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碧天の巫女

 右手を床と水平に伸ばし、指先の先一点にまで神経を研ぎ澄まし、行き渡らせる。左足の爪先に重心を置き、右足の爪先で小円を描くように足を払い、ぐるりと回る。このときも腕は伸ばしたまま、指先の微細な動きにまで気を配り、一挙手とて疎かにはしない。
 鼓の音、笛の音が神殿の中に響き渡る。奏者の影は壁に大きく浮かび上がり、音を奏でるたびに揺らめいて、中央で踊るチハヤの影は彼女と瓜二つで、仲の良い双子のように離れずともに舞を舞っていた。
 鼓の心臓の鼓動を思わせる響き、笛の獣のいななきを思わせる響きが、チハヤの体をくるむように走り回り、舞の一挙手一投足に絡み合い、一体のものとなっていた。
 チハヤの額には汗が滲み、頬をつつと一筋、初めて星空を見た幼子の涙のように流れる。眼差しは揺らぐことがない。正面の祭壇で燃える篝火に視線を注ぎ、彼女の意識の一切がそこに集約して、残りは集中力という凪いだ海の中に飲み込まれて消え去ってしまう。その目は篝火を映しながらもそれよりもなお熱く燃えていた。
 先代の巫女――齢九十を数える老齢の巫女だったが、背筋は曲がっておらず、凛としたその佇まいはまだまだ後進に道を譲ろうという者のそれには見えなかった。その巫女が神楽鈴をじゃんと鳴らせば、チハヤは左脇に携えた棒を大きく、緩やかに払い、右手の指先の形を崩さないように注意を払いながら棒に沿えて、両手でそれを天に突きさすように高く掲げる。
 チハヤが静止すると同時に、すべての奏者が演奏を止め、神殿は息をすることすら恐れるように静まり返る。
「見事です、チハヤ。巫女の舞、よくぞ踊りきりました」
 チハヤは肩で息をしながら跪いて頭を垂れ、黙って称賛を受け取った。巫女となるものは、神殿を出るまで口を利いてはならない。習わしだった。
 この集落では一人の巫女を戴き、その巫女の下に意思決定を行い、集落の在り方を決めていくという形態がとられていた。実際、巫女は象徴的な存在で、集落の合議で決まったことに口を挟むことはないが、有事の際は巫女の言葉が何よりも優先するという、一定の権力を有してもいた。
 巫女はその正式な名を「碧天の巫女」という。
 集落の周囲には精霊獣――、死した獣の体に精霊が入り込んだ神聖な獣が少数生息しており、この精霊獣を狩って得られる皮や骨、牙などを加工して武具や装飾品に変え、近隣と交易していた。
 精霊獣の最大の特徴は、死したときにその眼球が宝玉に変化することにあり、その宝玉は金剛石よりも硬く、加工に専用の研磨剤を要するが、武具として最高峰の品質のものとなり得る。しかも、宝玉はこの世の物理法則を無視した力を宿しており、たとえば集落一の剣の使い手のカグラが持つ片刃の剣は、雷鳴を轟かすことができた。
「次の試練は分かっていますね?」
 先代の言葉に、チハヤは黙って頷く。
 次代の巫女となるものは、単身精霊に打ち勝って、己が巫女に相応しいことを示さねばならない。精霊獣の森と呼ばれる森に一人で挑み、精霊獣の宝玉を持ち帰ることが試練だ。だが、それは容易ならざることだった。精霊獣はただでさえ獣の身体能力を有する上に、精霊のもつ超常的な力を持つ。通常集落で狩りを行うときも、「狩り人」と呼ばれる狩猟の専門家四人で組を作って狩りに当たる。それを一人でやるのだ。
 チハヤは祭壇に跪き、心の中で祝詞を上げ、巫女の証たる大薙刀を手に取り、矢筒を背負い、弓を携えて祭壇の裏手から精霊獣の森へと抜ける。
 精霊獣の森は聖域とされており、巫女あるいは巫女の試練を受ける者以外の者が立ち入ることを固く禁じていた。
