見出し画像

眠る街と羊と牧羊犬

 治癒者(ヒーラー)なんて必要ないから!
 茜は上等なカシミアのスーツを着た、一見セールスマンにしか見えない若い男と、その隣で不安そうに唇を指で撫でる母親を見比べながら叫んだ。
 学生鞄を手に取ると、「あっ、茜ちゃん」というマスターの制止も無視して、喫茶店を駆け出た。
 白く燃えるような太陽が、地面にすべてを影として縫い付け、焼け頃をはかっている、茜にはそう思えた。自身の日焼け止めの匂いがうっすらと鼻をつき、首筋に纏わりつくような熱気をハンカチで仰いで散らした。
 行く当てなんかなかった。母はヒーラーに騙されて、また巨額の金を貢がせられるに違いない。この前はホストだった。心理学のプロ、と名乗るホストに騙されていた。治療と称して茜にもその魔手を伸ばしてくる下種な男だった。セーラー服のボタンに手をかけた瞬間、股間を蹴り上げてやったから、少しは懲りたのだろうと思いたい。それ以降そのホストは姿を見せていなかったが、今度はヒーラーときたか、と茜は呆れ果てた。
 あの母親はどこまで人がよく、どこまで騙され続ければ現実というものが見えるようになるのか。しかも自分の幸福のためではなく、茜の、我が子の幸福のためという大義名分があるのだから、なおのこと質が悪い。
 ヒーラーでは狼藉に及ぼうとした瞬間急所を蹴り上げるというわけにもいかない。奴らは人の心の中に踏み入る。こちらは抵抗なんてできない。最低最悪の人種だ。
 茜は陽炎のように揺らぐ、朧げな街の中へと走り出していく。認める。ヒーラーが怖いんだ、私は。ならどうすればいい。一生逃げ続けるのか。奴らは、母親はきっと諦めない。治療と称して私の心の中に土足で踏み込んで、踏み荒らすに違いないんだ。走りながらそう結論付けた。
 だったら、とるべき道は一つじゃないか。
 茜は赤信号に気づかず、車道に飛び出した。クラクションが鳴り、音の方へ体を向けた。最初は大きな白い鯨が向かってきている、と思った。次の瞬間にそのぼんやりとした鯨という像が車という実体を得て、胃液が逆流するように恐怖が彼女の胃の縁から胸を焦がし、喉を焼きながら上がってきて、悲鳴という声を得た。
 学生鞄が舞った。太陽の下で影になったそれを、茜は蝶のよう、と思った。

 春の陽気にうとうとと微睡んでいると、電車のアナウンスが彼女の下車駅を知らせた。
 彼女、白崎はおもむろに立ち上がると、網棚の上からアタッシュケースを下ろし、大きく一つ欠伸をする。桜も映える花の盛りだというのに、女盛りの二十二の白崎は、重苦しそうな黒いコートに身を包んで、黒革のロングブーツを履いている。胸には大ぶりなティアドロップ型のアメジストのネックレスが煌めいている。
 停車して電車を降りると、白崎は初めて降り立つ駅にも関わらず、迷いのない足取りで歩いて行く。その駅が高級住宅地の最寄り駅であり、乗降者の規模の割にはこじんまりとした駅であるから、迷う必要もないということもあろうが。白崎には臆するという感情が存在しないかのように、彼女は大股で闊歩し、人々を次々と追い抜いていく。
 人々はのんびりとしていた。あくせくと働くサラリーマンが降りてくるにはまだ早い気だるい午後で、高齢者や子どもを連れた母親や父親ばかりということもあるかもしれない。
 歩いたまま棒つきキャンディーを舐めた、五歳ぐらいの女の子がいて、危ないな、と白崎が危ぶんで見ていると、その視線に気づいた女の子が白崎に向かってにぱっと向日葵のような笑みを向け、手を振ったかと思うと段差に足をとられ、前のめりになる。
 白崎は親がそれに気づくより早く駆け出していた。陸上部でもないのに関わらず、高校時代、短距離で県大会上位の成績を収めた俊足は伊達ではなく、少女が地面に倒れるすんでのところで滑り込み、抱きとめることができた。
