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チェリーブロッサム・ブリザード

 その店には生き物であれば、何でも揃っていた。蜘蛛でも、トカゲでも、猫でも虎でも。そして、人間であろうとも。ただし、すべては現身に過ぎなかった。
 現身とは、本物そっくりに制作された人形である。ただし高度な機械技術で根幹を制作されており、動きは本物と遜色ない。精度の高い人工知能も搭載されているため、その動物らしく振舞うこともできる。猫であれば猫らしく。虎であれば虎らしく。そして人間であれば、人間らしく。
 店の中に一人で踏み込んだ刑事、蛍は店の棚にずらっと並んだ現身を横目に、まるで汚らわしいものでも見るかのように一瞥して目を背けた。蛍には耐えがたかった。生き物の姿をしたものがいるのに、生き物の匂いがまるでしない、と思った。客の希望によっては動物の体臭のコーティングを定期的に施すらしいが、蛍には悍ましいかぎりだった。どうしてこんな商売が世界でまかり通っているのか、不思議で仕方ない。世の中には、本物の動物がいるというのに。
 店主は最奥にいた。子猫の現身を半分にばらして、内部の機械を工具で慎重にいじくっている。機械の猫は切なそうな泣き声をあげている。声だけ聞けば、本物と違わない。現身嫌いの蛍でさえ、胸を締め付けられそうな、悲しげな声なのだ。
「ああ、お客さんですか。今ちょっと手が離せないんでね、また後日……」
 蛍は背広の胸ポケットから警察手帳を取り出し、ゴーグルをつけた店主の鼻先にぶら下げる。
 店主がぎょっとして顔を上げると、そこにいたのが刑事には見えない、童顔の、女性にすら見えそうな中性的な優男だったのだから、意表を突かれて言葉も出ないらしかった。
「県警、特務一課だ。訊きたいことがある」
 声は見た目に反し低音で、落ち着いた響きだった。声に揺らぎがなく、油断していない証拠に微妙な緊張の音がある。尋問し慣れているデカの声だ、と店主は思った。職業柄、生き物の声は腐るほど聞いてきたし、刑事に取り調べられるのも初めてではなかった。
「特務……『人狩り』か」
 各都道府県には現身に関する犯罪。違法な現身の取り締まりや、無免許の現身の制作、販売の取り締まりを業務の中心とする「特務一課」が配備されていた。彼らが「人狩り」の異名で呼ばれるのは、野良と化した現身や、犯罪に利用されている現身を「処理する」、裏の業務に由来している。
 蛍は一枚の写真を胸ポケットから出し、店主に突きつける。
「この写真の女性の現身を制作したのはお前だな」
 ほう、と店主は腕を組みながら蛍の人相と写真の女性とを見比べる。搦手を使わず直球勝負。嫌いじゃないねえ、と感心する。大抵刑事という人種はサディストだ。蜘蛛の巣を張って、そこにまんまと掛かった蝶を弄んで吸い尽くしていたぶるような趣味がある。何でもないような布石を打っておいて、言い逃れをしているうちにそれが致命傷の一撃だと気づくように。だが、このお人はそうじゃないらしい。
 写真の女性は二十代前半といった年頃で、恥じらいが微かに残る表情から内気な質だと見受けられる。だがその恥じらいが色づく花のようで、彼女の美しさの一部になっている。目鼻立ちは整っていて、どこか日本人離れした、西洋的な顔立ちに見える。少なくともクオーター、と店主は見定めた。
 お、と写真と蛍を見比べていて、パーツで見るとまったく異なる顔なのだが、全体的な雰囲気でみると似通ったところのある、ぼやけた類似性があることに気づいた。
「刑事さん。このお人、あんたの身内かい」
 蛍は腹芸を使ってうまく出し抜こうという気もなく、率直に「姉だ。二年前に死んだ」と告げる。そこには身内を失った悲しみの色はなく、ただ淡々と事実を述べる事務的な刑事の仮面しか店主には見出せなかった。
 店主は猫をうっちゃって、ゴーグルを外して写真を受け取る。猫は早く修理を、とせがむように前足をしきりと動かしていた。
 間違いない、と店主は確信する。『あの』現身だ。