 さて、とチハヤは森の入り口に立ち、口にかかった赤いマフラーを下げて自身の口から立ちのぼる白い息を見上げると、その先にある夜明け前の星空を見上げた。薄墨を走らせて、そこに砂金を散りばめたような空だと、いつもチハヤは思う。
 夜明けが来る。遠くの空にほんの微かに朱が混じっている。精霊獣は陽が昇ると警戒して住処から出てこない。そうすると狩るのは困難だ。勝負は夜明けまでの、およそ二時間。その間にいづれかの獣を狩らねばならない。力を示すなら、小型獣ではだめだ。大型の精霊獣を探さなければ。
 チハヤは森の木々の間を器用に駆け抜けると、北の方角を目指す。森は北の方角へ向けて緩やかな坂となっており、坂の頂点は小高い丘となっていて見晴らしがいい。獣を探すなら高い位置から見下ろすのが一番いいとチハヤは判断した。
 道中見かけたのは単なる獣だった。猪に兎。チハヤは矢をつがえかけたが、ふっと微笑んで獣を見逃した。
 丘に辿り着くと、更にチハヤは白樺の巨木にするすると登っていき、しっかりした枝を見定めて、そこに腰を下ろした。
 目を瞑り、額の辺りに神経を集中させる。まずは自分自身を額の一点に集約するイメージ。そしてそれが整ったら、その一点から自分がどこまでも広がっていくイメージを組み立てる。そうすることで、目では見えない死角や遠くのものや他と異なる気配を捉えることができる。
 森には獣が多くいる。通常とは違う気配のもの、精霊獣だ。それも数多い。だがどれも小型の気配でしかない――いや、一つだけ、大きな存在がいる。際立って大きく異質な存在。恐らくは鹿型の精霊獣。先代とて猪だった。鹿型を仕留めたとあれば、試練の結果としては申し分ないはず。
 チハヤは白樺を飛ぶように降りていくと、大薙刀を背に、弓矢を両手に構えつつ走った。気づいているのがこちらだけなら、樹先を制することができれば、試練の時間内に余裕で仕留められる。気づかれて逃げ回られるのが厄介だ。この森は精霊獣にとって庭のようなもの。逃げに徹した相手を仕留めるのは想像以上の困難を伴うだろうと考えていた。
 鹿はゆっくりとこちらに進路をとっている。チハヤは進路上に身を隠すにうってつけな大岩を見つけ、そこに身を潜めた。矢をつがえ、引き絞っていつでも放てるように待ち伏せる。
 鹿がのそのそと体を揺するゆったりとした足取りで射程に入ってくる。だがまだ引きつけてから、とチハヤが考えた瞬間、鹿は突然頭を垂れ、角を突き出す形で猛然と大岩に向けて突進してきた。
 いけない、とチハヤが判断して跳んだのと、鹿の角が大岩を砕いて弾き飛ばしたのがほとんど同時だった。チハヤは跳んだものの、大岩が砕けた衝撃波に弾かれ、細かい礫片を浴びて地面に転がった。
 全身が鈍く痛む。砂埃が目に入ったせいか目の前もかすんでいて、視界がはっきりとしない。だが、鹿の気配はゆっくりと自分に向かってきている。幸い手に握った弓矢は離さなかった。
 チハヤは痛みをこらえて素早く立ち上がると、矢をつがえて額を狙って放った。風を切って飛ぶ矢は鹿に軽々と角で弾かれてしまい、明後日の方向へと飛んでいく。
(数射れば、という次元じゃなさそう。弓矢はだめね)
 チハヤの弓の腕は集落でも一際優れていた。だからこそ射ることの愚が分かってしまう。
 視界が定まってくると、周囲に立ち込めた砂埃もおさまり、鹿の全身像が見えてくる。
 それは巨大な雄鹿だった。角を含めればチハヤの背の倍ほどはあり、足の太さなども他の鹿の倍近くありそうだった。あの筋力が岩をも砕く突進力を生んでいる。そして樹木の根のような形の角は、細そうに見えて強靭で、岩を砕いてなお、欠けたところはない。これが恐らく、宿った精霊の力。わけの分からない超常現象でなかったのは救いだが、こういう単純な筋力増加などが一番厄介だったりもする。