「大丈夫か。怪我はない?」
 少女は眉を八の字にして表情を曇らせながらも、黙って頷いた。
 白崎は少女を立たせてやると、頭をゆっくりと撫でてやり、「泣かない。強いな」と笑いかけると立ち上がって、繰り返し頭を下げて謝意を述べる父親に「わたしが気を引いたせいでもありますから。お気になさらず」とだけ告げて、足早にその場を後にする。
「ねえ、あの人治癒者(ヒーラー)じゃない?」
 すれ違った女子高生の会話が耳に入る。その声の響きには好奇と、畏怖とが混在していた。誰しもがそうだった。ヒーラーを見た人間の発する声の音色は、それが年齢や性別に関わらず、同じ音を奏でる。未知なるものへの恐怖。
 白崎はもう慣れていた。ヒーラーとして働くのは、大学在籍中からだから、もう四年近くになる。他のヒーラーから見ればまだまだひよっこには相違ないだろうが、一人前として認められてはいる。だからこそ、今回の仕事も単独で受けさせてもらっている。
 駅から南下するように緩やかな坂道を下る。法面のある崖が東側にしかないせいで、陽がよく当たる坂道だった。逃げ水が道の先に見える。春とはいえ、コートを着て歩くにはいささか暑すぎる陽気ではあるが、白崎は汗ひとつかかない。彼女は首筋に少量塗っている練香水のベルガモットの香りに包まれ、ロングブーツの踵をコツコツと鳴らしながら坂道を下っていく。
 坂を下りきるとさらに南下する道と東進する道に分かれる。南下すれば幹線道路に出、東進すれば住宅地に入る。白崎はポケットから簡易に書かれた地図を確認すると、東へと向かう。
 住宅地の中は深閑としていた。人の話し声やテレビの音、掃除機や洗濯機の音、そうした生活音が聴こえてこない。番犬なのだろうが、入り口の柵のそばにいたレトリーバーも、深い眠りに落ちている。
(これはまずいかもしれない)
 白崎が駆け出すと、やがて道に倒れた買い物に向かう途中らしい主婦や、犬と散歩していた老人、そしてその犬、など皆が一様に倒れ眠り込んでいた。白崎が助け起こし、何度呼びかけても目を覚ます気配はない。この周囲一帯が、微睡みの渦になってしまったかのように、生物が眠りに誘われている。
 主婦の脈をとり、眠っているだけだと判断した白崎が立ち上がると、彼女は一瞬意識が遠のくような立ち眩み、眩暈を覚えた。
(早く解決しなければ、わたしも飲み込まれる)
 白崎は頭を振って意識を奮い立たせ、走り出す。そして地図にバツ印のある目的の家に辿り着くと、玄関の錠が施錠されているため、縁側に回り、そこの掃き出し窓をガーデニング用に敷き詰めてあったレンガで叩き割って中に入る。
(波動が強くなった。……二階か)
 住人が床に倒れている。睡眠の深度が外で倒れていた者たちより進んでいる。ほとんど昏睡状態だ。このまま放っておけば命に関わるな、と白崎は意を決して二階へと駆け上がり、突き当りの部屋を蹴り破る。
 そこには一頭の羊がいた。羊以外何もないがらんとした部屋で、餌の箱や水の桶すらない。羊はその部屋の最奥に立って、その丸く何を考えているか分からない目で白崎のことをじっと見つめていた。
「……ヒトリカ」、羊は震える声で嘆息するように言った。
「ああ。わたし一人だ。だが、わたしだけで十分だと協会は判断した」
 白崎はアタッシュケースを置き、中から銀の砂時計と銀の短剣を取り出し、砂時計を逆さにして時間を計り始め、短剣は胸に忍ばせる。八角柱の小瓶を取り出し、蓋を開けるとその中身を口に含み、残りを羊に飲ませる。羊は嫌がることもなく、唯々諾々と従って飲んだ。
「アマクミラレタモノダナ」
「そうでもないさ」と白崎は不敵に笑う。
 羊は治癒者協会で正とも邪ともとられる動物だった。それゆえに扱いには慎重になるべきで、その慎重の姿勢が歴史を経て敬遠となり、羊が絡んだ仕事は受け手がいないとも言われる。だが、そもそも羊が絡む仕事など、そう滅多にありはしないのだが。
