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金色の霊獣~碧天の巫女外伝~

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■本編

 精霊の森のさらに奥にある霊峰、ストラ山。山の民の初代酋長の名を戴くその険しい山道の途上に、少年はあった。
「兄者、置いてくぞ」
 少年、名をカズラという。岩が転がり草木も絶えた山肌を登りながら、後ろでぜいぜい喘いでいる三つ年上の兄を振り返りながら呆れたように言う。
 少年には兄が五人いた。長兄のアルバは文武に秀でた山の民一の剣の使い手だったが、今後ろを歩いている四番目の兄のオラリは山の民一の怠け者で、今回の霊峰でのカズラの試練に同行させられたのも、日ごろの不行跡が祟って父親に命じられたのだった。
 カズラはこれではどちらがお守りか分からん、とため息を吐いた。
 山の民は十五の年を迎えると、精霊の森の奥に聳える、ストラ山に登って精霊獣に会い、その精霊獣に認められた証として体に精霊痕を刻み、それでもって一人前とすることを習わしとしていた。ストラ山には精霊の森よりも高位の精霊獣がおり、山の民は揉め事や民の間で意見の一致が見られないときには精霊獣に意見を伺って政を行うなどしていた。
「待て、カズラ。そう急がんでも精霊獣様は逃げはせん」
 オラリはひいひいと息も絶え絶えに震える足をゆっくりと前に進める。
「兄者の歩く速さに合わせていたら、夜になってしまうぞ」
 カズラは空を眺め、青空が広がっていたが、西の空の上には重苦しそうな雲がかかっており、風は西から吹いている。このままだと天気も危ういかもしれん、と山肌を軽々と駆け登っていく。
「森の民では、新しい『碧天の巫女』が生まれたそうだぞ」
 オラリは立ち止まり、手拭いで汗を拭いながら、にやにやとした顔で叫んだ。
 カズラは不愉快さに舌打ちし、顔を顰めたが、その顔は兄には見せなかった。脚で劣っているから、その意趣返しをしようというのだ。兄の心根の小ささと卑怯さに辟易しながら、「そうですか」とさも関心がなさそうに答える。
 オラリは知っているのだ。森の民の新しい巫女チハヤとカズラは幼少期共に過ごしたこともある親しき友だと。
 山の民と森の民は不倶戴天の敵同士だったが、今から五年ほど前に次代の酋長候補であるアルバと、次期巫女候補であるチハヤを一定期間交換して異文化交流するという試みがなされたことがあった。カズラは山の民の里にやってきたチハヤと年が同じであったこともあり、里での遊び相手となった。
 好奇心旺盛なチハヤにたじたじとなる場面も往々にしてあったが、二人は意気投合して遊び、学び、時には悪戯をしたりして里で短い期間を過ごした。本来ならば一年ほど過ごすはずだったが、アルバが森の民の里で問題を起こしたため、半年ほどで協定が決裂し、チハヤは連れ戻されてしまったのだった。
 短い思い出ではあったが、カズラにとっては雨上がりの虹のような爽やかな思い出だった。そして甘酸っぱい初恋の思い出だった。
 何事にも鈍いオラリのくせに、そうした色恋ごとには目端が利くのが兄ながら忌々しいところだとカズラは思う。そうして陰湿に突っついて喜んでいるのだから、質が悪い。
 そのチハヤが「碧天の巫女」になったという。巫女は森の民の象徴だ。山の民で対等な立場の者と考えると、酋長になるだろう。だが、次の酋長は長兄のアルバだと決まっている。これで自分とチハヤは対等な立場に立つことはできなくなったな、と寂しいような悔しいような思いがするのだった。
 だからせめて、この成人の儀だけは里のみなを、兄や父をあっと言わせるような結果を残したいとカズラは思っていた。儀式自体はオラリですら乗り越えたものだから、万に一つもしくじることはないだろうと思っていたが、結果を残すとなると、覚悟と運がいる。より高位の精霊獣と交渉し、成果品を持ち帰らねばならない。
