日本人にバベルの塔は築けるか(読書記録6)
■AIの文章の是非
是非、と書きましたけれども、是非を論ずるつもりは私にはなく。
きっと偉い文学者の方々が論じてくれるでしょうから、それをへー、とかほーんとか言いながら読みたいなとは思いますが。
参考文献みたいなものなのかな、と私は捉えましたけれども。本を読んでそれを参考にしたり、引用したりするのと同じように、AIという意思をもった本を参考・引用したものなのかなと。
なので、それをあたかも自分の考えだした文章かのように地の文などで使用するのはいかがなものか、という議論が出てくると思います。
パスティーシュの範囲なのか、剽窃なのか、元になっているのが高名な文豪などの作品ではなく、無名のAIなわけですから、見分けるのは相当難しいでしょうね。そのため、使う人間のモラルが問われることになりそうです。
私が仕事でお世話になった画家の先生は、「例えば油彩画風の絵をデジタル上に描くことは、人間とAIは遜色がなくなりつつあるけれども、現実のキャンバスに描く能力をもたない点で、絵画はまだ人間の手の中にある」というようなことをおっしゃっていました。ただし、AIの指令を受けて精密な絵を描けるロボットアームが開発されれば、どうなるか分からないとも。
小説では手書きの強みはありません。
有名な作家の直筆原稿であれば価値が出るでしょうが。
文章は必ず活字に印刷され読者の目にさらされるわけですから、絵画のような、文章で人間が勝っているところがないのが、問題なのでしょう。
小説とは不完全なものだと私は考えています。
完全なものがあれば、それ一冊がこの世に存在すればいいのですから。でも、この世に存在する物語は絶対性を帯びないゆえに新しいものが書かれ続ける。
AIは完全性に寄るもので、人間の不完全性とは相反します。人間は不完全だからこそ、不完全な人間が愛する、不完全な物語を生み出せるのだと思います。
では、AIが完全な物語を生み出してしまったら? ひょっとしたらそんな日が、いつの日にか来るのかもしれません。でもその日が来たなら、人間は物語ることをやめるでしょう。
■主な登場人物
〇牧名沙羅 サラ・マキナ・アーキテクツの建築家。シンパシータワートーキョー(東京都同情塔)のコンペに参加するか否か悩んでいる。言語感覚に対して鋭敏で、言葉に過剰とも思える反応を示すことがある。特にカタカナ語を嫌い、シンパシータワートーキョーのネーミングを受け入れられない。
〇東上拓人 美しい容姿をもった青年。裕福ではないが、高級ブランド店で勤務するため、洗練された着こなしをしている。美しいものを愛する沙羅に目を止められ、交流を重ねることになる。塔の建造後はメディアへの広告塔と塔の世話人を兼ねて塔に住むことになる。
〇マックス・クライン アメリカ人のジャーナリスト。沙羅と拓人にインタビューをする。
〇マサキ・セト シンパシータワートーキョーの根拠となった、犯罪者は不幸な境遇によって生まれる哀れな人間、という「ホモ・ミゼラビリス」という思想の提唱者。
■ストーリー
建築家の牧名沙羅は過敏な言語感覚をもち、コンペに参加予定のシンパシータワートーキョーの名称がどうしても許せなかった。だが、彼女と交流していた東上拓人との会話の中で、自身が納得できるタワーの名称、「東京都同情塔」に辿り着くことになる。
その後タワーは沙羅の設計の元建造され、マサキ・セトの提唱した「ホモ・ミゼラビリス」は塔の中で幸福な人生を過ごすようになる。拓人の案内の元、それを目の当たりにしたアメリカ人ジャーナリストのマックス・クラインは同情塔を批判し、日本人の寛容さの奥に潜んだ不気味さを否定して、塔に対して怒りを露わにする。
一方沙羅は塔の建造に携わってしまったことで、命を狙われる立場となり、塔の近くで隠れ済むような生活を送っていた。
■印象的だった文章・表現
実際に手で触れられ、出入り可能な現実の女でありたいということです。
けれど、頭に浮かんでくるのは依然言葉だけだった。仕方なく、脳内のゴミを掃き出すように文字を書き出していく。
いくら学習能力が高かろうと、AIには己の弱さに向き合う強さがない。無傷で言葉を盗むことに慣れきって、その無知を疑いもせず恥もしない。
私は陸上生物であるところのヒトを「思考する建築」、「自立走行式の塔」と認識している。
まるでひとりの女神が、もっとも美しく、もっとも新しい言語で、世界に語りかけているかのようだ。私は彼女の話す声に耳をそばだて、時には彼女に返事をした。
それがたとえ形を持たないただの言葉であれ、家の内部からすっかり締め出しておかなければ、足場が不安定で立っていることもできない。おそらく一秒も。
嘘っぽさはせっかくの本当に上質な服を安っぽくも見せる。
僕の不意の思いつき、というか口が滑って偶然転がり出た事故のような言葉に、彼女は感動さえしているみたいだった。
名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる。
彼女は「美しい」という形容詞を使い過ぎたことについて、「ボキャブラリーが貧しい。私は貧乏人」との自己批判で話を終わらせた。
だから疑問も恐れも抱かず、答え合わせをするようにヴィジョンをなぞればもう自動的に、それは現実になっている。
なぜなら君たち日本人とは、いくら言葉を尽くしても言葉の先に行くことができないからだ。言葉はいつまでもただの言葉にしかならない。
天上に近付くホモ・ミゼラビリスの皆さんが、地上の言葉を忘れないように
当該項目は「東京都同情塔」(著:九段理江)より抜粋。
■感想
建築家、というとどうしても数式とか、理系のイメージだったのですが、言語に敏感な建築家というのは面白くていいですね。作中でもバベルの塔について言及される部分がありますが、建築と言語とは、本来似ているものなのかもしれません。
カタカナ語に極度の忌避感を示す沙羅ですが、その気持ちは何となく分かります。よく概念は分からないけれど、カタカナ語にしたことでその概念を獲得して納得している……、そんなところが誰しもありませんか?
法律の本を読んでいるとき、それを強く感じました。何かの解説で、法律用語でカタカナ語が頻繁に用いられるのは、元になった欧米の法律概念を日本に持ち込もうとすると、日本語には翻訳できない、あるいは非常に冗長な表現になってしまうと。だからやむを得ずカタカナ語で表現しているものが多くあるのだと。
そうした用語って、説明を読んでも、言葉自体を繰り返しても、理解できたようで理解できないんですよね。言葉を肌で感じて受け入れることができないというか。
そうした言語への感覚の鋭さとAI、という題材が組み合わせられて、犯罪者を同情すべき新人類のように見なして隔離、上質な環境で生活するという「同情塔」の設定が嚙み合った時点で、これは強いなと思いました。芥川賞に選ばれるのも頷けるところかなと。
あなたはもし東京に巨大な塔が建造されて、その中でかつて犯罪者と呼ばれた人たちが自由に暮らし、豊かな環境を享受している――、当然、それを支えるのは国民の税金です。そうなったとき、犯罪者は不遇な環境が生み出した被害者なのだから、充実した環境を与えてあげよう。
そう思えますか?
上記を提唱したマサキ・セトが家族を犯罪者に殺された被害者だったとしたら、それでも彼は理想を唱えられたと思いますか?
東京都同情塔はそこにあり続けたでしょうか。ここで初めてタイトルに立ち返るわけです。
「日本人にバベルの塔は築けるか」
それでは、次の読書記録でお会いしましょう。空中に浮かぶ、夢幻の塔を見上げつつ。