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写真小説家~歌姫の断片~

 聴衆は各々座を占め、思い思いに談笑していた。
 ホールは劇場型の円形ではなく、長方形だった。事前に航空写真で会場の場所を確認したとき、屋根の形状も相まって、食パンのようだな、と思った。その食パンの東側から入り口を入って受付をする。西側の端に楽器が置かれていて、それを取り囲むように聴衆の席は設えられており、私は向かって左端中ほどの席に座った。
 手提げのバッグからA5のノートと愛用のパーカーのボールペンを取り出すと、白紙のページを開き、そこに「ある肖像~歌姫の断片~」とここに来るまでの電車の中で考えていたタイトルを余白の部分に書き記すと、それを膝の上に置き、時を待った。
 私は「写真小説家」だ。と言っても、師から仕事を任されたのはこれが初めてだから、この仕事を終えて初めて「写真小説家」になるのかもしれないが。
 「写真小説家」とは、カメラで一瞬の時を切り取るように、小説で、ある限定的な瞬間を切り取ることを生業とした小説家のことを言う。小説は時間芸術であるため、刹那を切り取り、紙の上に焼き付けることはできない。文章の上には常に時間が流れている以上、時間的な幅をとってしまうことはやむを得ない。そして、文壇の連中が私たちを殊更に否定するのは、写真はありのままを映し出すのに対して、小説は書き手の主観が必ず入り込む、という主張があるからだ。例えば海の風景を描こうとしても、波の形はどうであるとか、ウミネコが飛んでいるのを書くかどうか、海水浴客の水着の特徴はどうだとか、書くことの取捨選択と書き方が書き手に委ねられている時点で、写真ではないと。
 それには私も同意しよう。だが、写真にはできないことがまさにそれ、「主観」なのだ。写真では、被写体の女性が微笑んでいることは分かっても、それだけではなぜ微笑んでいるのかまでは分からない。だが、小説にはそこを突き詰めることができる。女性が微笑んでいることの背景を炙り出し、紙の上に乗せて留めることができるのだ。
 私たち「写真小説家」は依頼を受けて、特定の場面を小説にしたり、写真や思い出話から一つの小説を書き上げる。主な依頼者は傷ついた人たちだ。愛する者を失ったり、現在の自分に絶望し、過去を羨む人であったり、理由は様々だが、喪失感を抱えて、それを埋めるために人々は「写真小説家」を呼ぶ。
 今日の私のこの仕事も、そうした類のものだ。
 難病に罹ってしまったがために、長年追いかけていた歌手のライブに行けなくなってしまった中年の女性からの依頼だった。ライブの様子を書き残してほしいと。
 私はペンを白く滑らかな紙の上に走らせ、出だしにまずざっと会場の様子を記した。
『会場は石造りの蔵を改装して作られたものだということで、どこかひんやりとした空気が漂っているように思えるが、炎のような暖色のライトがあちこちに置かれているため、暖炉を思わせるほのかな暖かさを感じる。設えられた舞台には、アコースティックギターが四本並び、ノートパソコンで再生している緩やかな音楽がスピーカーから流れている。別の歌手の曲だ。どこか懐かしい……。』
 私はそこまで書いて、ふと手を止めた。ざわざわとしたまとまりのない音の塊が漂っているような雰囲気が、突然研ぎ澄まされたような、ぴりっとした空気に変わったからだ。そう思っていると、後方の扉が開いて、一組の男女が入って来る。
『女性はボブカットで、緊張しているのか笑顔にやや力が入っている。ライブはコロナ禍以来久しぶりらしいから、そのせいもあるのかもしれない。オレンジの大柄な花の刺繍をあしらったワンピースを着ている。対する男性の方の髪は無造作で、全体的にカジュアルな出で立ちだった。表情は特にない。冷静で落ち着いた様子が見える。』
 二人は舞台に用意された椅子に座ると、男性の方、確かアイチと呼ばれていた。アイチがノートパソコンを操作したり、ギターを鳴らしたりしてチューニングしていた。女性の方、ウタテはマイクを自分の方に引き寄せると、アイチの様子を見て、アイチも頷く。二人は顔を上げて聴衆の方に向き直って、自分たちのグループ名を告げ、来場の感謝を述べた。するとアイチのギターリフがするりと入り込んで、聴衆の頭に曲名が浮かぶ。そしてウタテの透明感のある声がホールに響き渡る。