 振り返ると兄とは距離が開いていた。のっそのっそと牛のような歩みで進むオラリを睨んで舌打ちすると、西の空を眺める。雲の流れが早い。思ったよりも猶予はないかもしれん。そう考えると、頭の中に地図を広げて、ここから尾根沿いに渡って行く途中に、山の民が休息用に建てた山小屋があるはずだった。そこで今夜は明かすしかない。そう結論付け、カズラはオラリに向かってその旨を叫ぶ。
 休息、という餌がちらつくと水を得た魚のようにオラリは活き活きとして、あっという間にカズラに追いつくと、山小屋へ向けてまっしぐらに突き進んでいった。
 しばらく歩くと、ぽつりぽつりと雨が落ちてくる。予想よりも早いな、とカズラは歩く速度を上げる。オラリは猛進した勢いはさほど長くもたず、再びカズラの後方で肩を落としながら足を引きずるようにして歩いていた。
「最悪だ!」とオラリが叫ぶと、カズラは皮肉な笑みを浮かべて「兄者の試練のときは、よほど環境がよかったのだな」と言って顎に滴った汗を腕で拭った。
 山小屋に到着すると、中には誰もいなかった。だが数日前まで誰かが滞在していたらしく、火を熾した跡や使いっぱなしの食器などが散らばっていた。後片付けもせず出て行ったところを見ると、相当慌てて出て行ったようだ。
 カズラは囲炉裏端に腰かけると、腰から下げた革袋を外して口をつけ、水を飲む。確か山小屋には井戸があったから、水を補給していけるな、と安堵したこともあり、喉を鳴らして勢いよく飲む。
 水を飲んで一息ついているとオラリがやってきて、髪の毛が既に雨で濡れていた。窓から外を眺めると、篠突く雨が降っていた。
「試練の最中に雨が降るとは、ついてないな、お前」
 オラリは手拭いでばさばさと髪の毛を乱暴に拭って、麻の上衣を脱いでもろ肌みせる。鍛錬を嫌って怠けるせいで、筋肉はあまりつかずぜい肉ばかりついている。こんな体たらくでは森の民との戦闘はおろか、旅行者や商人の略奪にも危なくて連れて行けないと、荒事からは軒並み外されているのだった。そして本人もそれを苦にしていなかった。戦闘などという危険で野蛮な行為は面倒の極みたるもので、避けられるならばそれに越したことはないと考えていたからだ。
「この程度障害のうちにも入らないよ、兄者」
「可愛くない末弟だぜ」とオラリはじとっとねめつけてカズラの向かい側に腰を下ろす。
 カズラは腰の革ベルトから短剣を外し、鞘から抜き放って刀身を確認する。
「その短剣を振り回すような破目になると思ってるのか?」
 オラリの問いにカズラはふっと笑みを零し、「ならない保証はどこにもない」と首を振る。
「ばかな。おれたちは精霊獣様と交渉に行くんだ。狩りに行くんじゃないんだぞ」
 そんなことはオラリに言われるまでもなかった。だが、歴代の試練の中には、暴走した精霊獣と出くわして、護身用の武器を何も持っていなかったがために命を落とした例もある。それゆえにカズラは酋長の一族のみが身に着けることのできる宝剣を与えられ、この試練に臨んでいるのだ。
「いざという時に戦えなければ死ぬだけだ、兄者」
 短剣は刀身が磨き抜かれた鏡面のように透きとおり、柄などに獅子の装飾が施され、柄頭には大ぶりな柘榴石があしらわれていた。
 カズラは短剣を鞘に納めると、再び革ベルトに括りつける。
「兄者は短剣はどうした?」
 オラリはふんと鼻を鳴らし、「持ってくるか、あんな重い物」と肩を竦めた。
「丸腰か」
 カズラの言葉にオラリは不愉快そうに顔を顰めながら、唾を飛ばして言う。
「武器が必要になる局面にはならん。暴走した精霊獣と遭遇するなんてのは天文学的な数字だぞ。そうそう起こってたまるか」
 オラリは囲炉裏の中に転がっていた火打石を拾い上げて灰を払うと、こすり合わせて火種を囲炉裏の中に落とし、火を熾し始めた。
「食う獣を捕まえるのにも、武器はいるんだ、兄者」
