によっては、正宗の立場は危険だ。
「柳沢……吉保様にあらせられますか」
 いかにも、と男、柳沢吉保は大儀そうに頷く。
 かつて幕府の中で将軍以外の武士が昇り得る最高位、大老格まで上り詰めた権力者。将軍綱吉公の寵愛が大きかったとは噂されるが、実際に当人を目の前にしてみると分かる。柳沢吉保の纏う空気はそこらの藩の家老の比ではない。一言一言言葉を交わすだけで、その言葉が重しとして降りかかってくるような重圧を感じる。
「そう緊張することはない。今では隠居したただのじじいよ。綱吉様が愛された庭園を整えることだけが楽しみのな」
 柳沢吉保は穏やかな笑みを浮かべているが、正宗にはそれがかえって恐ろしかった。いつ雨月重太郎の話が出てくるか、冷や冷やせずにはおれなかった。
「ところで正宗さん。あなたはどこかへ行く途中だったんですよね」
 葵に水を向けられて、ややほっとしながら「ええ」と頷く。
「仔細は話せませんが、日光へ向かう道中でした」
 すかさず柳沢吉保が「猫人間だろう」と口を挟む。だが、それは無関係の人間に聞かせていい言葉ではない。
「柳沢様。軽々におっしゃられては」
「ふ。問題ないわ。葵殿は我々以上に猫人間に詳しいし、そこにおる小松も元剣杖だ」
 小松は「あーあ、それ言っておしまいになりますか」と苦笑いしながら鼻の頭をかいている。確かに腕は立ちそうだと思ったが、元剣杖とは正宗にも思いも寄らなかった。なぜなら、剣杖は一度所属すれば抜けることが許されないからだ。抜けようとすれば、刺客を差し向けられて始末される。正宗自身、そうして何人もの剣杖を始末してきた。
「ま、単純な手口ですよ。替え玉を用意したんです。うまく騙されてくれましたね」
 小松は何でもなさそうに笑っているが、それが容易ならざることは正宗が一番よく分かっている。そう都合よく自分に似た人間などいるはずがないし、死体の検分は数人の剣杖で行う。剣杖の中にでも協力者がいない限りは不可能だ。
 そうか、剣杖の中に入り込んでいる柳沢吉保の手の者は雨月重太郎だけではなかったのだ。小松然り、小松の離脱を助けた人物然り、複数の者が入り込んでいるに違いない。
「気づいたようだな。だが、最早剣杖の中にいる儂の手の者はそう多くない。手をこまねいていれば全員始末されてしまうだろう」
 正宗は考え込んで、顔を上げて訊ねる。「長曾根は柳沢様の息のかかった者ですか」
 柳沢吉保は首を振って、「あれは間部の手の者だ」と吐き捨てた。
「老中格の間部詮房様でございますか」
 噂は聞いていた。どうやら実直らしい人物とのことだが、新将軍家宣公の信任の厚さ一方ならぬところがあるので、実際は柳沢吉保以上の策士なのではないかとも言われていた。
「そうだ。儂が一線を退いた後、剣杖の表向きの指揮権を引き継いだのが間部だ」
 正宗たちにとっては幕府の誰が指揮権を引き継ごうとさしたる違いはなかった。剣杖の最高責任者は国宗心徹であり、幕府の命より彼の命が優先されるからだ。
「間部様は何を目論んでいらっしゃるのでしょうか。私を毒殺して亡き者にすることに利があるとは思えませんが」
 長曾根が柳沢吉保の意を受けて動いていたのならまだ分かる。雨月重太郎を初めとして、手の者を血祭りにあげられた以上、厄介な暗殺者である正宗を排除しておきたい心情は理解できるからだ。だが、間部はどうか。正宗が殺した剣杖の中に間部の手の者がいたかもしれないが、間部の就任時期から考えて、そう多くはないはずだ。
「間部もお主が任務に忠実な男だと知っている。だからお主が邪魔になったのだ。猫人間が目撃されたのは百余年ぶりだ。この機を逃せばもう巡ってこないと考えたのだろう。確実に間部の手の者、長曾根が猫人間を仕留められるよう、お主を排除しようとしたのだ」
 正宗は首を傾げる。誰が猫人間を仕留めようと、同じことだ。追って国宗家の人間がやってきて、猫人間を処理する。だがそうか、と正宗は腑に落ちる。なぜ猫人間の討伐は剣杖に任せられるのに、死体の処理は門外不出とばかりに国宗家の人間が行うのか。猫人間の死体には秘密があるからではないのか。それが発覚すれば剣杖を揺るがすほどの。
「猫人間の死体に何か秘密があると?」
 柳沢吉保は大きく頷く。