 白崎はケースから白いチョークを取り出すと、床に様々な紋様を描き、それを方陣で閉じる。チョークを指先で弾くと、「お前の心の中、見せてもらうぞ」と目を閉じる。
 治癒者(ヒーラー)は対象者の心の中に入り込むことで、その人物が抱えている問題やトラウマを発見して根絶したり、心の傷を見つけて癒すことができる能力をもった存在だった。だが、正規のヒーラーではない、いわゆるモグリの中には対象者の心の中に入り込んで、更なる傷を与えたりする悪意のある者が絶えなかったことから、ヒーラーという存在が世間的にはどこか忌避されるものになってしまっていた。
 そして白崎は正規の協会から一人前と認められたヒーラーでもある。
 次に目を開けると、そこは白い霧で包まれた空間だった。霧は足元も覆い隠し、自分の体をはっきりと見ることも困難だった。
「羊だけに真っ白ときたか」、そう言って白崎は音の響き具合を確かめようとしたが、防音室の中にいるように音が霧に吸収されていく。耳が詰まったような嫌な感覚に、思わず顔を顰める。
 一歩一歩慎重になりながら歩を進める。考えなしに踏み込んで、どことも知れぬ意識の奈落へ真っ逆さまというのはさけたい。
「君に僕が狩れるかい? 新米のヒーラーさん」
 白崎は声が飛んできた方角を見極め、そちらに向かって足を踏み出す。
「狩れねば、わたしが死ぬだけだ」、そういってふっと笑みをこぼす。「強がるね」と男の声が再び響く。声の方向が右に十度ほどずれた。右方向に移動しながらしゃべっている。
「お前の声、聞き覚えがある」
「そうかい? 僕には君に覚えがないなあ」
 白崎は懐に手を入れ、銀の短剣を抜く。「子どもの頃の話だ」
「へえ、それじゃあまだ僕がモグリのヒーラーで荒稼ぎしてた頃かな」
 白崎はじりじりと距離を詰めていたが、男の言葉に立ち止まって目を瞑る。その表情は無表情に見えながら、だが静かな怒りを覆い隠しているような顔に見えた。
「そのお前が、なぜこんなことになっている」
 ふふふ、と男は可笑しそうに笑った。
「ヒーラーにとって、羊は禁忌。そう言われれば言われるほど、気になっちゃうのが人間の性だよね。うっかり羊の心の中に入り込んだら、これが心地よくてねえ。現世の嫌なこと面倒なこと、すべてが忘却の淵に沈んでいくんだ。僕は僕という単純な個になる。その感覚を味わってしまうと、やめられなくなったんだ。治癒の後、必ず羊の中に入らなければ頭がおかしくなりそうだった。常に羊を連れて歩いて、治癒をして羊の中に入って、そうして繰り返していたら、僕の心と羊の心が同化してしまった。端的に言えば、出られなくなったのさ」
 白崎は霧の中で男を見つけた。男は体の上半分が人間で、残りが羊だった。怯えるように体を抱いてうずくまっている。
「残念だが、ここまでだ。協会からの指令は抹殺なんでな。悪いが処理させてもらうぞ」
 白崎は銀の短剣を構える。「協会に助けを求めればこうなるのは自明だったろうに」
 突然男が顔を上げる。その目は羊のものになっていた。無機質さを感じさせる黒目が妖しく光る。白崎は咄嗟に顔を背けたが、目を一瞬見てしまった。残像のようにあの不気味な目が脳裏に焼き付いている。
「助けを求める? ふふふ、君は何か勘違いをしているようだね。僕が求めたのは、協会を超える力の実験だよ」
 ふと気づくと白崎は霧に包まれた空間から、夕暮れの学校へと移動していた。いや、白崎が移動したというよりは、夢のように舞台が揺らめいて切り替わったという方がしっくりくるだろう。彼女は敵の術中にはまってしまったことを悟り、唇を噛んだ。
「わたしの記憶の中に入り込んだか……!」
