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うつつゆめ(後編)

■前編はこちら

 気づくと、うつらうつらしていた自分がいた。夢見るように先ほどまでの出来事を見ていた。果たせずして、死神に迎えられるのも近いらしい。
 もう四肢は動かなかった。腰のナイフや傍らに落ちた銃で自決することもできない。凍てつく風に命の灯火を晒して、なすがままに嬲られ、やがて消し去られるのを待つばかりだ。
 雪交じりの突風が吹きすさぶ。視界を瞬間奪われ、やがて収まり平静を取り戻したときには、そこに瑠璃のような青い体毛の四足獣がいた。
 獣は獅子ほどの大きさがあり、体毛は毛氈のように滑らかで、顔立ちは狼に近い。鼻と口が突き出て、鋭い牙が覗いている。狼と違うのは耳が長く、額には鏡面のように輝く白銀の短い二本の角があった。そして目は金色に輝いていた。
(食うか。おれを)
 目もかすんできた。距離感が掴めなくなる。獣と自分の間には千尋もの差があるようにも、息がかかるほど目の前にいるようにも思えた。
「食わぬ。我はうつつ。食らうは夢のみ」
 獣は声を発した。しわがれた老人の声だった。だが妙に朗々と耳に響いた。それよりも私が驚いたのは。
(人の心が読めるのか)
 獣はぶるぶると鼻を鳴らした。どうやら笑ったらしい。口の端が吊り上がり、より鋭い牙がそこから覗いていた。
「お前は理解していない。心など存在しない。ここには人なるものなど、存在しない」
 あるのは唯、と獣は続けて言葉を切る。顔をずいと近づけて金色の双眸で私の顔を覗き込む。獣の息が顔に吹きかかる。だがそれは獣くさい鼻を捻じ曲げる悪臭ではなかった。日向に干した藁草のそれのようにも思えたし、母親が野菜を刻む横でことこと音を立てるスープの匂いのようでもあり、戦場で幾度も嗅いだ血の匂い――敵であろうと味方であろうと、その血の匂い、死の香りは同じだった――それにも思えた。獣の息の中に、私の人生が詰まっている、そう思えた。
「夢のみ。お前が信じる世界とやらは存在しない。すべては泡沫の夢」
 獣が顎から垂れる毛氈のカーテンのような髭を揺らし笑うと、私を包んでいた景色が一瞬の間に消え去り、白い、ただひたすらに白い空間が現れた。上下左右に白一色が広がり、切れ目などもないことから、どこからどこまでが上なのか下なのか、右なのか左なのか分からなくなりそうだった。しかも地面という概念すらないのか、その白い空間を私は揺蕩っていた。自由に体を動かすことはできたが、その場から一歩も移動することはできない。
 子どもの頃、牛乳に落ちたハエを思い出した。私にはたきで強かに叩かれ弱っていたハエは力尽きて牛乳の中に落ち、もがいたが乳がまとわりついて飛ぶこともできず、缶の縁に辿り着くこともできずに死んで浮かんでいた。
 今私は、あの時のハエと同じだ。
 だが、ふと気づく。体に痛みがない。わき腹を確かめると、傷どころか軍服の破れすら消えていた。左手の刺し傷もない。戦闘の疲労感すらなく、私は人間を縛りつけ引きずり下ろす身体という枷から解き放たれているような気がした。
「なるほど。これが死の間際に見る夢というものか」
 私が納得して一人ごつと、目の前に獣が現れた。水底に沈んでいたものが現れるように畏怖と静謐さをもって。
 獣はくつくつと笑い、体を揺らした。
「お前たちは面白いものだ。どんな夢も、この空間にやってくるとここが夢だと言う」
