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 地面にくっきりと刻まれた二本の線が少年、ユールの目の前から、ずっと彼方へと伸びているように見えた。
 二本の線はユールが大股で二歩分歩いたほどの幅があり、しゃがんでよく見ると、線には雷状の紋様が無数に刻まれているようで、地面にもその跡が残って見えた。木輪ではなく、ゴムを使った車輪だろう、とユールは当たりをつけた。ただでさえ行商人が珍しいこの地域にあって、車輪にゴムを使う余裕のある商人が来ることは非常に稀だと言える。
 ユールは商人が何を載せていたのか、無性に気になって夢想してみた。大きな荷台には様々な品物が所狭しと積み込まれている。馬の蹄の跡がないことから、人力でそれを引いているのだろう。中年の、カンカン帽を被った髭の男が、ふうふうと言いながら荷車を引いて、その彼の息遣いや鼓動に呼応するように荷車は揺れ、品物ががちゃがちゃと音を立てる。二本の溝は深く地面に食い込み、抉っている。品物の多さ、または重さを示す証左だ。
 居ても立っても居られなくなったユールは、働いている工場に飛び込んで、工場長に暇を告げると、怒鳴られながらそこを後にして家に帰った。そうしてリュックに詰め込めるだけの食料や日用品と金を詰め込むと、大慌てで家を出た。その頃にはもう日も傾き始めて、隣の家で飼われているハスキー犬のリンが聞くものをどことなく、うら寂しくさせるような悲しげな遠吠えを上げていた。リンは必ず夕方五時から遠吠えを始める。ユールは「じゃあね、リン!」と声をかけると二本の車輪の線のところまで戻った。
 線の始点に立ち、ユールは大きく深呼吸して、足を踏み出した。一歩目をゆっくり大股で。二歩目はそれより少し早く、三歩目はもっと早く大きく、といった具合に。
 二本の線は街の出口から西へと真っ直ぐに伸びていた。これが東や北だったらお手上げだった。東や北の街道は敷石で舗装されていて、車輪の跡など残らないからだ。その分、西の街道は安心だ。次の街まで舗装されたところはなく、車輪の跡が残りやすい柔らかい土質の道になっている。
 隣り街までは約三日の行程というところ。空も雲一つなく、からりと晴れている。恐いのは雨だ。雨が車輪の跡を流してしまって、後を追えなくなるのは避けたい。だが、今は乾期だ。よほどのことでなければ雨は降らない。とはいえ、油断していると突発的に降ることもある。
 さらに恐いのは、山賊だ。食い詰めた農民や、博打などで身を崩した者たちが集まり、徒党を組んで街道を行く商人や旅人を襲ったりする。ユールのような、いかにも金を持っていなさそうな一人旅の者でも、これまた油断はできない。奴らは身包み剥いで、衣服はおろかユール自身も商品として売るに違いなかった。
 一日目は平らな原野を横切っていくので、見通しもよく、危険は少なかった。野で風に揺れる色とりどりの花に見とれるくらいの余裕があり、夕方ということもあって、早めに街道沿いにキャンプを張って休んだ。そこには旅芸人の一座がやはりキャンプを張って休憩していて、ユールは彼らのテントに招かれて、伝統的な肉料理や豆のスープをご馳走になって、彼らの舞を見せてもらった。舞姫に気に入られたユールはキスと旅のお守りにと霊験あらたかな聖水で清めた銀の短剣を贈られ、代わりにユールは身に着けていた、黒曜石を磨いて作ったブレスレットを贈った。
 二日目、一座に別れを告げて道を進み始めると、人気のない原でキジが一羽腹をかすめて、羽を撃たれて倒れているのを見つけた。半矢にした獲物に、撃った猟師以外が手を出すのはこの国では御法度だったが、撃った猟師はおろか、人気などまったくなかった。恐らく撃たれた場所から懸命に逃げてきて、この平原で力尽きてしまったのだろう。であれば、権利のある猟師が現れる可能性は低いな、とユールは考えた。だが、獣医師などに見せれば奴らは法外な金額を吹っかけてくるだろう。街の、羊飼いのヨシュアは、羊が病にかかったとき、それを治療するのに、羊の毛を寿命が尽きるまで刈り続けて売ったって追いつかないような金額を請求された、と泣いていた。
「待ってて。今応急処置をするから」