 だとするとまずい、と周囲を見回す。治療は心の深度が上がれば上がるほど困難になる。心に入り込んだ自分の心に入り込まれた、という螺旋構造は、飛躍的に深度を上げる。ヒーラー同士の治療が危険なのは、この現象のためだ。片方が悪意をもっていた場合、危険な深度で相対しなければならないからだ。深度が増せば、敵だけではなく、自分の心も自分を縛る茨の蔓となる。
「化け物!」
 懐かしい声にはっとして振り返り、そこにいた女子高生の姿を認めて、白崎はきりりと胃が痛んだ。「詩織」と喘ぐようにその名が口からこぼれる。
「あんたが、あたしの父さんと母さんと廻を、弟を殺したのよ」
 詩織は涙で腫れ上がった目で敵意に満ちた視線を向けながら、呪詛するような低い声で叫んだ。
 詩織の父と母と弟は、一週間前に亡くなっていた。父親の無理心中という形で、詩織だけが免れたのは、彼女が学習塾に通っている時間帯に犯行が行われたためだ。なぜ彼女が不在の時間帯を狙ったのかは捜査でも諸説分かれたが、死亡推定時刻の前に、夫婦が怒鳴り合う声が聞かれていたことから、衝動的な犯行だったのではないか、という説に落ち着いた。
 だが、詩織はその喧嘩が原因ではないと知っていた。唯一人。そして白崎を唯一告発できる人物だったにも関わらず、そうしなかった。それが、今もってなお、白崎の胸に疑念として残っている。
 白崎は先天的な治癒者(ヒーラー)だった。協会の存在は知っていたものの、協会自体を胡散臭いと思っていたので、自分の能力については基本的に隠していた。だが、親友の詩織がある日父親から虐待を受けていると告白したため、自分の力で父親の心を正常な形に治してやろうと、家族が留守で父親が眠りこけているときを見計らって、ヒーラーの力を行使した。
 本来なら、それで家族関係が円満になり、詩織の悩みも解決するはずだった。
 だが、白崎の治療は逆の効果を生んでしまった。父親の攻撃性を増幅し、家族へ殺意を抱くと同時にそんな自分に絶望するという形での善良さを引き出してしまったがために、家族を巻き込んでの一家心中という事態に発展してしまった。詩織が巻き込まれなかったのは単なる偶然だった。
「返してよ、あたしの家族を。人生を」
「あんたなんかに、あたしの人生を滅茶苦茶にする権利は……」
 白崎は詩織に向かってはっきりと「ないな」と言い放った。
「じゃあ、あたしの家族を返してよ!」
 白崎は目を瞑って、唇を噛み締め、ゆっくりと首を横に振った。長い黒髪が冷たく揺れた。
「わたしの過信が、あなたから家族を奪ったのは事実。だから贖罪を求められるのは当然。でも、死者を蘇らせることはできない」
 そんなんで、納得できるわけがないでしょう、と叫ぶと詩織の姿は黒い影となって時計塔の影の中に溶けていき、消え去った。
「君、僕なんかよりよっぽどひどいヒーラーだなあ」
 男が時計塔の影の中から、詩織と入れ替わるように現れる。暗紫色のカシミアのスーツを着た男は、先ほどまでと違って人間の姿をしていた。ただし、その眼球を除いて、だが。
「そうだな」と自嘲気味に笑んで頷く。
「だが、お前ほど間抜けでもない。自らわたしの前に出てくるなど」
 白崎は銀の短剣を振りかぶって一足、二足で男の前に辿り着くと、逆手に持った短剣を男の心臓目掛けて振り下ろそうとした。
 ヒーラーの持つ銀の短剣の用途は幅広い。対象者の心の中で、その心に飲まれないよう魔除けとして効力を発揮することもあれば、悪い記憶や心の残留物を切り取る役割を果たすこともある。そして一般的には公にされていないが、対象者の心を破壊して『処理する』役割を果たすこともあり、今回の用途は最後のものだった。
 だが、振り下ろした短剣は空中で止まった。影の中から伸びた茨の蔓が白崎の四肢の自由を奪っていた。食い込む茨の痛みに耐えかねて銀の短剣を取り落としてしまうと、短剣は地面の中に飲まれるようにずぶずぶと沈んで消えていく。