「魚なら釣り竿で済む」とオラリは壁に立てかけられた釣り竿を指さし、熾きた火を強めるために薪をくべていく。
「近くに沢があるということか。まあ、ここは兄者に従っておこうか」
 だが、この雨ではな、とオラリは忌々しそうに窓の外を見やって、火にあたりながらぶるっと震えた。
「おれが行ってこよう。雨に打たれるのは慣れているし、これはおれの試練だからな」
「お前が行きたいなら止めないが。風邪なんて引いてくれるな。後で親父にどやされるのはおれなんだからな」
 心得た、とカズラは微笑むと、釣り竿を担いで雨の中外に出る。先ほどより勢いは弱まっているようだったが、止む気配は見せなかった。
 カズラは駆け出すと、山道に出て、鼻をすんすんと鳴らして匂いを嗅ぐ。雨の匂いが一帯には立ち込めていたけれど、注意深く鼻を働かせると雨以外の水の匂いがした。その方向へとカズラは歩き出し、藪の中に突っ込み、短剣で丈の高い草を薙ぎ払いながら進んだ。
 雑木林の斜面を下ると、目の前に沢が開けた。緩やかな流れで、雨にも関わらずちらほらと魚影が見える。
 カズラは餌を付けて釣り竿を垂らす。しばらく待つと魚がかかって吊り上げ、魚籠に入れ、もう一度釣り竿を垂らしたが今度はなかなか釣れなかった。
 あまりにも釣れないのでカズラも呆れてしまい、草葉の上に腰を下ろしたが、そうして待っていても一向に釣れる気配がなかった。魚が警戒してしまったのかな、とカズラは竿を上げるが、餌に食いつかれた様子もない。一尾では腹は膨れない。はて、と考えたときだった。
不意に異様な気配を察して、カズラは勢いよく立ち上がった。
周囲を見回してみる。雨の音に交じって、草木が軋む音がする。腰の短剣に手を添え、注意深く周囲に神経を巡らせる。
すると、前方の茂みから、のっそりと大きな熊が姿を見せる。熊の口の周りはべっとりと赤い血で汚れていた。
 まさか、とカズラの背筋が寒くなった瞬間、熊は川の水で口の周りを拭い始めた。野生の熊の仕草じゃない。精霊獣か、と確信する。
 カズラは下策とは知りながら、走って藪の中に突っ込み、来た道を戻った。振り返ってみたが、熊は追ってくる気配を見せなかった。口角が不自然に上がり、歪んだ笑みを浮かべているように見えて、ぞっと身震いした。
 山小屋に辿り着くと、入り口の戸が開いていた。慌てて飛び込むと、あまりに濃密な血の臭いにカズラはむせ返って口元を手で押さえた。
 小屋の中は惨状と化していた。オラリは既に原形を留めておらず、オラリだった腕や足が囲炉裏の周囲に無造作に散らばり、腸が囲炉裏の火で焼かれていた。ずたずたになった胴体は小屋の隅に転がり、頭だけが中に見当たらなかった。恐らくは熊が持ち去ったのだろう。
 本来であれば頭だけでも取り返し、里で弔ってやりたかったが、それをすれば熊は執念深くカズラを追ってくるだろう。熊の精霊獣ともなれば、手練れの男どもが集まっても犠牲が出るに違いなかった。里を危険に晒すわけにはいかない。
 試練を続行するか、中止して里に危険とオラリの死を知らせるか、カズラが逡巡したときだった。野太い獣の咆哮が響いたかと思うと、山小屋の壁が破れて熊が突撃してきて、カズラは咄嗟に横に転がって難を逃れた。
 だが、小屋が傾ぐのを見て、留まっていれば潰されると悟り、熊が瓦礫を被って視界を塞がれている間に入り口の戸から外に逃れ出る。
 熊は自分も獲物だと狙いを定めている。逃げるしかない。急いで里へ。辿ってきた道を引き返そうと足を踏み出した瞬間、再び壁を破って熊が現れ、帰還路の途上に立ち塞がった。
 これでは里へ帰ることもできない。迷ったカズラがとった手は、霊峰を更に奥深く踏み入ることだった。
 熊が正気を失ったように暴走しているのは、恐らく低級の精霊が宿ってしまったのだろう。普通精霊は己の存在の大きさにあった生き物の死骸に宿る。だが時折生まれたての低位の精霊などが大きな獣の死骸に入ってしまうことでその存在を御しきれず、暴走させてしまうことがある。それだろうとカズラは考えた。