「そうだ。俺が造ったもので間違いない。だが届け出もしてあるし、販売記録もとってある。見るかい?」
「ああ。だがそれは後でいい。依頼者はどんな奴だったか覚えているか」
 蛍の声が少し揺らいだ、と店主は感じる。抑えきれない感情の揺れ。悲しみ? いや違うな。憤怒、憎悪……、刑事には似つかわしくない、ひどく個人的な感傷だ。なるほど、見た目通りの若さももっているってことか。店主は考え込むふりをして、そう蛍を分析した。
「うん、覚えているな。確か若い女だった。写真の姉さんに劣らないような別嬪さんだ。だがありゃあ大人しいタマじゃねえな。苛烈な質だ。細かい見た目はすまないな。そこまで記憶にはねえ。住所は変えられているかもしれんが、名前なら記録を見れば分かるぜ」
 蛍は机に両手を突き、前のめりになって、「本人確認をしているのか?」と訊くと、店主は鼻白んで、「あったりまえだろ。こうやって刑事がひっきりなしに来るんだからよ」と言うと、顎をしゃくってふいとそっぽを向いた。
 それは失礼をした、と蛍は初めてぎこちなく笑った。店主はお、姉さんとそっくりな笑顔じゃねえか、と思うと同時に、あの現身が最初に見せたのもその笑顔だった、と手元から離れていってしまった傑作を惜しむような気持にさせられるのだった。

 バスの運転手は怪訝に思いながらも、結局は声をかけなかった。
 女二人旅。しかもこの終点の奥には民家などほとんどない。手つかずの自然がみっしりと敷き詰められたような山林が広がっているだけだ。
 一人は肩口のショートカットヘアに紫のブラウス、黒いスカートに白いロングコートを羽織り、本物かどうかは分からないが、見たところ大粒のエメラルドが胸元に光っていた。顔だちは人形のように整っており、その造形美に血を通わせているのは、目の力だった。目には自信が満ちている。それでいて小ぶりな唇が笑みを浮かべれば、愛嬌もある。身のこなしも洗練されていて、こんな田舎の山奥を歩いているより、銀座や表参道でも歩いているのが似合いそうな娘だった。
 もう一人はレース飾りを巻きつけた青い帽子を目深に被っているせいで顔がはっきりと見えなかったが、腰まで伸びる長いストレートヘアーに、首元や裾に精緻なレース飾りをつけた、漆黒のドレスワンピースを身に纏っており、前者の娘に比べて人を拒むような、冷えた雰囲気が全身に漂っていた。
 そしてその女二人。白いコートの女の名を吹雪といい、黒いドレスワンピースの女の名を桜という。
「桜。本当にこの道で合っているのよね」
 獣道を歩き、さすがに疲労の色が見える吹雪は、肩で息をしながら後ろを付き従うように歩く桜を振り返り訊ねた。吹雪と違って桜には疲労の色は見えなかった。
 桜は手元の端末を眺めながら、「はい、お嬢様。このまま真っ直ぐです」と前方を指さす。吹雪が前を向くと、そこには見渡す限りの急斜面が広がっていた。
「お嬢様はよしてって言っているじゃない。呼び捨てでいいのよ。でもね、桜」
 にこにこと吹雪は早口で言うと、顔を顰めて「これは道とは言えないんじゃないかしら」と腕を組んで責めるように言った。
「申し訳ございません。お嬢様の健脚ならこの程度なんのことはないと」
「人を何だと思っているのかしら」
 桜はそれには答えず、吹雪が「だんまりね」と大仰にため息を吐くと、「代わりのルートを検索しました」と端末の画面を見せる。
 吹雪はそれを覗き込んで、「なんだ、ちゃんとした道があるじゃない」とじとっとした目で桜を睨みつける。
 桜は「申し訳ございません」と丁重な仕草で腰を折って頭を下げると、吹雪を置いて斜面を直角に横切る形で一人歩を進めて行く。それを見て吹雪は慌てて「待ちなさいよ」と彼女を追いかける。
 その後二時間山の中をさまよった二人は、ほうほうの体で山道の途中に建った山小屋のような建物に辿り着いた。山小屋は料理の提供などをしているらしく、煙突からは煙が昇り、「営業中」や「そば・うどん」と書かれたのぼり旗を、今まさに店主が片付けているところだった。