 私はあがくのを止めて、ただ浮かぶに任せた。柔らかくも固い、さしずめチーズのようなものに包まれてしまったように感じた。
「ここが夢でないなら、どこだと言う。死後の世界か」
「生死とは夢の始まりと終わりを告げる鐘の音に過ぎぬ。死の後に世界はなく、死の前に世界はない。お前たちの使う言葉を借りて言うならば、だが。そもそも、世界などというものは夢が生み出した概念に過ぎぬ。存在はせぬ。あるのは唯、我うつつのみ」
 私は目の前の獣に反感を覚えながら、それでもその言葉を理解しようと試みた。私たちの生きていた世界こそが夢で、現実とはこの青い獣がいる気色悪い白い空間のことなのか。
「いかにも。お前の生きていた世界とやらはお前が生み出した夢だ。歴史も文化も家族も、それにまつわる物語も、それらを紡ぐ言葉とやらの全ても、お前が生み出したもの。存在しない泡沫。お前という夢が生じたが故に形成され、お前という夢が死した後には消滅する儚きもの」
 馬鹿な、と思わず叫んでいた。
「あの世界のすべてをおれが生み出したというのか。そんなことが人間にできるはずがない」
「人間なるものも、夢であるお前が生んだもの。夢によって種族は違うが、二足歩行の似たような生物が繁栄するのを好むらしい。我は幾千幾万……数など無意味だな、そうした夢を見てきた」
 獣は大儀そうに寝そべり、口を大きく開けてあくびをした。赤い口蓋からは鋼鉄の剣先のような牙がみっしりと並んで覗き、喉の奥には真っ黒な深淵が広がっていて、飲み込まれてしまいそうな、くらくらする錯覚を感じた。
「夢の主は、どうやら傍観者である視点を保てぬようでな。夢の世界を形成した後で、その中の住人の一人として生じ、夢の世界を彷徨する。そして夢が終わりを告げるとき、その存在は滅し、夢は閉じられる」
「ならば、もうおれがいたあの世界は存在しないということか」
 獣は首をゆっくりと振って「いや」と答えると、目の前に息を吹きかけた。すると白い空間に細い幹の樹が現れ、天に向かって伸びていっては枝葉を生やし、そしてやがて葉は萎れて散って、枝も頭を垂れたようにだらりと力なく下がった。
「これは夢の樹。夢はその中でどう生きたかで花を咲かせ、実を成らす。熟した実を我は食し、その中にあった種を再び蒔く。そうすれば新たな夢が生まれる。お前たちのいう世界とは唯それだけのもの。我が夢を食らい、新たな夢を生む。唯それだけのサイクルを世界、うつつと言う」
 私は目の前の樹に向かって手を伸ばした。届かない、と空を掴んでいると、樹の枝がするすると伸びて、手に触れた。触れた瞬間分かった。分かってしまった。だが受け入れられなかった。私が愛した人々も、殺さなければならなかった者たちも、すべてがみな幻で夢であるなどということは、本能が理解していても理性が受け付けなかった。
「お前の樹はまだ滅していない。ならお前は辛うじて存在していると言えよう。だがやがて無になる」
 うつつが顔を上げて、すうと息を吸ってゆっくりと吐いた。白い息は渦巻く煙のように宙を漂っては広がっていく。やがて私の視界を覆い隠すほどになり、そして急速に、波が引くように晴れていった。
 目の前に広がっていたのは見慣れた雪原だった。私は大岩に身を寄り掛からせ、懐を見ると血の染みがあり、左手の方に目をやると、肉どころか骨まで覗いた痛々しい刺し傷があった。体の感覚はほとんど寒さと足音を響かせて近づいてくる死の気配に奪い去られていたが、痛みははるか遠くではあるが、感じた。