『ウタテの声は、透明でありながら無色ではなく、歌う歌によってその色を変えるように思えた。抜けるような青空の色を孕むこともあれば、夜の繁華街のような、華やかなれど孤独な散りばめられた光と闇が透けているようだった。
 ウタテは一人一人の聴衆の心に声を染み入らせるように、眼差しを向け、聴衆、ではなく「あなた」に声を届けているようだった。高音のパートになると目を瞑り、声を張り上げながら夢見るように歌う。
 円形ではないホールは音の反射や共鳴が一定ではなく、円形のホールでは音に包まれているように感じるのに対し、このホールは悪戯な幼子が周囲を笑いながら走り回っている、そんな風に感じた。』
 私は無心でペンを走らせた。音が私の手を掴んで書かせているようだった。
『ウタテは二曲歌い終えると、改めて挨拶をした。歌声からするとやや低い声に感じた。「みんなでいるのに一人で聴いているように曲に浸って、それをみんなで共有してもらいたい。それが私たちのライブのコンセプトです」。そう語ってウタテはアイチに目配せして、次の曲に向けて息を吸う。』
 アイチの奏でるリズム、ウタテの歌う声、それらは心地よく、穏やかな波の上に浮かんで揺蕩っているような感覚を与えた。幼少期から青春の時代、そして大人になってからの甘くも苦い思い出が波に乗って次々と立ち現れては流されて消え、流されて消えるということを繰り返した。私は気が付くとペンを握ったまま目を瞑り、音楽の中に没入していこうとしていた。
 一つの思い出が私の前で立ち止まった。苦しかったある恋の思い出だった。
 彼女は別れ際に言った。「最初から好きではなかった。辛いときに手を差し伸べてくれたからその手を思わず取ってしまっただけ」と。
 私は彼女にそう言わせた自分自身が情けなくて仕方なかった。彼女の穏やかで優しい性格を考えれば、私を突き放すためとはいえ、そんな言葉言いたくもなかっただろう。でも、そう言われなければきっと私は引き下がらなかった。
 高校生の頃の恋だ。今となれば、いいものだったと振り返ることができるが、その当時は自分を八つ裂きにされたような苦しみを味わったものだ。それは自己のアイデンティティの確立を彼女に依拠していた私が悪いのだ。高校生ならば、勉強かスポーツ、どちらかに打ち込めばよかったものの、それができなかった私は彼女という存在に自分を預けてしまった。
 自分の足で立っていない男など、どれほどの価値があろうか、と過去に戻れるなら戻って殴り飛ばしてやりたい。紋切型の言い回しだが。
 思い出はかつて恋した人の残り香だけをふわりとたなびかせ、波間に消えていく。
 遠くで曲が奏でられている気配がある。だが音はアパートの隣の部屋から流れてくるテレビの音のように輪郭が朧気で捉えどころがない。そうであっても、心地よい。
 すると、ゆっくりと漂う船のような思い出をかき分け、巨大な鯨のような黒い塊がこちらに向かってくる。ぶつかる、と思ったがこちらには避ける手段がない。浮き輪の上で波に揺られているような状態なのだ。黒い鯨はみるみる迫ってきて、思い出を圧し潰していく。そして眼前に迫ると、私を弾き飛ばす。
 記憶の海の中に落ちた私は、その中が光の届かない真の闇だと知った。手や足を動かせば何かには触れる。でもそれが何かは分からない。浮かび上がろうともがいても、暗闇に包まれていると上下左右が咄嗟に分からなくなり、思考は混乱をきたす。
 その私の前に、闇よりも黒い巨大な質量をもったものが迫る。鯨だ、と瞬時に思った。
 鯨は大きな口を開けると、私を丸のみにした。生温かく、ぬるぬるとした舌の上を転がり、私は鯨の胃の中へと転がり落ちていく。
 胃の中に落ちると、そこはぶよぶよとした気色悪い感触の部屋で、鯨の動きに合わせて伸縮したり、蠢いたりするので、なおのこと不気味だった。だが不思議なことに胃の中はほのかに明るかった。青白い光がどこかから発して、うっすらと照らしている、そんな感じだった。
 胃の粘膜に足をとられながらも奥の方へ進んでいくと、青く光る人の頭ほどの球形の石を前にして、少年が一人座っていた。