 あのう、と吹雪が申し訳なさそうに、気弱な女性に見えるようにしずしずと声を掛けると、気づいた店主が顔を上げてぎょっとした。それも無理なかろう。女性二人連れで、二人とも山岳地に挑むような装備でもない。都会の街中から切り取って出てきたような出で立ちでは、山ということもあって妖や何かの類ではあるまいかと店主が考えても仕方がない。
 この店主、年は六十そこそこほどの、豊かな白髪と口ひげが山中の茶屋の主というよりは、喫茶店のマスターといった方がしっくりくる紳士然としている人物なのだが、二の腕までまくり上げた腕などを見ると筋肉質で、顔の人の好さとどことなくちぐはぐな印象を与えた。
 吹雪はふうん、と店主に気取られない程度に彼を眺めると、目を潤ませて、「困っているんです」と切実そうに訴えた。
「旅行の人かなにかかい」
 ええ、と吹雪は頷いて、「わたしは吹雪。こちらはわたしの連れで桜と言います」と言うと、桜は顔を伏せたまま一歩前に歩み出て、腰を折って「よろしくお願いいたします」とあいさつした。
「何ぶん山の素人の女二人旅だったもので、道に迷い、食料は尽き、すわ野宿かと覚悟を決めようかと思っていたところ。天の助けの如くこのお店が現れたものですから」
 大げさだねえ、と店主が苦笑すると、吹雪は涙をそっとこぼすように俯いて、「だって、本当のことですもの」と低い、心をくすぐるぞくっとするような声で言った。
「お金は持っています。どうか一晩の寝床をお借りできませんか」
「お願いいたします」と二人揃って頭を下げる。
 店主も若い娘二人を追い立てるような無慈悲なことはできないらしく、「ま、困ったときはお互い様さ」と笑顔で頷き、二人を中に招じ入れると、片づけがあるから、くつろいでいてくれと言い残して戸を閉めて行った。
「お嬢様」
 桜はまるで勝手知ったる我が家のように茶を淹れ始めると、目深に被った帽子から顔を覗かせるように上目遣いに吹雪を見つめ、「間違いありませんか」と訊ねる。
 吹雪は売り物の焼き物のオブジェなどを拾い上げて眺めつつ、猫の置物だと思っていたものが狐だったので化かされたようなつまらなさを覚えながら、「ええ、間違いない」と頷いた。
 やがて店主が戻ってくると、三人は囲炉裏を囲んで旅の話や、山に伝わる伝承などを話しつつ、日も暮れてきたので食事にしようという運びになる。
「あの、もしよろしければ、泊めていただくお礼として、桜の手料理を振舞いたいと思うのですが、よろしいですか」
 店主はふうん、と考え込んで、「何だか悪い気もするけど、お願いしようかな」と立ち上がって、桜に調理器具や食材の場所を案内し、終わると日本酒の瓶とお猪口を抱えて戻ってくる。
「お付き合い願えるかな?」
「喜んで」と吹雪は花も恥じらうような眩しい笑みを浮かべて瓶を取り、そっとお猪口に酒を注ぎ、店主がぐっと傾けて飲み干すのを待って、次の杯を注ぎ、自分のお猪口にも酒を注ぐ。そしてお猪口を両手で捧げるように持つと、躊躇いがちに口をつけて、すっと顔を傾いで、唇の紅の軌跡が走ったように店主には見える。意を決してお猪口を傾けて飲み干すと、ゆっくりと吐息をもらし、店主に向かって微笑みかける。
「はは、若い子は日本酒なんて飲まないかな」
「ええ、でも美味しいです。岡島さん」
 店主、岡島の手が止まり、怪訝そうに吹雪を見つめた。「ぼく、名乗ったかな」
 ああ、と吹雪はすまなそうに笑んで、壁に掛かった魚拓を指さした。そこには確かに「岡島」の朱印が押されていた。タネが分かると岡島も安堵したように笑った。
「そうだ。一つ、昔話にお付き合い願えませんか」
「君みたいな若い娘に、昔話なんて言葉は似合わないね。でもいいよ、どんな話」
 ありがとうございます、と吹雪はしどけなく言いながら、岡島のお猪口に酒を注ぐ。
 吹雪はゆっくりと語り始めた。

 ある女の話です。