 ユールはリュックの中から消毒液と包帯を取り出すと、弾丸は羽を貫通して残っていないことを確認し、消毒液を傷口に振りかける。するとキジは「痛い、痛い」と泣くので、「我慢だよ」と押さえつけながら消毒を終えると包帯で患部を巻いていく。
 キジは大人しくユールのされるがままにしていた。
「なぜわたくしを助けたのです。街で売れば、いい値がついたでしょう。それか、今晩の夕餉にちょうどよかったのでは?」
 キジが腹や羽に巻いた包帯を不思議そうに眺めながら、殊更不思議そうな丸い目でユールを見上げてそう問うた。
 ユールは人差し指を顎に当てて、うーん、と青い空を見上げながら考えた。自分の心に従っただけで、何の打算もない。でも、この聡明なキジはきっと納得のいく答えがほしいのだろうな、と思った。
「旅の道連れが欲しかったんだ。ほら、君は気品もあるし、博識そうだから」
 褒められて満更でもなかったのか、キジはこほんと咳払いをすると、怪我をしていない方の羽を大きく広げてから体の前に折り、器用にお辞儀して見せた。
「そういうことならば、仕方ありませんわね。ご恩に報いるのも、貴婦人としての務め」
 こうしてユールの旅路にキジが加わることになった。
 そうして三日目、もうすぐ隣り街に辿り着く、というところで、ユールはだんびらを提げた麻の布を被っただけの出で立ちの山賊三人組と出くわしてしまった。
 ユールは抗議するキジに構わず、彼女をリュックの奥底に押し込むと、銀の短剣も一緒にキジに押し付けた。その二つの品物は、見つかった瞬間山賊の手に落ちてしまうだろうから。
「よう坊主、いい天気だな。どこへ行くんだい」
 山賊の中の、一番背が高くがっしりとした体つきで、ごわごわとした黒い髭を蓄えた男が開口一番にそう訊ねると、ユールは内心冷や汗をかきながら、「ええと……」と言い淀むふりをしながら冷静に三人組を観察した。
 一番背の高い男の後ろには、背の低い男がいた。黒い眼帯を右目につけていることから、隻眼で、剥き出しになっている肩を見ても刀創の跡が無数についている。首には緑柱石の首飾りをつけているが、女性的な意匠のものだ。多分、貴族や裕福な商人から強奪したものに違いない。一番後ろには禿頭の中肉中背の男がいる。この男が一番油断なく目を光らせている。けっして子どもだからとユールを侮って見ていない。おまけに腰に提げているのは両刃の長剣だ。もしかすると正規の訓練を積んだ剣士なのかもしれない。とすれば、見つかった時点で逃げるのは無理だ、と算段し、ユールは声をかけてきた長身の男ではなく、一番小柄な男に向かって、「僕は金目のものは持っていません。でも、提供できるものがあります。交渉しませんか」と声をかける。
 小柄な男は苦虫を嚙み潰したような顔になった後で、目を鋭く光らせ、「なぜ俺に言う」としわがれた声で問う。
「あなたが一番偉い方だと思ったからです。相手が子どもであれ、最初に接触する危険を頭自らが冒すとは思えません。そして後ろの方の油断のなさ、そして気を配っている相手があなただと分かれば、後ろの方は護衛で、護衛がつくほどの方であればお頭さんだと思ったのです」
 小柄な男はふん、と鼻を鳴らすと興味深そうにユールを眺め回し、後ろの護衛の男を振り返って、「小僧に気取られるようじゃ、お前さんもまだまだだな」と凄みのある笑みを浮かべて言った。護衛は無表情に、「はっ」と答えて、ユールを一瞥した。
「で、提供できるものってのはなんだい」
「交渉していただけますか」
 山賊の頭は首を振って、「交渉に値するものならな」と言うとその場に腰を下ろし、他の二人もそれぞれ両脇に控えるので、ユールもリュックを下ろして頭の前に座った。
「もしつまらねえものなら、お前さんを売り飛ばすから、そのつもりでな」
 にやりと笑った頭の笑みにユールはぞっとすると、息を飲んで、呼吸が荒くなっていることに気づいて、胸を押さえて心の中で「大丈夫、大丈夫だ」と繰り返し、落ち着かせる。その様子を見ていた頭は、がはは、と豪快に笑って、「なんとまあ肝の据わったぼうずだ。この俺を前にしてな」と膝を叩いた。
 ユールはリュックから一枚の羊皮紙を取り出すと、三人の前に広げて見せた。
