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件の如し(第8話)

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■本編

8、アキとクロダ
 クロダは車の中で目を覚ました。
 車は止まっているようだったが、黒く無表情な天井と、固く狭い革張りのシートの感触が、クロダに車を思い起こさせた。そしてそれは誤ってはいなかった。
 クロダが体を起こすと、運転席に座ったアキが心配そうな顔で覗き込んだ。
「大丈夫?」
 ええ、と頷いて、クロダは不意に襲った頭痛に顔を顰めて、額に手を当てる。
「私は」
 市場跡で倒れていた、とアキが言って、クロダはショートカットの女と一戦交え、手も足も出ず敗れ去ったことを思い出して歯噛みした。
「負けたのね」
「はい。完敗でした」
 アキはふうとため息を吐いて正面に向き直り、座席に深くもたれかかると、「あなたに土をつける相手がいるなんて」と首を振った。
「申し訳ありません」
 頭を下げたクロダへ振り返り、微笑むと「いいのよ」と優しく肩を叩いた。
「しかしなぜ私は生きているのでしょう。彼女はとどめを刺さなかったということになりますが」
 さあねえ、とアキは視線を逸らして、顎に人差し指を当てて考え込むが、答えは思い浮かばないようだった。
「次は、勝ちます」
「いいえ、クロダ。次は不要だわ」
 クロダは意気込みを出ばなからくじかれて、怪訝そうにアキの顔を見つめる。「それはどういう……?」
「ツェーザルはもうメモリーカードを持っていないわ」
 驚愕に顔を強張らせ、「まさかあの女が」とクロダが親指の爪を噛んで悔やんでいると、「違うのよ、クロダ」とアキは告げて、スマートフォンの画面を操作してクロダに向けて放る。
「その画面の男が今持っているの」
 クロダは画面を見つめ、「この冴えない男が……?」と訝しむというよりは、信じられないといった様子で顔を上げた。
「ええ。次官も『事務所』には独自のルートを持っているから、調べてもらったの。そうしたら『課長』と名乗る男のデータから、その男と課長の会話記録が出てきた。その中で明確に、その男がメモリーを持っていると言っていた」
「誰なんです、この男は」
 アキは舌をなめて湿らせ、ゆっくりと発音する。「クダン」
「嵯峨下探偵事務所のクダンよ」
 嵯峨下探偵事務所、と呟いて、クロダは弾かれたように顔を上げてアキを眺め、「ツェーザル探しで訪ねた」と声を上げる。それを見てアキは薄く笑って、「そう。探偵クダンが持っている」と車のエンジンをかけた。
「けど、どうやらカクタスもその情報を入手したらしいの」
 アキの言葉に、クロダの顔に緊張が走る。
「クダンに口を割らせる前に、カクタスを退ける必要があると」
「いいえ。カクタス自身は出張ってきていない。探偵を捕まえるのに自分の手を煩わせる必要がないと思ったのかもしれないけど、これはわたしたちにとって好機よ」
 そうですね、とクロダは頷く。「しかしクダンはどこに」
「喫茶店のおばちゃん、覚えてる? 探偵事務所の下の」と言いながらアキはアクセルを踏む。
「ああ、覚えています。あの人が何か」
 アキはくすくすと笑って、「探偵さんに会いたいと言ったら、今日は事務所が休みだから、自宅アパートにいるだろうって、アパートの住所を教えてくれたの」と可笑しくてたまらないといった様子で言う。
「個人情報保護とは」
「あの年代の人たちには関係ないのね。親切心が一番。それがどんな悲劇を招こうと」
 ふっとクロダも笑みをこぼす。
「わたしは万が一に備えて、アパートの裏手に回るわ。クロダは正面から入って、クダンを引きずり出して」
 了解、とクロダはコートのポケットから白い革手袋を出してはめる。
「もしカクタスの手の者が先んじていれば」
 アキは愚問とばかりに口角を吊り上げて笑って、「殺しなさい」と感情を排した声で言った。それは銃口を額に押しつけられたように冷たく、恐ろしく、クロダでさえ背筋がぞくっとするほどだった。