 であるならば、対話は不可能だ。暴走した精霊獣は殺すしかない。だが、熊の精霊獣など到底一人で仕留められる相手ではない。カズラも腕に自信はあったが、熊を一人で相手取ることができるなどと自惚れはしなかった。
 熊はゆったりと散歩でもするかのようにカズラの後を追ってくる。いつでも仕留められるという余裕が透けて見えるようだった。事実その通りなのだから、悔しいとも思えないのだった。
(なぜおれは奥に逃げているんだ)
(奥に逃げても、疲労するだけだ。助けなんかない)
 なんとか隙を突いて里の方へ逃れられないか、と考えて振り返ったとき、カズラは心臓まで凍てつきそうなほど恐怖を覚えた。
 後方にいたはずの熊が忽然と姿を消していた。
 諦めたのか、という安易な考えが脳裏をよぎったが、警戒心の強いカズラはそれを振り払い、緊張感を保ったまま周囲に注意を配った。
 風に草木がそよぎ、雨が体を嬲るように打ち付けていく。
 左方から音がして、カズラが反応して視線を巡らせたときには、既に熊が飛び掛かってきていて、その爪が振り下ろされていた。
 だが、カズラは奇跡的な反射でその爪をかいくぐると、突進をかわして後方に転んだ。
 すかさず立ち上がり、駆け出したカズラの目の中に額から流れ落ちる血が入り、走りながら血を腕で拭う。爪の一撃の直撃は免れたものの、額をかすめていっていた。
 熊は天に向けて雄叫びを上げると猛烈な勢いでカズラを追跡し出す。
 カズラも岩の転がる斜面を登ったり、林に飛び込んで木を障害物にして撒こうと試みたが、熊は障害物をその突進でものともせず粉砕しながら進んでくるので、意味がなかった。
 やがて追いつかれて、再び熊の爪が振り上げられたのを空気の揺れで感じ、カズラは斜面へと飛び込み、転がり落ちながらその爪をかわしたが、今度は背中に鋭い痛みが走った。背中が熱かった。恐らく切り裂かれた、が致命傷ではないだろうと踏んで、カズラは立ち上がり、走り出す。
(このままではジリ貧だ。一か八か運命を天に任せてみるか)
 立ち上がったものの、痛みのせいで走る速度は落ちている。なら、不可能には近いが撃退する手段を講じるべきかもしれない。カズラは周囲の地形を頭に思い浮かべ、北の方角へと走った。そちらには、巨大な切り立った崖があるはずだった。
 走っていくと、巨大な壁のような崖があり、その崖が包み込むようにして広がっているため、奥へと進めば進むほど袋小路になる。
 熊もそれを悟っているのか、無理に追ってくることはせず、いつでも攻撃に移れる位置を保ちつつ悠然と走っていた。
 精霊獣は精霊に応じた知能を有する。言葉を解しない低位の精霊でも、知能はあるために獣よりも常識というものに縛られやすい。
 崖が目前に迫ってくる。それに伴って熊も速度を上げる。追い詰めて一気に仕留めるつもりだろう。
 カズラは岩壁目掛けて走る速度を緩めず、突っ込む。熊は自分の後方にいる。爪が既に届く距離。足を止めた瞬間に仕留められる。
 だが、足を止めることはない。
 カズラは岩壁が目前に迫ったとき、壁に向かって跳躍し、岩壁に右足をつくと壁に向かう推進力を右足で堪えて、その反動で熊に向かって跳ぶ。
 熊は右腕を振りかぶっていたので、カズラは反対側に跳んだ。そして短剣を腰から抜き、顔の中で最も柔らかい場所であろう眼球に突き立てた。
 熊の目から血が迸り、熊は絶叫を上げた。
 カズラはすかさず短剣を引き抜き、地面に受け身をとって転がり着地すると、熊から距離をとろうとした。
 カズラにとって誤算だったのは、熊の視覚を封じて死角を作ったつもりだったが、匂いでカズラの位置を捉えることができたというところだった。
 熊は自分の目を奪ったものをそのまま逃がす気はなく、左腕を薙ぎ払うように振り回し、その爪が着地したカズラの脇腹を襲って引き裂いたのだった。