(この寒さも、痛みもすべて夢。幻だと言うのか)
「いかにも。それらはすべて存在せぬもの。お前自身が存在しない故に、お前の痛みなどという観念は存在せぬ。理解せよ。すべては夢。在るのは唯うつつのみ」
 目の前ではうつつが先ほどと変わらない姿勢で寝そべって前足を舐めていた。そうしていると、巨大な犬に見えないこともない。
(おれも、他の何もかもが存在しないか。無限に思えるページの、巨大な物語のようなこの世界が、ただの無だと。そんなことを受け入れろと)
 うつつは「受け入れるという思考が既に無価値」と断じた後で、思案するように眼差しを空に向けて、右前足をすっと静かに上げた。
「夢が滅する、それまでのほんの戯れ。付き合うのもよかろう」と顎で私の後方を差す。
 四肢が動かずとも、首ならば。ましてこれが夢だというならば、と懸命に首を後方に巡らせた。震えながら見た先に立っていたのは、幽玄たる人々の群れであった。
 人々の群れはどこかどんよりとほの暗い、灰色の空気を纏い、陽炎のように揺らいでいた。そしてその中には、私のよく見知った人たちがいた。それ以外にも、どこかで見た顔ばかりだ。
 群れの中に先ほど殺したはずの少年、皇子の姿を見つけてぎょっとしたが、それ以上に私の心胆寒からしめたのは、皇子の隣に立った、射殺されたはずの王太子妃だった。
「この者らは、お前たち夢が言うところの『殺した』人間たちだ」
(幽霊、とでも言うのか)
 うつつは愉快そうにだが不気味に声を引きつらせて笑った。
「ここは夢。生命なるものは存在しない。それ故に幽霊などという概念は無駄でしかない。ここが夢であるが故に、うつつである我にはこのように自在となる」
 私はうつつの言葉を半聞きながら、目は王太子妃に釘付けだった。彼女は最期の時に着ていた、彼女の気性を表したような真紅のドレスに身を包んでいた。風にそよぐ麦穂の海のように波打つブロンドの髪、深い泉の底から掬ったような紺碧の目。それらすべてが、あの日あの時のままだった。
 王太子妃はおもむろに、気品がありながらもどこか爛れた有閑とした仕草で腕を上げると、私を指さした。
 彼女の青い目には怒りも憎しみも見えなかった。ただ虚無のみを映していた。それが私には辛かった。
 私と王太子、それから王太子妃の三人は士官学校の同期だった。そして彼女は私の恋人だった。
 士官学校を卒業して進路を異にしても、私たちは愛情を育んでいると思っていた。私は志願して激戦区の前線を渡り歩いて、経験を積んだ。そのため本国に帰還するのは年に何回かしかなく、彼女に寂しい思いをさせているのは分かっていた。だが、彼女も深窓の令嬢といった趣の女性ではなく、むしろその真逆で、何でも自分でこなせてしまう凛と自立した人だったので、距離や時間が私たちの愛情を阻害するとは微塵も思っていなかった。
 我が国が干渉していた他国の内戦に決着がつき、一度戦場から引き上げることが決まったので、そのタイミングで彼女に結婚を申し込もうと考えていた。だが、約束した日時、場所に彼女はやって来なかった。張り切って新調した一張羅に身を包んで、私の給金からは考えられない高級レストランの柔らかい座布と背もたれに体を預けながら、三時間待ち、閉店時間になったが彼女は現れなかった。その日から、彼女と連絡がとれなくなった。
