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虚構日記~5月28日~

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■本編

 五月二十八日(火)
 今日はシャルには留守番を任せて、私一人出かけることになった。と言っても遊びに行くわけではなく、仕事で行くのだ。
 出かけることには出かけるのだが、行き先は隣の市なので、出かけた感覚はあまりない。今日は自家用車を使わず、バスと電車で移動するから、それが新鮮で懐かしいと言えば、懐かしい。
 朝九時に家を出て、家の前から続く緩やかな下り道をずうっと下がって行くと、国道に出る。国道とはいえ、田舎なので片側一車線の道路だ。私は坂を下りきったところにあるバス停に辿り着くとベンチに腰を下ろした。
 どうにも久しぶりに着たスーツが窮屈だ。普段着ないだけに、私のように体形変化がこまめにある人間だと、ろくに着ることもできずにサイズアウトすることが多い。まだ着られる分だけ、このスーツはましだということか。
 バスが壊れたラジオみたいな騒々しい音と、錆びついたブレーキ音を響かせてやってくる。
 バスに乗り込むと、車内はカーテンを閉められているのか、薄暗かった。おまけになんだかむっと圧迫するような熱気がこもっていて、息苦しささえ感じる。
 私は整理券を取りながら、顔を背けて窓の外を眺めている運転手に「このバス、暑くないですかね」と何気なく言った。
「そうですか」と言って振り向くと、運転手の顔には本来あるべき目鼻や口がなく、のっぺりとした皮膚に覆われているだけだった。
 あ、と思って私はバスの中に駆け上がり、乗客の顔を確かめると、乗客もみなのっぺらぼうであった。
 これは珍しいものに乗り合わせたぞ、と私は心がうきうきと沸き立つのを感じた。
「お客さん、驚きませんねえ」
 運転手が席から身を乗り出して振り返り嘆息すると、乗客たちも一斉に頷いた。まるで指揮者が指揮棒を掲げると奏者たちが楽器を構えるのに似た、整然とした動きだった。
「実はこれが初めてではないんですよ」
 私は申し訳ない気持ちになりながら振り向いて言った。「かれこれ三度目でしょうか」
「ほう。そいつは珍しい。毎日バスに乗る人でも、人生で一度も行き当たらない人もいるというのに、三度目とは!」
 運転手は口がないが、頬の緩み方から笑みを浮かべているのではないかな、と思った。
「毎回、のっぺらぼうのみなさんからは色々な悩みを相談されますね」
 そうでしょうとも、と運転手は大きく頷いた。
「我々のっぺらぼうには悩みが尽きないのです。驚かない人間は稀有ですから、あなたのような人が何度も乗り合わせてくれることは、我々としても嬉しいものです」
 運転手は帽子を正しつつ、「ところで、同胞からはどんな相談を」と興味を抑えきれない興奮した口調で訊ねた。
「そうですね。前回は、のっぺらぼうのお嬢さんから、のっぺらぼうじゃない彼氏がほしいがどうしたらいいかという相談だとか、のっぺらぼうにお勧めのアイライナーの相談だとか。前々回は少し堅苦しくて、のっぺらぼうの人権についてとかでしたね」
 なるほど、と運転手は深く頷くと、「なら今回は、私の相談を受けていただいてもよろしいですか」と真剣な声で言った。「いいですよ」と私が請け合うと、運転手の後ろの席に座っていた二人の男女ののっぺらぼうが席を立って譲ってくれたので、そこに腰かける。
「発車します。ご注意ください」と運転手がマイクに向かって言うと、バスはゆっくりと、乗客という甲羅を背負った亀のようにのっそりとした動きで走り出す。
「それで、相談とは」、私は運転席の方に身を乗り出しながら問う。
 運転手はハンドルを丁寧にさばきつつ、ギアを操作しながら緩やかな下りになっている国道を走る。
 運転手は言いにくそうに躊躇いつつも、その重い口を開く。
「実は、私には妻がおりまして。三十年連れ添った大事な妻です」
 素敵ですね、と私が言うと運転手は恥ずかしそうに「ありがとうございます」と答えた。
「その妻がですね、先天的な疾患により、口を持って生まれてきてしまったのっぺらぼうでして」
 ははあん、と私はのっぺらぼうの言わんとすることを先読みした。