「こりゃなんだい」と頭は顎髭をしごく。
「この辺りの地図です」
「そりゃ見りゃ分かる」
 まさかこんなもんが、と長身の男がだんびらに手をかけるのをユールは想定内だと、落ち着いて眺めながら、「よく見てください」と街の西北の辺りを指さす。
 頭はじいっと地図を眺め、「なるほど、こいつは」と何かに気づいたようだったが、他の二人は首を傾げていた。やはり頭だけあって、知識や教養は山賊と言っても侮れない。この男からうまく逃げおおせるだろうかと、ユールの背筋を冷たい汗がつつと流れ落ちる。
「これは古代地図の模写です。つまり、旧時代の街の構造や、周辺地形が記されている。この辺りは地殻変動の影響が少なく、街も古代都市を元に建造されたこともあって、差異は少ないのです。ただしこの西北に記された、街を囲む城壁の内部に入る地下通路。この存在は今の地図には記されていません。でも、実際に地下通路が存在し、内外へ出入りできることは、僕が確かめました」
 模写でなければ、地図と引き換えに逃がしてもらうところだ。本物の古代地図なら、お屋敷が一棟建つくらいの値にはなる。古書店のツィルガーじいさんには礼を言わねばなるまい。店に通って貴重な文献を自由に漁らせてもらった甲斐があった。
 街に自由に出入りできるということは、警備の兵の意表を突いて、安全に街を襲撃できるということだ。そのことの価値に、山賊の頭ともあろうものが気づかないはずがない。
「で、この地図と引き換えに見逃せと、そういう料簡かい」
 ユールは唾をごくりと飲んで、おもむろに頷いた。
 頭はふうん、と値踏みするように地図を眺めると、両脇にいた二人に「お前らはどう思う」と意見を求めると、二人とも「悪くない話かと」と肯定した。山賊側で最善なのはユールを始末し、地図を奪うことだ。だが、頭としては交渉の席につきながら、小僧相手に仁義を通さなかったとあれば、配下の指揮や信用に関わる。二人もそう考えての同意だろう。ここまでは、ユールの想定内だ。後は頭が二人の意見を容れてくれれば……。
 頭はにっと笑ってユールの目を覗き込み、地図に掌を叩きつける。
「だめだな。交渉は成立しねえ。地図はもらう。だが、お前さんをこのまま行かせるわけにはいかんな」
 頭、それでは、と長身の男が窘めようとするのを頭は横っ面をひっぱたいて「黙ってろ」と怒鳴りつける。
「お前ら、足りない頭で考えてみろ。この地下通路は一か所だ。俺たちがこの地図を頼りに襲撃をかけたとしよう。だがな、このぼうずが憲兵のところに駆け込みでもすりゃあ、大勢の兵士が通路を囲んで一網打尽だ。極楽への入り口が、地獄への片道切符に成り果てるって寸法だ。そして恐らく、このぼうずはそこまで計算してこの話をもちかけていやがる」
 ユールは血の気が引いた。頭にはすべて読まれてしまった。それを否定するだけの合理的な根拠を持ち合わせていない。舌の根が震えて言葉を紡げない。口が言うことを聞かない。何か言わなければ。何か。護衛の男が長剣に手をかけた。逃げるか。いや、立ち上がるより早く長身の男のだんびらが自分の首を飛ばす。戦うか。万に一つも勝ち目はないけれど。どうする。どうする。考えろ。
 長身の男がだんびらを抜いた。と同時にリュックから飛び出した影が長身の男の顔に飛び掛かって、男は呻き声をあげてやたらめったらにだんびらを振り回した。
「ユール! 逃げなさい」
 キジだった。キジは果敢に男に飛び掛かり、執拗に男の目を狙ってかぎ爪を振るっていた。キジの声に我に返ったユールが立ち上がって走り出すのと、護衛の男が長剣を抜いてユールに向かって鋭い突きを繰り出すのが同時だった。
 護衛の男の雷光のような突きは、ユールのリュックを貫いて刺さった。ユールは前にもんどりうって倒れる。護衛の男は訝しそうな顔をしていたが、ユールにとどめを刺そうと一歩、また一歩と近づいてくる。キジは羽を散らしながら懸命に戦い、悲鳴のような鳴き声を上げる。
 そこへ、鼓を打ち鳴らすような蹄の音を響かせながら一頭の馬が走ってくる。護衛の男は瞬時に構えを取り、馬に向かって剣を振るうが、馬はいななきながら前足を上げてのけ反り、その剣の一振りを躱す。そして馬から矢のように人影が飛び、護衛の男の片腕を斬り落とす。