 そのちょうど三か月後。奇しくも私と彼女が交際を始めた記念日に、王太子と彼女の婚約が発表された。新聞には幸せそうに民衆に微笑みかける彼女の笑顔と、「士官学校から育み続けた純愛」という見出しが躍り、頭の中が真っ白になった。気づいたときには新聞はぐしゃぐしゃに丸められて床に転がり、洗面所の鏡は粉々に砕け、陶製の洗面台は割れて床に散らばっていた。
 ああ、大家になんとどやされるか。私はそう考えて引きつった笑みを浮かべて、そして声を上げ、腹を抱えて笑った。これじゃあまるで三文芝居の脚本だ。だが、役者ぶりは一流だ。ここまで呆けた道化ぶりは古今東西探してもそうはいないだろう。私は愚かにも信じていたのだ。不変なものがあると。それは愛と人が名付け呼ぶものであると。歴史でもいい、詩でもオペラでも小説でもいい、紐解いてみれば、そんな幼稚な考え、と私を一笑に付す証拠がいとも簡単に見つかっただろうに。
 それから王太子の護衛に抜擢されて三年。当然彼女は反対したらしいが、私の腕を買っていた王太子は聞き入れなかった。強硬に反対しては不審がられると考えたのか、彼女もそれ以上は抗しなかった。
 私は懸命に護衛として働いた。彼らのために身を粉にして。彼女はその間一度も私の前で笑うどころか、目も合わせようとしなかった。
 そしてあの日が来た。黒衣の暗殺者が警備体制の間隙を突き、宮殿の大階段の上に現れた、あの瞬間が。警備体制の隙も、後から資料を追っていくと、彼の国側の差配に問題はなく、我が国の方で作為的に作られたものであることが分かった。とすると、我が国の上層部の誰か、それも国交の警護にまで口を出せる上の人間が関わっていたことになる。
 私が第三隊に回されたのは、あるいはそのことを勘づいたことを握られたのかもしれなかった。
 暗殺者、皇子は大階段を疾風のように駆け下り、私を含め護衛六人が銃を抜いて構えるより速く、投げナイフで二人の喉を射抜いて殺した。
 私は即座に王太子を庇い、回避行動をとらせた。その間に王太子妃と王太子の妹の護衛についていた二人が皇子の抜いた双剣で首を斬られて倒れ、もう一人残った護衛が王太子妃を庇うように立って発砲したが避けられ、躱しざまに無防備になった妹が首を斬られて絶命し、発砲した護衛も投げナイフで喉を貫かれて死んだ。
 王太子は激昂し、私の腰から強引に剣を抜くと、皇子に猛然と突進して行った。王太子が卓越した剣の使い手だとは知っていたが、暗殺者の剣はそれ以上の底知れない淀んだ沼のような不気味さを感じさせたので、私は銃を構えて援護しようとした。
 射線上には三人いた。暗殺者である皇子、王太子、そして王太子妃。
 あの瞬間、私の頭の中は真っ白になった。彼女の婚約を知ったときと同じように。そして何もなくなった思考のキャンバスに、悪魔がその禍々しい設計図を描いたのだとしか、私には思えなかった。思いたくなかった。
 護衛対象を皆殺しにされ、唯一無様に生き残った護衛として、査問会に立たされ幾度も問われたとき、私は疲弊して無精ひげを生やし、こけた頬を動かしながらその度答えた。「あれは暗殺者を狙ったものであり、乱戦の中での誤射であります」と。答えれば答えるほど、それが真実であると私にも思えてきた。
 私は無能な護衛として国民からの批判を一身に背負うこととなったが、軍事法廷は私へ罪の宣告をすることはなかった。
 そう、あの瞬間。私は撃つことができたのだ。我が国に牙剥く不届き者か、私の恋人を奪った、親友と信じていた男か。それとも、身分や奢侈な生活のために私を裏切った女かを。