「少なくとも間部はそう考えておる。そして、そこで知りえた事実を元に剣杖を支配する存在に揺さぶりをかけ、主導権を幕府に取り戻そうと考えているのだ。剣杖は優秀な剣客集団というだけでなく、何か大きな謎を秘めているように思えるのは、儂も間部に同意だ」
「それでは、柳沢様のお考えは間部様と違うのですね。剣杖を幕府に取り込もうとは考えておられない」
 そうだ、と頷き、柳沢吉保は天を仰ぐ。
「雨月重太郎、あ奴がおれば、剣杖の謎を掴めるかと思ったが、儂の見立てが甘かったのだ。雨月には悪いことをした」
 正宗の表情に緊張が走る。だが、ここは正面から受け太刀をせざるをえないだろう。
「私が雨月殿を斬りました。柳沢様であれば、既にご存知のことと思いますが」
「ああ、知っておる。だが、儂はその方を憎もうとは思わん。その方も任務に忠実だっただけのこと。だが、芙蓉の気持ちは察してやってくれぬか。あれは最愛の兄を殺されたのだ。にも関わらず、芙蓉はその方を殺すことではなく、生かすことを考えた。我が屋敷の門の前まで連れてくると、三味線をかき鳴らして知らせた。深夜のことだったゆえ、気づいたのは葵殿だけだったがな」
 そうか、芙蓉は復讐を思い止まったのか。正宗は申し訳ない気持ちと安堵が入り混じった複雑な、舌に苦みを感じるような思いを噛みしめていた。
「儂は剣杖を幕府が利用するのは不可能だと思っておる。最初は国宗心徹をどうにか篭絡すればよいかと考えた。だが、奴は鋼鉄のような心で、どんな誘いにも乗らぬ。しかも剣の腕は古今無双の腕前。そして国宗家の当主は代々未来や、離れた場所のことを見通すことができるという噂の通りに、千里眼の力をもっておる。剣で奴に勝てるものは今の世の中におるまい」
 柳沢吉保は深く息を吐くと、「小松、喉が渇いたな。茶を持ってまいれ」と扇子を振って指図する。小松は嬉々として「はい、ただいま」と下がる。
「そもそも儂が剣杖を幕府に容れざるをえなかったのには訳がある」
「訳、でございますか」
 柳沢吉保は鷹揚に頷いて、「儂とて好き好んで身の内に容れたわけではない」と苦々しく言う。
「これは秘されており、記録にも残されておらんが、綱吉様が重い病にかかり、御命が危ないことがあった。典医も匙を投げた、原因も治療法も分からぬ病でな。儂も神仏に祈るしか方法がないと思っておった。そこへ現れたのが国宗心徹だった。本来ならば奴が大奥に入ることは不可能だ。だが、どのような手段か分からんが入り込んで、病を治してみせようと嘯きおったのだ。その場の全員が反対した。だが儂は奴の目に絶対の自信を見た。失敗すれば極刑だぞと脅しつけても微動だにせん。儂は賭けることにした。奴は供に連れていた巫女に命じると、巫女は謎の薬湯を綱吉様に飲ませた。するとみるみるうちに血色がよくなり、肺を蝕まれて咳をして呼吸も苦しそうだったのが凪いだ呼吸になった。
 国宗はこのことは秘する代わりに、剣杖という組織を幕府内に作り、幾つかの特権を認めてほしいと要求したのだ。儂としては断るわけにもいかぬ。要求を容れるしかなかった。そうして生まれたのが剣杖という組織だ」
 だが、と言葉を切ると、小松が茶を盆にのせてやってきたところだった。柳沢吉保に差し出すと、葵や正宗の前にも茶受けを置いて茶を出していく。「堅苦しい席じゃありませんから、どうぞ気楽に」と小松がにこやかに言うと、葵はすかさず湯呑に手を伸ばして「あっつ」と悲鳴を上げて、耳たぶを触っている。
 柳沢吉保はずずずと茶を啜り、小松に「ちと熱くはないか」と不平を言う。小松は涼しい顔で「お話が長くなりそうでしたので。終わるころまで温かい方がようございましょう」と盆を抱えながら答える。
 ま、よかろうと柳沢吉保は苦笑し、「どこまで話したかの」と視線を中空に投げる。
「おお、そうだ。剣杖の生まれたきっかけだったな。だが、儂が調べさせたところによれば、剣杖という組織は古くから存在していたようだ。苦労したが入手した文献には、朝廷を南北に割って争った時代、新田義貞公の傍らに剣杖の存在があったという。名目上は朝廷の一組織という扱いだが、主に新田義貞公について転戦していたようだ。だが、新田義貞公が足利尊氏公に破れた後、歴史の表舞台からは姿を消した。その後は恐らく歴史の暗部で暗躍していたのだろう。さらに国宗家の成立まで遡って考えると、その興りは平安末期まで遡るようだ。興味深いことに、国宗家の興りには一人の巫女の存在があったらしい。その巫女が未来を見通す目を代々の国宗家の当主に受け継がれるように与えたのだという。妙な符号とは思わぬか。国宗家の始祖の傍らにあったという巫女と、心徹の傍にいた巫女。これは果たして偶然かな。どう思われる、正宗殿?」