 カズラは痛みと衝撃に転がり、逃げようと試みるが思いのほか傷が深く、立ち上がれなかった。這うようにして懸命に熊から距離をとろうと逃げる。熊も怒りの咆哮をあげてはいるが、カズラを追うよりも目を奪われた屈辱が大きいのか、取り乱しているようだった。
(まずいな。傷が深い。立って戦うこともできないか)
 カズラは足が動かなくなっていることを悟り、体を懸命に動かして仰向けになる。後ろから気づかない間にあの世いき、というのは勘弁だと思ったからだ。
 いつの間にか雨はあがっていて、晴れ間が差していた。
 眩しいな、と思ってカズラは目を瞑る。熊に食われて無惨に死ぬならば、いっそ自分で、と短剣を首筋に当てる。
「君はまだ死にたくはないだろう?」
 不意に声がして、はっとカズラは目を開ける。
 目の前には金色に輝く大きな猫が浮かんでいた。
 カズラは今自分が見ているものがなんなのか、信じられなかった。熊の精霊獣の暴走だけじゃなく、金色の猫の精霊獣。そんなものと遭遇するなんて、天文学的な数字どころの話ではなかった。まさしく奇跡に違いなかった。その奇跡がカズラの運命を好転させるとは限らないとしても。
 金色の猫の精霊獣。それは精霊の内でも最高位の精霊が宿った精霊獣。人間嫌いの精霊であるため、人の前に姿を現した例はほとんどない。山の民でも伝説の類である始まりの酋長ストラが霊峰で修業した際にその前に現れて天啓を授けたとされる言い伝えぐらいしか例として残っていない。
 その精霊獣が目の前にいる。目の前にいて自分に問いかけている。カズラは熊の精霊獣のことを忘れていた。それほどの衝撃だった。
「生きたいかい。なら、手を貸してあげてもいい」
 金色の猫はくすくすと笑いながら言う。
「なぜ人間に手を貸す。人間嫌いのあなたが」
 カズラの問いに金色の猫は前足で顔を洗って、「お願いがあるんだ」と金色に輝く瞳でじっと見つめた。
「お願い? 最高位の精霊であるあなたが、おれに」
 そうだよ、と事もなげに猫は言う。
「来るべき災厄のため、山の民と森の民の力が必要だ」
「来るべき災厄?」
「そう。それは必ず来る」
 カズラは咳き込み血を吐くと、「おれは何をすればいい」と問う。
 金色の猫はくるりと空中で一回転する。
「霊獣憑き。僕を宿してくれたらいい」
 金色の猫の言葉に、カズラはさすがに絶句した。
 霊獣憑きとは、精霊獣が人間に憑依してしまった状態で、憑依された人間は人智を超えた力を発揮できる代わりに正気を失い、周囲の者見境なく殺戮する悪魔に成り果てる現象だった。過去山の民の中で霊獣憑きが出たときは、精鋭の使い手十人で囲んで八人が命を落としたほどだった。その中には先代の酋長も含まれていた。
「おれに、殺戮の悪魔になれと、そう言うのか」
 金色の猫は眠そうに欠伸をして、「それは君の素質次第さ」とそっけなく言った。
「でもね、僕は見込みのないやつに頼んだりしない」
 カズラは考え込む。失敗すれば殺戮の悪魔、しかも最高位の精霊を宿した存在になる。よくて金色の猫に精神を乗っ取られる、か。と考えたところで、獰猛な熊の咆哮を聞いて選択の余地はないのだ、ということを悟る。
「どっちにしてもおれは死ぬ。分かった。やってくれ」
 いいんだね、と金色の猫が念押しで訊くので、カズラははっきりと頷いてみせた。
「分かった。それじゃあ入らせてもらうよ」
 金色の猫はくるくると回転しながらカズラに飛び込むと、ぶつかった衝撃もなく、金色の猫の体がカズラの中に吸い込まれていく。
 意識を乗っ取られるか、自分が自分でなくなるか、と身構えていたが、何ら変化が起こったようには思えなかった。
 はっと気づくと、目の前に熊が迫っていた。
 カズラは立ち上がる。痛みがないことに気づき、腹を確かめると傷が塞がっていた。血が入って見えなくなっていた右目の視界もはっきりと澄んだように見えていた。
 熊が爪を振りかぶる。