 車は二十分ほど走り、住宅街の中の突き当りの角にある、クリーム色の外壁のアパートに辿り着く。アパートの前にはいかにもカタギが乗らなさそうな甲虫のようにてかてかと光った黒塗りのベンツが複数台止まっていた。
 アパートの階段の上り口に一人、二階に二人、三階のクダンの部屋の前に三人。よく見ると、車の中にも二人乗っている。クロダは男たちの数を勘定すると、動き方のシミュレーションを頭の中で組み立てる。恐らく、男たちは銃で武装している。住宅地だろうが構わず撃つだろう。なら、撃たせる前に始末するしかない。
「やれる? クロダ」
「ええ、問題なく」
「なら、奴らの真ん前につけるわよ。一、二の、三!」
 アキはハンドルを回して急回転させると、側面の後部座席がアパートの上り口に対して正面になるように停める。その一瞬でクロダは車から飛び出し、上り口にいた男が懐から銃を抜くより早く駆け寄り、男の膝の辺りをローキックで蹴り、痛みに呻いた男がこうべを垂れたところで腕で首を抱きかかえるようにして捻り、首の骨を折る。
 車に乗っていた二人の男が異変に気付き、窓を開けて銃を構える。クロダは斃した男の体を盾にとって車に近づく。男たちは発砲して銃弾が地面に跳ね返るが、裏稼業の男たちでも仲間を死体とは言え、撃つのは躊躇われるのか、狙いは尽く逸れた。
 クロダはほくそ笑み、死体を放るとまず一人の銃を蹴り飛ばし、宙を舞った銃を掴み取ると、恐れおののいて命乞いをする男の眉間に銃弾を撃ち込む。そして地面を転がってもう一人の射撃を回避しながら、窓ガラス越しに男の喉を銃弾で貫き、クロダは銃を捨ててアパートの中に突入する。そのときには三階や二階の男たちも発砲音で異変に気付き、大声で何かを叫び交わしていた。
 階段を上がって行くと、踊り場で下りてきた男と鉢合わせ、男が慌てふためいて銃を構える間に、跳び上がって顔面に膝を叩き込み、跳躍した勢いのまま後ろに回り込んで、首を絞めて骨を折る。
 三階に上がると、男たちは階段の昇降口に向かって一斉に発砲してきた。さすがのクロダもその中を出ては行けず、舌打ちして壁を背にして隠れる。さてどうするか、と考えて、クロダはいったん二階に下り、クダンの部屋の真下の部屋の呼び鈴を鳴らす。
 眠たそうな下着姿の男が出てくるので、クロダはすかさず男を押し倒して部屋に入り込み、背後に回って殺さない程度に首を絞める。やがて男は意識を失い、ことりと床に倒れる。
 正面奥のベランダの戸を開けて、ベランダに出て柵をよじ登ると、雨どいを掴んで外れないかどうか確かめる。問題ないと見てとったクロダは雨どいに飛び移り、掴んでよじ登って三階のベランダに下り立つ。
 中にはクダンがいて、扉の外で起こっている騒動に怯えているようだったが、クロダがベランダに現れたのを見て、ほとんど絶望的と言っていい表情を浮かべた。
 クロダは蹴りで窓ガラスを叩き割ると、鍵を開けて中に入る。
「心配するな。私は味方だ」
 味方? と怪訝そうにクダンは首を傾げる。
「そうだ。お前をここから逃がすために来た」
 クロダは部屋の中を見回す。思ったより殺風景な部屋だな、と思う。家具調度の類は最低限で、冷蔵庫はあっても電子レンジがない。電子レンジなど、男の一人暮らしには必須のものではないのか。棚の上にも写真や小物などが飾ってあるわけでもなく、クロダにはそれが急ごしらえで作られた人為的なもののような印象が拭えなかった。
「あ、あの! 外の奴らは何者で、あなたは誰なのですか」
 クダンがクロダの足元にしがみつかんばかりに近寄って訊ねるので、クロダは部屋の疑念などふっと忘れて、クダンの肩を引っ張り上げて立たせる。
「奴らはカクタスという裏社会の人間の手下だ。私はクロダ。公安警察のものだ。下に仲間の車を待たせてある。行くぞ」
 クダンは恐怖に歯をがちがちと鳴らし、憔悴しきった様子で、「あ、あ、でも、奴らが狙っているものとか、持って行かないと」と隣の部屋のデスクを指さした。