 近づいて行くと、私はそれが息子の春斗だと気づいて、冷や汗が出た。よく見ると、青白く光っているのはサッカーボールだった。
 春斗は顔も上げずに、呟くように「なんで約束破ったの」と恨みがましく言った。
「し、仕方ないんだ。パパ、仕事だから」
 嘘だ。そう思いながら、あのときと同じ言葉を繰り返した。現実の春斗は、この後私の職場に爆破予告の電話をして大騒ぎになり、責任を問われた私は左遷されることになった。
 でも、それも仕方のないことだったのだ。私が春斗と向き合う勇気をもてていたのなら、春斗をあそこまで追い込むことはなかった。
 私には分からなかったのだ。父親として振舞うこと、父親であることがどういうことか、分からなかったし、それを分かろうとする努力も怠った。私にとって父親は家にいないもので、時々あいさつをかわす存在でしかなかった。
 だから春斗に対しても、子どもじみた高圧的な態度や冷淡さで応えるしかなく、春斗の求める父親の愛情というものを満たしてやることはできなかった。
「いいや、それは言い訳だよな」と首を振りながら、私は春斗の隣に同じように膝を抱えて座った。
「まだ、間に合うと思うか。パパはパパになれるか」
 春斗は顔を向けて、どこを見ているか分からない虚ろな目をして言う。
「知らない。そうやって答えを他人に求めているうちは、パパにはなれないと思う」
 そうだよなあ、と深く嘆息して、膝の間に顔を埋める。小学生にだって分かることが、いい大人に分からないのだ。それほど恥ずかしいことはない。
「春斗、まずはお前と話すところから始めてみるよ。最初は聞いてもくれないだろうけど」
 でも、春斗の父親は私で、私しかいないのだ。春斗には父親を選ぶ余地なんてなかった。ならば、私が父親らしくしてやらなければ。
 よし、と決意して立ち上がると、青白い光がすうっと消えて辺りが暗くなり、それに伴って音楽が徐々に戻ってくる。耳にはっきりと届く。我に返ると、私はちゃんと椅子に座っていて、聴衆もみな同じように海の底から帰ってきたような、不思議な顔をしている。ウタテは夢見るように歌っている。
 あれは何だったのだろうか。「写真」として記録すべきかどうかと迷ったが、あの光景は私の心象風景であり、依頼者には関係のないものであるから、記憶の中に封じ込めることにした。
『ウタテは最後の曲を、言葉の一つ一つにまで己を込めるように歌い、アイチはそれに応え、高揚させるように激しくギターをかき鳴らした。そのギターの音色には吸引力があり、アイチを中心にホールが収斂していく錯覚を感じさせながら、ウタテの透き通った玉のような声がそれを発散し、解き放っていくカタルシスを最後の一音まで味わいながら、ステージは幕を閉じた。』
 私はホールに最後まで残っていた。余韻を味わいながら、「写真」として書き残したところがないか確かめていた。それを終えて席を立ち、ロビーに向かうと、そこにはウタテがいた。
 彼女は私の方に向き直り、にこっと笑んで「写真小説家さん?」と訊いた。
 なぜ知ってるのか、と私は驚きつつ狼狽しながらも、「ええ、まあ」と間の抜けた挨拶をして頭を下げた。
「あなたのお師匠さんとは知り合いなんです。今日行くからよろしくって連絡があって。それで、お顔を見た瞬間すぐに分かりました」
「なぜです?」
 ウタテは胸に手を当てる。オレンジの花の刺繍がリースのように弧を描いている。
「あなたはとても空白のある顔をしている。何か大きなものが欠けて、それを満たそうとするような。あなたのお師匠さんも、そんな顔をしていました」
 ウタテの言うことは私には分からなかった。空白……。師匠にもそんなものがあるというのだろうか。
「今日は来てくださってありがとう。お会いできて嬉しかった」
 ウタテは笑みを湛えて一礼すると、私の横をすり抜けてホールの方へ向かった。懐かしい、華やかではないけれど可愛らしかった、野山で見かけた名前の分からない花と似たような匂いがした。
 私は「空白」に思いを馳せつつ、待つ者のいる、自分のアパートへ帰ろうと足を踏み出した。

〈了〉

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