 機先を制するどころか完全に相手に先手を取られた形で、しかもこちらは弓矢が通じないとなれば、打つ手がない。まさか背中の大薙刀を振り回して立ち向かうわけにはいくまいし……。
 大薙刀は巫女の象徴として引き継がれ、年に一度の集落の祭りの際には巫女が大薙刀を振るって舞う、儀礼用のものだった。切れ味もどこまであるのか定かではないし、そもそもこんな重いものを振り回して戦う方法などチハヤは教わっていなかった。
 鹿は再び頭を垂れ、突進してくる。チハヤは挙動を先読みして一足早く逃げるしかできない。地面に転がって顔を土に塗れさせながら、どうするか必死で思考を巡らせる。
「今度の巫女は逃げ回るだけか」
 鹿がしわがれた声で言う。
 チハヤは驚きつつも、その声の特徴から、死を司る精霊が鹿に宿っていると考えた。
「七十年前は二人だったな。儂が殺したのは、おぬしによく似た巫女だったわい」
 精霊が口を利くことはほとんどない。集落の人間は精霊を畏れ敬ってはいても、生活のために利用し、殺しもする。それゆえ精霊は基本的に人間を信用しない。意思疎通が可能であったとしても、人間の意思の中には欺瞞が多く混じるゆえ、その雑味を精霊は嫌って、基本は人間から逃げ回る。
 だが、死の精霊のように好戦的な精霊は口を利くこともある。そして彼が語っているのは、チハヤの曾祖母が命を落とした巫女の試練のことだ。その試練で先代の巫女が巫女の資質を得、曾祖母は帰らぬ人となった。
「なるほど。仇はこんなところにいたのね」
 チハヤは大薙刀に手をかける。
「ほう。あの娘の縁者か。それは愉快だのう。再びこの角に血を吸わせてやることができそうだわい」
 ぶるるる、と鼻を鳴らし、死の精霊は頭を垂れて角を突き出す。
「わたしたち人間は精霊獣を狩る。でもそれは生きるためで、愉悦のためじゃない。相手への敬意を失った時点で、あなたは獣でさえない。外道に堕ちたのよ」
 チハヤは大薙刀を抜き、上段に構える。ずっしりとした重さがその双肩にかかる。だが、潰されそうなほどの重圧だとは思わなかった。背負って生きていける、そんな重さだった。こうして命の奪い合いに大薙刀を抜いて初めて、チハヤは己が巫女になったのだと信じることができた。
「小娘が知ったようなことを言いおるわ。続きはあの世で儂が殺してきた巫女たちに聞かせてやるといい」
 死の精霊は猛然と突っ込んでくる。対してチハヤの心の中は凪いだ湖のように静かだった。死の精霊が襲い来るのは、波紋のように感じられた。ぞわぞわと背中を虫が走り抜けていくような不快感――これが死の実感なのだろう――が波紋とともに近づいてくる。チハヤは上段に構えたまま、静止して動かない。砂埃をまきあげ、死の精霊の角が迫りくる。
 その刹那にチハヤは大薙刀を握る手に力を込める。大薙刀がほのかに発光し、軽くなったように感じた。舞の最後の姿勢のように大薙刀を天に向かって突きだし、そして死の精霊の突進に合わせて月の弧を描くように振り下ろしつつ、突進を右に避けた。
「あなたを恨みはしないわ」
 チハヤは大薙刀をおろして振り返る。同時に死の精霊も頭を巡らせるが、口をわななかせて何かを言おうとしたところで首がずれ、血を噴き出しながら転がり落ちて、巨体はどうと地面に倒れた。
「生きるということは闘争。あなたにも生きる権利はある。わたしにも。今回はわたしが生きた。ただそれだけのこと」
 チハヤは死の精霊の首に近寄ると、腰の小刀で眼球を抉り出す。すると見る間に硬質化し、虹色の光を内包した宝玉に変化する。
「それでもわたしは人間だから。仇を討てたこと、感謝させていただくわ」
 空を見上げると、夜明けが近づいてきていた。宝玉をかざして空を見ると、碧い、碧い空がチハヤの眼には見えた。

〈了〉

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