 クロダは平静を装いながら、「そうか、なら急げ」と指示しつつ、勝利を確信して心の中で凱歌を上げていた。
 クダンは雑多なもので散らかったデスクの上から迷って、切れた犬の首輪と、スマートフォン、財布を鞄に詰め込んで、「行けます」とクロダの前に直立不動で立った。
「よし、私がいいと言うまで部屋から出るな。いいな」
 クダンは赤べこのように繰り返し首を振って頷いた。
 クロダは勢いよく扉を開け、扉に背を向けていた男たちに飛び掛かる。三人の男が密着していたので、彼らは俊敏に振り返って銃を撃つことができず戸惑い、その隙に一人が銃を持った手首を折られてそのまま銃で胸を撃たれて倒れ、クロダがもぎ取った銃でもう一人の額を撃ち抜く。最後の一人は倒れかかってくる男たちの死体を盾にして銃を撃とうとするが、クロダの足に蹴り飛ばされ、背後に回り込まれて首を折られた。
「いいぞ、クダン」
 クダンはクロダの声に恐る恐るといった様子で扉を開けて出てくるが、廊下に転がった男たちの死体を見て短い悲鳴を上げた。
「なよなよと臆している暇はないぞ。じきに奴らの増援が来る」
 はい、とはっきりと返事をして、クダンは死体をそろりそろりと避けてクロダを追う。下まで下り切ると、ちょうどのタイミングでアキが車を入り口に横づけし、クダンはクロダに押し込まれるようにして車に乗せられる。
「よくやったわ、クロダ」
 お安い御用です、アキさんと額にじんわりと浮いた汗をハンカチで拭うと、後部座席に置いてあった段ボール箱から白いロープを取り出して、困惑するクダンの腕を捻って後ろ手に縛り上げる。クダンは抵抗を試みることなど忘れ、ただ「やめてください、お願いです」と懇願するだけだった。
「どうして、こんな、クロダさん」
 悪く思うな、と言いながらクロダはクダンの足も縛る。
「抵抗だとか、逃亡だとかされても面倒なんでな」
「抵抗だなんて、私は」
 クダンは震えてもつれる舌でようやっとそう言った。軟弱な男だ、とクロダは前髪をかき上げ、視線を逸らして息を吐いた。
「わ、私はただの探偵で。裏社会だとか、組織だとかとは縁がない、犬猫探しや浮気調査を主に請け負う探偵です。ドラマみたいな名探偵ではないんです……」
 ほとんど泣き出すかと言わんばかりの様子にクロダも呆れかえってしまった。
「それは不運だったな。ただの探偵のクダンさん。だが、お前は知るべからざるものを知って、持つべからざるものを手にした」
「恨むなら、己の運命を恨むのね」とアキも堪えきれなかったのか、愉快そうに笑ってそう言う。
「カフカ曰く。『求める者は見つけず、求めない者は見つかる』だそうですよ」
 突然落ち着き払った様子で言い出したので、何事かとクロダはぎょっとして、アキも思わずルームミラー越しにクダンを見た。
「初めまして。アキさん」
 ルームミラーを介して、アキとクダン、二人の視線がぶつかり合う。アキはクダンの目の中に、先ほどまで彼を支配していた怯えを見てとることができなかった。清涼な春風が吹くがごとく堂々としたクダンの様子に、今度はアキたちの方が戸惑う番だった。
「いいえ。こう呼んだ方がよろしいですかね」
 クダンは不敵な笑みを浮かべる。
「矢崎秋奈さん、と」
 アキはアクセルを強く踏み込んだ。その勢いにクロダとクダンはよろける。
 この男は知りすぎた。早急にメモリーカードを回収し、この男、クダンの口を封じなければ。それからカクタスだ。クロダと二人がかりでかかれば倒せない相手ではない。今は一刻も早く、あのメモリーカードを手に入れなければならない。あれには、カクタスだけではない、自分たちの運命もかかっている。
 アキはさらに強くアクセルを踏み込む。スピードメーターがぐんぐん上がっていく。
 その後ろでクダンは、ただ泰然とした笑みを浮かべて座っていた。

〈続く〉


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