 のっぺらぼうは食物を食べない。水分は雨上がりなどに大気中の水分を皮膚から取り入れれば事足りる。月に一度雨が降れば十分生きていけるのだ。養分は日光に当たることによって自然と生成されるため、天気が良い日に一時間も散歩をすれば、数週間は生きていける。
 だが、口を持って生まれてきてしまったのっぺらぼうは、その構造機関が存在せず、人間と同じように食物や水分を口から摂取する必要がある。そのため、のっぺらぼうにとっては口があることが生きていく上での障害と見なされる。
「子どもも、妻と同じ障害をもって生まれてきたら、ということを妻が一番懸念してまして、つくらなかったんです。私は、そんなこと気にしないのに」
「あなたが気にせずとも、あなたの身内に気にする人がいたんじゃありませんか」
 運転手は俯き、「そうです」と絞り出すように行った。カーブに差し掛かる、前を見ろ、と私は訴えたが、運転手は前を見ることもなく滑らかなハンドルさばきで狂いなくカーブを曲がりきる。思わず「お見事」と拍手していた。
「私の母が、そもそも結婚に猛反対でした。口のある嫁なんか嫁とは認めねえ、とすごい剣幕で」
 古い時代の人間なんです、と運転手は疲れた声で言った。
「お母さんはまだ?」
 ええ、存命です。と運転手は頷く。信号が黄色になる。ゆっくりとブレーキを踏み、車体を揺らさないよう気を配りながらバスを停車させる。
「もう痴呆も始まっていまして、介護が必要な年です。気性の荒かった母もボケて穏やかになりましたし、同居して面倒をみたいのですが……」
 私は委細承知とばかりに頷いて、「分かりました。奥様が反対されているんですね」と言い放った。
「ええ。同居するぐらいなら離婚だ、と言い出しまして。母も丸くなったから、妻を不愉快にさせることもないと思うのですが」
 私は腕を組んで、運転手の後頭部を見つめる。この問題に悩まされてきたのだろう、円形に髪が脱毛しているところがあった。
「あなたは本気でそう思っているのですか?」
 え、と怪訝そうに運転手が振り向く。ちょうどそのとき信号が青に変わったので、「青ですよ」と教えてやると、慌てて向き直ってアクセルを踏んで発車する。
「どういうことですか」
「これまで散々ひどい仕打ちを受けてきた奥様が、いかに丸くなったとはいえ、その相手を見て何も思わないでいられると思いますか」
 私の問いに運転手は沈黙で答えるので、私は申し訳ないとは思いつつ、更なる追撃をかける。
「あなたはお母さまを止めましたか。ひょっとして、『母はああいう人だから』と奥様に我慢を強いてきたんじゃありませんか」
 運転手は天を仰いで、「よくお分かりですね」とため息混じりに言った。
「あなたの言う通りです。私は妻にばかり我慢を押しつけていた。それは」
「加害者と同じことです」
 運転手の奥さんはこれまで数々の辛酸をなめさせられてきたのだろう。その仇敵を恨みこそすれ、懐に迎え入れてやるなどということはできるわけもないだろう。そして自分の味方になってくれなかった夫を、この同居話を最後通牒に見極めようとしている。
「私から言えるのは、奥様に誠意をもって接してください。それだけです」
 誰が何を言おうと、運転手の態度に誠意ある心が伴わなければ、うわべだけを助言通りに取り繕ったとしても、奥さんには見透かされてしまうだろう。
 バスは私の目的地に着いたので、運賃を払って降りた。振り返ると、運転手が制帽を脱いで一礼し、バスは再び走り出した。
 運転手の言葉には、妻は障害がある、という差別意識の欠片が透けて見える気がした。その情報は言わないでもよかった情報のはずだ。それをわざわざ口にしたということは、彼の母親だけではなく、彼自身にも少なからず見下す、優越感のような心、そしてその意識から自分を守ろうとする保身があるのだろう。それに彼が気づけなければ、奥さんの心は動かせないに違いない。
 願わくば、運転手の奥さんに幸あらんことを、と私は祈りながらバスを見送った。
 バスを下車すると電車を乗り継ぎ、目的地の最寄り駅へと向かう。電車に揺られていると、つい振動が心地よくなってうつらうつらとしてしまう。
 乗り過ごすなよ、とシャルに言われた気がしてはいっと立ち上がると、そこは下車予定の駅だった。シャルのおかげかな、と苦笑して、仕事先へ向かう。

〈後日に続く〉


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