 忠良たる軍人であれば、迷いなく暗殺者に向けて引き金を引いただろう。そうすれば、彼を射抜き、王太子の命は救われた。だが私が暗殺者に向けて撃ったのは二射目だった。その時には皇子は王太子を斬り伏せ、態勢を整えて逃げるところだった。私の撃った弾丸は容易に飛び退って回避され、当たることはなかった。
――乱戦の中の誤射であります。
 私の言葉が頭の中で響き渡った。誤射? 違うな。あれは。
 銃口ははっきりと彼女の頭を捉えていた。迷いなど何もなかった。公然と王太子妃を殺して逃げおおせる可能性のある機会など、この先二度と巡ってこないだろう。その間に王太子妃は子どもを産む。どういうわけか私には見える気がした。凛々しくも優しい男児と、気弱に見えながら芯の強い女児の二人――。恐らくは我が国を担っていく要石となる子どもたちが。もし彼らが生まれてしまえば、機会があろうとももう王太子妃を殺すことはできなくなるだろう。夫から妻を奪えても、子どもから母親を奪うことはできない。
 刃物を研ぐときには、その金属よりも固い物質に擦らせて研ぐものだ。砥石が固ければ固いほど、鋭い刃物が出来上がる。私は憎しみと愛情という二つの砥石で殺意を研いでしまった。憎しみだけならば、彼女の命を奪うほど鋭い刃にはならなかっただろう。
 だが、私は人を殺せるほどに固く、彼女を愛していたのだ。陳腐な言葉だ。だが私は己の感情を表現するほかに適当な言葉を知らない。その一言に凝縮されるほど、私の感情は穏やかで激しいものだった。それを内に秘め、刃を磨き続けてきてしまったがために、あの瞬間が訪れてしまった。
 それは一瞬のことだった。彼女の方でも私の銃が向けられていることに気づき、驚いて目を丸くして、そして微笑んだ。王太子妃になって以来、初めての笑顔だった。私の好きな、目を少し細めた微笑み。
 彼女の笑みと私の銃口の間に、永遠の時が流れたように思えた。そんな、時を超越した刹那だった。
 あの笑みは幾千の言葉を交わした末の同意とも思えた。彼女の名を呟いて私は強い意志の下、引き金を引いた。
 そして私は汚名返上の機会として第三隊に配属され、任務を果たせず異国の地で屍になる。
(おれは彼女を殺した。だが、うつつよ、お前は言うのだろう。そのおれの憎しみも愛情もすべては消えゆく幻影のような夢なのだと)
 うつつは笑った。「少しは我のことが分かったようだな」
 私も笑ってみせた。声を上げて、肺が凍りついたように痛み、咳き込みながらも笑い声を上げてみせた。
 彼女への想いも憎しみも、夢として消えてなかったことになる。いや、うつつの言い方だと、そもそも彼女への感情なんてものは存在しないらしい。彼女自身も、彼女への想いも、私が生み出した夢の被造物に過ぎない。
 それを受け入れることができる人間などいるだろうか? もしいたならば、その人間は既に狂人だ。私は狂うしかないのか。だが、狂えどもそうでなくとも、じきに私は死ぬ。そうなれば、もしうつつが死の前に現れた夢で、ここが現実だったとしても、私の想いは永劫の闇の炎に焼かれて消え去る。どちらにしても、私のすべては無になる。
 それはいい。だが耐えがたいのは彼女が無となることだ。彼女の笑み、声、美しい目。そうした私が心焦がして愛したものが幻影で最初から存在せず、更にその幻影すら泡と消えるのは私には耐えがたかった。
 ならばどうするか。ここが夢だというならば。夢が現実に成り代わるにはどうしたらいい。
(うつつ。お前は夢の中で自在に振る舞い、そしてやがては食らう。ならばこの夢の中の主であるおれはどうだ。お前のように振舞えるのではないか?)