 だが不思議なことに、その動きがひどく緩慢に見えた。カズラは余裕をもって爪の一撃をかわす。
「どうだい、僕の目は」
 右目の辺りから声が響いてきて、かすかな平衡感覚の乱れを感じて顔を顰めながらも、カズラはその声が金色の猫のものであると悟り、右目の辺りに触れた。
 すると右目の周囲は異様に腫れ上がり、皮膚が乾いてひび割れたようになっていた。恐らく霊獣憑きの特徴である精霊の目。この場合は金色の目になっているのだろうと想像がついた。だが、どうやら自我も失わず、精神も乗っ取られずに済んだようだ。今の内は。
「さあ、あんな熊ごとき、さっさと仕留めて里に帰ろう」
 金色の猫は軽々にそう言うが、里に帰った瞬間処分の対象として矛を向けられるだろう。霊獣憑きへの畏怖は簡単に拭えるものではないとカズラは知っていた。正気を保っていると訴えたところで、さしたる効果もないだろう。いつまで正気を保っているかの保証なんて誰にもできないのだから。
 だが、熊は倒さねばならない。オラリの無念を晴らすためにも、里へ帰還するためにも。
 カズラは短剣を構え、走り出す。体が綿毛のように軽かった。跳び上がると風のように舞い上がり、熊の動きは緩やかに見える。軽々と爪の一撃をかわすと、熊の頭上を飛び越えて後方に回り込み、回し蹴りを叩きこむと熊の巨体が吹き飛んで転がる。
「これが霊獣憑きの力」
 人々に畏怖されるのも仕方ないと思える力だった。もし里でこの力を振るえば、カズラを殺すために父である酋長や兄アルバが出てくるだろう。
 正気を保っているつもりで狂気に飲み込まれかねない、そんな脅威が霊獣憑きの力にはあった。
 熊が両腕を広げて立ち上がり、威嚇をする。熊のその姿勢には怯えすら見てとれるのは、絶大な力が自分の背景にあるからか、と身震いし、短剣を構えて駆け出す。
 熊は右腕の一撃を放ち、続けざまに左腕の一撃を繰り出すが、カズラの目には止まって見えるその動きを回避するのは難しいことではなかった。
 そして、熊の攻撃をいなした後の隙だらけの脳天に向かって短剣を突き立てる。短剣は紙でも貫くかのように熊の眉間に深々と突き刺さり、熊は叫び声を上げてのけ反り、口を開けて泡を吹き、大きく痙攣して巨体を揺らし、地面に音をたてて倒れた。
「お見事。こんなに早く力を使いこなせるなんて、君は思った以上に適性があったみたいだね」
 金色の猫は愉快そうに笑った。
「一応礼は言わせてもらう。命を救われた」
 カズラは熊の死骸に近付き、額から短剣を抜き取ると、血を拭って鞘に納めた。
「気にすることはないよ。山の民と森の民を救うために、君には尽力してもらわなければならないしね」
 来るべき災厄、と金色の猫は言っていた。
「具体的におれは何をすればいいんだ?」
 金色の猫はくふふ、と笑うと、「まずは里に帰ろう。すべてはそこからだ」と思わせぶりに言った。
 里か、とカズラはため息を吐いた。まず間違いなく、排斥されるだろうなと思うと気が滅入った。今の自分ならアルバにも引けを取らないだろうと思うが、敬愛する長兄に刃を向けなければならないこと自体、避けたかった。
「山の民か森の民に君を容れる器がなければ、世界は闇だ」
「世界ときたか」
 カズラにとっての世界は里の周囲、狭いものだった。しかし里の外を出れば広大な世界が広がっていることは彼も知っていた。そしていつかその世界を見て回りたいと思っていたのも事実だった。
「だから僕は君が気に入ったのかもね」
「今、思考を」、言いかけてカズラはふっと笑みを零して首を横に振った。どうでもいいことだ。精霊獣は人智を超えた存在。それくらいのことはできてしかるべしだろう。
「ならば行こう」
 カズラの脳裏をよぎったのは里の誰でもなく、幼き日の友であった、碧天の巫女チハヤの眩しいばかりの笑顔だった。

〈了〉

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