 柳沢吉保は正宗の反応を見ている。確かに正宗も得体の知れない存在を感じたことはある。国宗心徹ではなく、もっと禍々しい何か。でもそんな感覚は怯懦な錯覚よ、と笑われそうな気がして、同僚にも漏らしたことはなかった。
「雨月重太郎もな、女の存在までは掴んでおった。だが巫女の存在は国宗家のどこにもなく、心徹の日誌やその他の記録からも巫女の存在は読み取れなかった。だが、雨月は妙な言葉を妹の芙蓉に宛てた手紙に書き残しておる」
 妙な言葉、と怪訝そうに正宗が繰り返すと、柳沢吉保は頷く。
「色即是空、空即是色、とな。何の脈絡もなくだ。前後の文章ともまるで繋がらん。そして、柳沢様にもこれを教えて差し上げてくれ、と結んでおる」
「仏教の概念、ですね」
 頷いてみたものの、正宗にもその意味は分からなかった。
 あの、とおずおずと葵が手を挙げる。
「これって単純なダイイングメッセージじゃないんでしょうか」
「だいいんぐ、めっせ、めっせえじ?」聞き慣れない言葉に正宗は舌を噛みそうになる。
「あ、そっか。英語じゃ伝わらないですよね。要するにですね」
 葵は人差し指を立てて振り振り説明する。
「誰かに殺されたりとか、死にそうになっている人が、自分を殺したのはこいつだぜ、って暗号とか記号を使って、見る人が見たら分かるように残しておくことですよ」
 成程、と正宗は頷く。「だが、雨月殿を斬ったのは私だが」
「今回伝えたかったのは自分を殺した相手じゃないってことですよ。雨月さんは何を調べてたんです? 今までの話を聞いてれば分かりますよね、小松さん」
 小松は突然自分に話が向かってきて戸惑い、不平そうに「ええっ」と声を上げたが、渋々といった様子で、「剣杖の影にいる存在、ですかね」
 葵は人差し指をびしりと小松に突きつけて、「ご名答!」と嬉しそうに叫んだ。
「つまり、色即是空、空即是色、の中に黒幕に繋がるヒント、じゃなかった、足がかりがあるってことですよ!」
 ふむ、と正宗は腕を組んで考えてみる。確かに一考に値する意見かもしれない。柳沢吉保はひどく興味深そうに葵を眺めていた。口元に浮かんでいる笑みを見ると、孫娘でも見ているような気持ちなのかもしれないと考えた。
「雨月の言葉が葵殿の考えの通りなら、剣杖の影にいる巫女は存在するのかもしれん。なら、儂はその巫女を斬り、剣杖という組織を壊滅させるべきだと考える」
 正宗はさすがに腰を浮かせた。後方で衣擦れの音がした。位置関係で小松だと分かった。警戒姿勢をとったに違いなかった。
「葵殿も儂の考えに同意してくれた。剣杖をこのまま放置することは危険だと」
「少しお待ちください。そもそも葵殿はどのような立場の方なのですか。いづこかの姫君とも思えぬ出で立ちですが」
 葵は「いやー、はは」と困ったように頭を掻きながら笑っていた。
「葵殿の言葉を借りれば、ここより遥か遠く、決して儂らが辿り着けぬ異国から来たそうだ。そう言われても信じられぬかもしれないがな。葵殿は奇跡とも思える力で儂と小松の窮地を救ってくれた。儂はこの子を信じたいと思っておる」
 正宗は葵を横目に見つつ、「音に聞こえた柳沢様がそのような甘いことを……」と苦言を呈する。
「確かに着ているものは我らの常識で知るものとは大きく違うようです。ですがそれだけで異国の者がこの国のことに首を突っ込むのはいかがなものですか。間部様に付け入る隙を与えるだけではありませんか」
 柳沢吉保は豪快に笑って、「間部は最早儂など問題にしておらんよ」と扇子を広げて顔を仰いだ。
「儂が間部と対抗できるだけの地力を今なおもっておれば、隠居などしとらんわ。間部にとって儂は路傍の地蔵のようなもの。そうありがたがって手を合わせもしなければ、唾を吐きかけるような無駄なこともせんよ」
 それに、と疲れたように続ける。
「雨月を始め、剣杖の尻尾を掴むために、随分と死なせてしもうた。雨月さえ生きていれば、巫女を斬れる希望もあっただろうが、あ奴が死んだ今となってはどうしようもない」
 首を振って言い、顔を上げると真っ直ぐに正宗を見つめた。正宗はどきりとしたが、予期していたようにも思えた。