「ふふっ。僕は元ヒーラーだよ。何の策も講じてないと思う? それに力が溢れてくるみたいなんだ。これが羊と同化したヒーラーの力だよ。もっと、もっと試したい。だから一人ぱっかし送り込んでも駄目だって、協会に分からせてやらないとね」
 男は笑い声を上げる。だが、その声は羊の声になっていた。
「どうだい、羊の力を得た僕は。並みのヒーラーなんぞ相手にならない。協会め、僕を正規のヒーラーとして資格を与えなかったことを後悔するだろうよ」
 男の愉悦に歪んだ醜い顔は、年を経てもなお変わらないどころか醜悪さを増していた。元の顔立ちが整っているだけに、殊更。
――治療だよ。お母さんも受けたことがある。その上で君にも勧めているんだ。
 まだ二十代だった男。母の心の中に土足で踏み入り、その在り方を歪め、自らの操り人形に変えてしまった男。搾り取れるだけ搾り取って母を捨てた男。母も愚かだったが、かといって白崎はこの男が母に治療と称してしたことは到底許せなかった。
――君は、先天的な治癒者(ヒーラー)なんだってね。お母さんから聞いたよ。
 もし男が、母にしたことを悔いて、わたしのことを覚えていたら、と白崎は思う。この闘争の行方はまた違ったものになっただろう、と唇を震わせながら、微笑を浮かべる。
「もう勝ったつもりなのか」
 首にも茨が食い込んでいる。痛みと苦しさで息をするのも苦痛だったが、白崎は何とかそう吐き出した。
「君にはもう銀の短剣がない。ヒーラーはあれを媒介にしないと治療はできない。つまり君には打つ手なしだってことだ」
 男は勝ち誇ってぐにゃりと歪んだ笑みを浮かべる。羊の黄色の目だけが笑っているように見えなかった。
「甘く見たのは、お前の方だったな」
 そう言うと、白崎の両手の茨が弾け飛び、自由になった両手で足、首、と順に茨を消し飛ばしていく。
「え?」
 男の顔が驚愕のあまり空白になり、次いで恐怖の色がありありと浮かんで顔が青ざめる。
「馬鹿な。銀の短剣がなくて、どうやって……」
 白崎は男の胸に右手をかざす。「お前の敗因は、わたしを忘れたことだ」
 治癒者(ヒーラー)は通常対象者の心にダイブし、その中にある、対象者を苛むものを銀の短剣で切除することによって行う。だが、白崎が先天的にもっていた力はそうではなかった。
「わたしは先天的な治癒者(ヒーラー)だ。それも、心にダイブすることなく、治療が行える。つまり、短剣は囮ってところだ」
 手をかざすだけで、対象者の心が読め、悪しき部分を消し飛ばすことができる。だが、その能力も完全なものではなく、意図せざる効果を発揮することがある。詩織の父のときのように。だから白崎は基本的に協会のやり方に則り、治療を行う。手の力を使うのは、それで対処しきれなくなったときだけだ。
 男はくぐもった、憤怒の叫び声を上げるが、白崎は意に介することなく、冷静沈着な表情で、「恨みたくば恨め」と呟いて男の胸を消し飛ばした。
「い、いやだ。消えたくない。僕はもっと」
 白崎が両手で引き裂くように空間を払うと、男の体は霧散し、後には何も残らなかった。空間が歪み始めて、白崎は自分が覚醒に向かいつつあることを悟った。崩れゆく景色の中で、詩織の姿だけがいつまでもそこに残っていた。白崎は苦笑し、「わたしの弱さ、だな」と自嘲気味に呟いた。

 協会に人員の手配を頼み、街の住人を協会の息のかかった病院に収容し終えるのを見届けた白崎は、病室の中で目を開いたまま横たわる男を哀れっぽく一瞥し、踵を返した。