 傷などない。寒さが体を蝕むなんてことは幻だ。
 痛みに耐えかねたとき、誰もがそう念じるかもしれない。だが、私にとっては違った。
 頭の奥がじんわりと熱を帯びたかと思うと、やがて燃え上がるように熱くなった。眼球から炎を噴くかのごとくだった。
 念じ続けると、先ほどまでいたあの白い空間が刹那見えた気がした。我に返った時には掌も腹の傷も消え、体が驚くほど軽く動いた。
 複雑な気分だった。自らうつつの言葉が真実であると証明してしまったことになるのだから。それゆえにこそ、私の心は鋼のように固く決まったのかもしれなかった。
 うつつは黙ってじっと私を見つめていた。
 立ち上がると、手を上げた。その手にはいつの間にかライフルが握られ、私の背後にいた亡霊たちは風に吹かれて飛ぶ砂塵のように消え去った。
 昔見た映画を思い出した。複数の人格が宿った人間の夢の中で、その人格たちが殺し合い、最後に生き残った一人が体の主導権を得る話だ。現実世界では人格同士は干渉できない。だから夢の中で殺し合った。
 ならば、夢の世界であるここならば。本来手出しが出来ない相手にも、己の刃が届くのではないか。私はそう思った。
「うつつは夢が生んだ実を食らい、新たな夢を生む。ならば、夢がうつつを食らえばどうなる?」
 私は銃を構え、うつつの眉間に照準を合わせた。いつでも撃てる。うつつがどれだけ速くその牙と爪で向かってこようと撃ち抜いてみせる。不思議と私にはそれが確信をもって出来ることのように思えていた。
 うつつは笑った。ひどく人間くさい笑い方だった。
「お前のその選択は半分正解で、半分間違いだ。お前が何をしようと在るのはうつつのみ。それ以外は消え去る夢に過ぎぬ」
「そうだな。だがそれはお前のいたさっきの白い『現実の』世界とやらで、だろう? おれたち人間も夢を見るんだよ、うつつ。だから知っている。夢は現実に目覚めた者には手出しができないが、夢の中にいる間は違う。生かすも殺すも自由自在だ」
 悪夢が己を殺す。そんな悪夢もあるのかもしれない。この夢の世界では。自嘲気味に私は笑んだ。
 うつつは気だるそうに首を振って前足を揃えて伸ばし、尻をもたげて伸びをすると、ぶるぶると体を振るった。来るか、と私は固唾を飲んだが、うつつはまた同じように寝そべった。
「お前はまだ理解していない。お前がうつつ――」
 獣が言い終えるより速く、引き金を引いた。ライフルは火を噴き、銃弾は過たず青い獣の眉間を撃ち抜いた。青い血が飛び散って、獣はあっけなく倒れて息絶えた。
「おれを侮って夢の中に再び来た。その傲慢さがお前を殺したんだよ、うつつ」
 うつつという支配者を失ったとき、夢は瓦解するのかそれとも独立して唯一の現実となるのか、そのどちらかは分からなかったが、私にはどちらでもよかった。彼女を失い、皇子を殺したこの世界に未練はなかったし、何よりあの悟ったような獣には我慢がならなかった。
 どれだけ経っても、世界が崩壊する気配は見えなかった。私は雪原の中で笑った。あの獣が無価値と断じた歴史や文化や物語、それらを紡ぐ言葉は今、不変の現実として君臨したのだ。
 夢が現実になる。そんな夢物語じみたことが、実現したのだ。
 空に向かって高笑いを上げ、顔を下ろすと目の前に消えたはずの彼女、王太子妃が立っていた。
 彼女は相変わらず虚無の宿った目で私を見つめると、ふっと笑みを浮かべて言った。
「あなたは分かっていないわ。わたしの笑みのわけも。うつつの言葉の意味も」
 何を、と反論しようとして、何気なく左手が気になって視線を下ろすと、掌にはナイフの刺し傷があり、そこから血が溢れるように青い毛が無数に生えていた。
「あなたは傲慢よ。その傲慢さが、すべてをこの結末に導いたんだわ」
 彼女は額から血を流しながら笑っていた。いつの間にか私が殺した者たちが彼女の後ろに並び、一斉に哄笑を上げた。
 やめてくれ。私は頭を抱えて、幼子が拒絶するように首を振った。
「すべては夢よ。分かっているのでしょう?」
 眩暈を感じて膝を突き、四つん這いになった。頬や顎の辺りがざわざわとしてむずがゆい。両手はすっかり青い毛に覆われてしまっていた。
「そうか。在るのはうつつ。そういうことか」
 顔を上げると彼女たちの姿はもうなかった。すべては夢。夢とはうつつの後にあるもの。消え去る幻に過ぎぬもの。
 世界は白に覆われていた。方角も高さもない、すべてが白に包まれたうつつの世界。唯一にして絶対の世。
 その中で我は顔を上げて咆哮した。夢であった頃の残滓をすべて吐き出すかのような長い咆哮であった。
 すべてが白に塗り潰された世界。我だけが認識できるその地平の果てに、群青に輝く光を見た気がした。

〈了〉

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