「だが、今儂の手の中に雨月をも凌ぐ剣士がおる。何せ、未来を見通す千里眼をもった国宗心徹をして、『化け物』と言わしめた剣の才だ。江戸広しと言えども、国宗心徹から一本でもとれる剣士はおらん。雨月なら可能性があっただろうが。巫女を斬るには、心徹を斬れねばどうにもならぬ」
 どうだろうか、と柳沢吉保は体を起こして手を突いて頭を下げた。
「雨月に代わり、この国のため心徹と巫女を斬ってはくれぬか」
 正宗は慌てて膝を立てる。「おやめください、柳沢様」
「大老格まで務められた方が一介の同心に頭を下げるなど、あってはなりませぬ」
 だが柳沢吉保は頭を上げようとはしない。
「これは国の危急存亡に関わるのだ。隠居した老人の頭で足りるのならば、幾らでも下げよう」
 振り返ると、小松も深く頭を下げている。葵だけがにこにこと笑って黙っている。
「きっと芙蓉もそう望んでその方の命を長らえさせたのだ。雨月の死に少しでも罪を感じておるならば、供養と思うてその剣、儂に預けてはくれぬか」
 これも天命か、と正宗は天井を仰いだ。だが国宗心徹に勝つことは容易ではなく、もし勝てたとしても相応の手傷を負うだろう。その満身創痍の状態で巫女とやらを討つことができるか、それは懐疑的だった。もしかしたら、雨月重太郎と手を組んで当たることができれば、光明は見えたかもしれない。だがその光の道筋は自分自身の手で閉ざしてしまった。
 妹のふくれっ面がちらついた。芙蓉の悲しそうな微笑が横切る。そして、桜華の眩しい笑顔が正宗の脳裏いっぱいに広がる。
 申し訳ありません、と正宗は約束を守れないことを心の中で詫びた。桜華との約束も守れなければ、妹との約束も守れない。きっと、芙蓉の望みを叶えてやることもできずに横死することだろう。
「大丈夫」
 突然手を握られて、力強くそう言葉をかけられて正宗は我に返った。
 葵は正宗の手を握ったまま、真っ直ぐに正宗の目を見つめてもう一度繰り返した。深い目だ、と正宗は思う。若い、軽はずみな娘のように見えて、その目の輝きの奥に何か深く暗い悲しみのような痛みのような、渦巻く感情が垣間見えるような気がした。
「吉保さん、わたしも行っていいかな?」
 まるで友人に気安く声をかけるように訊くので、正宗は動転してしまう。相手は幕府の元大老格、庶民や下級武士からすれば天上の存在だ。
「うむ。葵殿には儂からも同行をお願いしようと思っていた。どうか正宗殿を助けてやってくれ」
 はーい、任せて、と片目で目配せして答える。正宗はいつ柳沢吉保が怒り出すかと気が気でなかった。
「お待ちを。柳沢様。今回は相手が相手です。女子を守りながら勝てる相手ではございません。最悪葵殿を人質として利用される恐れもあります」
 ふふふ、と柳沢吉保は含み笑いをして、「その心配はあるまい」と断言する。
「葵殿の力があれば、足手まといにはならぬよ。それは儂が保証しよう」
 しかし、となおも正宗が抗議の声をあげると、葵は「大丈夫だって」と胸を叩いてみせる。
「自分の身くらいは自分で守れるからさ。正宗さんの邪魔にはならないよ」
「だがな……」
「出来れば小松もつけてやりたいところだが、儂の身辺から誰もいなくなってしまうのでな」
 小松は細い目をさらに細めて笑みを浮かべながら、「現役を退いて久しいですし、きっと足手まといになりましょう」と首を振ってみせるが、正宗には葵よりも足手まといにはならないだろうにと思えた。けれどそれ以上食い下がっては柳沢吉保の意に逆らうことになる。渋々と正宗は受け入れるのだった。
「葵殿を同行させることは了解しました。その代わり、私の手の者も一人使ってよろしいでしょうか」
「ふむ。何者だな」
「目明しの頼蔵と申すもので、獲物の小太刀を使った腕は数人の武士を相手にしてもさばききれるほどです。諜報に優れているので、情報収集やいざというときの援護など、後方支援を主にやらせます」
 柳沢吉保は「よかろう」と大きく頷く。
「今日のところはゆっくり休むがよい。鮎並のいいのが入ったらしいのでな。食べていくといい」
 かたじけのうございます、と正宗が頭を下げると、葵は「吉保さん、ありがとうね」と手をひらひらと振っている。柳沢吉保はそれを心底愉快そうに眺めて、声を上げて笑っている。

〈続く〉


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