「ユール、立ち上がって。貴方にはわたしたち一族の守りがある」
 ユールと男の間に剣を持って立ち塞がったのは、旅芸人の一座の舞姫だった。
 ユールは舞姫の言葉で気が付いて、起き上がってリュックの穴を覗くと、舞姫から贈られた銀の短剣があった。その剣で命拾いしただけでなく、こうして救援にまで来てくれることがユールには理解できなかったが、彼女らの部族にはブレスレットを贈ることは求婚を意味するという風習があり、舞姫はそのために追って来たのだということは、ユールも想像がつかない。
「走って! 後から必ず追いかけるから」
 ユールは頷いて駆け出す。後ろから頭の「馬鹿野郎ども! 逃がすんじゃねえ」という怒号が響いてくるが、キジと舞姫が足止めをしてくれているおかげで、ユールは無事隣り街に辿り着くことができた。すぐに憲兵所に駆け込んで、街道で山賊に襲われ、まだキジと舞姫が残って戦っていることを伝えると、憲兵は一隊をすぐに組んで討伐に向かってくれた。
 安堵したユールは宿に入ったが、食事もろくろく喉を通らず、夜もまんじりとして眠ることができなかった。もう山賊が襲ってくることはないだろうが、銀の短剣を護符のように抱えてベランダで夜風に当たっていた。
「夜風は毒ですわよ」
 声に振り返ると、ベランダの縁にキジがとまっていた。包帯はぼろぼろになっていて、美しかった毛並みも羽毛がところどころ剥げて痛々しそうだった。
 よかった、よかった、とユールはキジを抱きしめて涙を流した。キジは照れ臭そうにふんとすまし顔をしてそっぽを向きながら、「恩を返したまでですわ」と震える声で言った。本当はキジも泣き出しそうなほどに嬉しかったが、ユールが先に泣いてしまったので泣く機を逸してしまったのだった。
「無事でよかったわ」
 鈴なるような声に、顔を上げると、そこには舞姫がいた。ユールはキジを解放すると、舞姫に歩み寄り、その手を取って額に当て、何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。
「いいのよ、未来の夫に何かあったら大変だから」
 夫、と怪訝そうにユールは首を傾げる。その分じゃ、何のことか理解してないわね、と舞姫は苦笑し、それでもいいか、と煌々と光を放つ黄金の月光を浴びて大きく伸びをした。
「もう眠いわ。明日からに備えて寝ましょう」
 え、とユールが訊き返すと、舞姫は至極当然のことのように、「わたしもついてくからね」と言って、月下の妖精を思わせる可憐ながらも意地の悪い笑みを浮かべて、踵を返した。
 ユールはキジに「どういうことだろう」と訊ね、キジは額を押さえて嘆息し、「女心には鈍いんですから」と呆れる。
 釈然としないながらも、二人の安否が分かって安心したユールの元にも睡魔が訪れ、彼はベッドの上に倒れ込むと、泥のように眠った。
 翌日、ユールたちは当初の目的である車輪の跡の持ち主である荷馬車を探した。それらしい行商人の姿は見つからなかったが、聞き込みで数日まえに一人の行商人がやってきたと市場や街中の人から情報を得ることができた。しかし、どんなものを売っていたかと訊くとばらばらで、イキのいいカツオやらマグロやら、海産物を運んでいたぜ、という者があれば、いやいや、化け物のように大きなかぼちゃを積んでいたな、という者があり、果てには、ばか言っちゃいけねえ、世にも珍しいアンティークの宝飾品なんかを運んでいたという者もおり、その商人が何を運んでいるのか、何の手掛かりも得られないのだった。
「どうするんですの、ユール」とキジは風が吹いてくる方向に顔を向けて風に当たりながら、わくわくとした好奇心を恥じながらも抑えきれずに言う。
「わたしはユールと旅ができれば、それでいい」と舞姫は屈伸をしたり、体を捩じったりして、軽い運動をしながら太陽のような笑みを浮かべて言う。
「行こう。僕はあの轍が知りたくて、旅を始めたのだから」
 本日も晴天、都合のいいことに轍は再び西へと伸びて、その跡を残している。

〈了〉

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