 男とリンクさせられた羊は死んでいた。白崎が男の心を消し飛ばしたことで、それと融合していた羊の心もまた消滅したようだ。心を失った羊の肉体は緩やかに死に至り、後には僅かに心の欠片が残って生き延びた男の物言わぬ体が残った。いっそ消え去ってくれていればせいせいしただろうに、と白崎は思わないではいられないが、協会にとっては貴重な被検体のため、様々な臨床実験に回されることが既に決まっていた。意識などないのが男にとっては幸いか、とふっと笑みをもらす。
 ナースステーションの横を通り過ぎるとき、一人の看護師と目が合った。同じくらいの年の頃で、明るい茶色の髪が印象的だった。だが、白崎は気にも留めずに行き過ぎようとしたところで、突然後ろから「茜ちゃん!」と名前を呼ばれてぎょっとして振り返る。
 看護師は頬を上気させながら、走って追いかけてくる。その姿が迫ってくるにつれて、白崎の記憶が刺激され、声が、顔が蘇ってくる。自分は振り返ってしまっている。逃げられない。いや、そもそも逃げることが許されない。「詩織」と白崎は舌先に丁寧に言葉を載せるように呟いた。
 あれからまだ五、六年しか経っていない。憎悪の暗い炎が燻っていてもおかしくはない。だが、どんな言葉であろうと正面から受け止めなければならないと、白崎は詩織が言葉を口にするのを待った。
 詩織は白崎に追いつくと、息を整えて、そして勢いよく頭を下げて、「ごめんなさい」と白崎が思ってもいなかった言葉を口にした。
「どう、して、詩織が謝る。悪いのはわたしだ」
 詩織はいやいやをするように激しくかぶりを振って、「それは違うよ」とはっきりと言った。
「あたし、昔は動転してて茜ちゃんのせいにして、逃げてたの」
「逃げてたって、何から」
 詩織はちょっと躊躇った後で、真っ直ぐな眼差しを向ける。
「茜ちゃんはあたしを助けようとしてくれただけ。決めたのはあたしだってこと。あたしに責任があるんだってことを認めたくなくて、茜ちゃんに全部押し付けたんだよ。本当にひどいことをしたと思ってる。茜ちゃんからすれば、あたしのことなんて許せないと……」
 白崎はおもむろに詩織に歩み寄ると、その体を抱き締める。詩織はきょとんとした顔をして、やがて顔を歪めてぽろぽろと涙を流し、白崎の肩に顔を押し付けて嗚咽する。
「詩織が半分罪を背負ってくれるなら、わたしにとってこれ以上心強いことはないよ」
 うん、うん、と詩織は泣きじゃくりながら頷いていた。
「わたしも罪は忘れない。過ちであったとしても、罪は罪だから。詩織はそんなわたしがいたことを覚えておいてほしい」
「そんな、まるで遠くに行っちゃうみたいな……」
 手の届かない、遠くへ行ってしまうこともあるんだ、と口にしかけて言葉を飲み込んだ。詩織には、そんな重荷を負わせなくていい。ただ自分のことを思い出してくれれば。
「もう、行くの?」
 白崎は離れて、詩織にハンカチを差し出す。詩織はそれで目元を拭いながら、「あちゃあ、メイクのし直しだ」と健気に笑って見せた。
「ああ。会えてよかった。元気で、詩織」
 詩織は大きく頷いて、「ハンカチ返さないからね。次会う時まで」と胸元で大事そうにハンカチを握りしめていた。
 白崎はふっと口元を緩ませて頷き、「分かった」と答えると踵を返した。
 病院を出た白崎はあまりの眩しさに手で庇を作って白く燃える太陽を見上げる。太陽はすべてを影にして地面に縫い付けてしまう。どういうわけか太陽にあの羊の目を見た気がして、背筋がすっと寒くなった。あの羊の目が、どこへ行こうともついてくる。そう考えるだけで気分が悪くなりそうだった。
 スマホに着信がある。次の治療の依頼の通知だ。文面を読んで、ポケットにスマホをしまうと、白崎は歩き出す。次なる、治癒者(ヒーラー)の力を求める相手の元へと。

〈了〉

■サイトマップは下リンクより

■マガジンは下リンクより


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?