 彼女は都内の大学に通う、何の変哲もない女子大生でした。いえ、何の変哲もない、というと正確ではありません。大学では首席の成績の上、アーチェリーの大会で優勝するほどの腕前で、なおかつ男子学生たちが熱視線を送ってやまない美貌を備えた、文武両道、才色兼備の才媛だったのですから。
 その当時、わたしはまだ高校生でした。わたしの家は、代々医師の家系で、長女であるわたしも医者になることを求められていました。でも、わたしは医者になんてなりたくない。それよりも語学力を高めて、世界中を自由に飛び回って、気ままに生きてみたいという願望があったのです。もちろん、両親になんて言えません。表立って親に逆らうほどの胆力が、当時のわたしにはまだありませんでした。今なら、親に砂をかけることぐらい何でもないことですけどね。
 そのわたしの願望を唯一打ち明けたのが、わたしの家庭教師を引き受けていた彼女でした。彼女はその夢に大いに共感してくれて、行くときはぜひ自分も一緒に行きたいとまで言ってくれました。
 彼女は賢く、そして包容力がある上に、天真爛漫なところがありました。そんな彼女に、わたしは親愛、敬愛以上の感情を抱いてしまったのです。途端によそよそしい態度しかとることができなくなった幼いわたしの心を、彼女はすかさず見抜いてしまいました。
 それからどうなったかって? いやだ、岡島さん。目が怖いですよ。男の人の目です。
 明け透けに言うのははしたないですから。でも、そうですね。わたしたちは越えたら引き返せない一線を越えてしまったのです。一度越えてしまったら、あとはタガが外れたようになってしまいました。
 わたしは指折り彼女に会える日を数えていました。心と体の疼きは、彼女に会うことでしか、もう埋められなかったのです。若く青い蕾のような恋でした。そして赤く匂いたつ薔薇の芳香のような愛でした。
 だけれどそんな蜜月も、永くは続かなかったのです。……彼女かわたしの心変わり? だとしたら、どんなによかったことでしょう。そうであれば、きっと美しい思い出のまま、読みかけの小説の美しい一文に栞を差すように、わたしの記憶の中で保管されたでしょうから。でも、そうではなかった。
 彼女は、殺されたのです。ある日突然。わたしの家からの帰り道に立ち寄ったコンビニの防犯カメラに姿が確認されたのを最後に、彼女は姿を消したのです。そして一週間後に五十キロも離れた雑木林の中で発見された彼女は、執拗に暴行された挙句、衣服もはぎ取られ、無惨な姿だったそうです。
 おや、岡島さん。お酒が進んでいませんよ。さあ一献どうぞ。
 犯人? いいえ、犯人はまだ捕まっていません。ですからわたしははらわたが煮えくり返るような思いでいるのです。彼女を殺した犯人を見つけ出し、法が裁く前にわたしが裁きを下してやらなければ、この留飲を下げることはできません。
 彼女を死別という形で失ってなお、いえ、だからこそ一層彼女への思慕の想いは強まりました。ほとんど妄念、執着と言っていいでしょう。そのわたしの執着が、一つの罪と可能性を生みました。
 わたしは何人かの協力者の助力を得て――どなたか特定できるような情報は伏せさせていただきますね――、彼女の遺体から脳と心臓を摘出し、盗み出しました。そして岡島さん、あなたもご存じの「現身製作者」のところに持ち込んで、彼女の現身を造るよう依頼したのです。彼女の脳と心臓を使った現身を。
 脳は彼女の脳をベースに人工知能を搭載し、心臓は大部分を機械化して一部分を彼女のものを使った形にしました。脳と心臓に拘ったのは、そのどちらかには彼女の魂が宿っているのではないかと考えたためです。
 そして彼女の現身が出来上がり、初めて起動したときのことです。わたしと、製作者だけがその場に立ち会っていました。彼女はおもむろに目を開けると、怯えた様子で周囲を見回し、何が起きているのかを朧気に悟ったようでした。そしてわたしの好きだった、困ったような微笑みを浮かべると、犯人の名前と自分との関係、そして特徴を告げ、再び眠ってしまいました。
 次に起動したとき、彼女は普通の現身になっていました。わたしとの記憶など覚えていない、まっさらな記憶の機械人形に。
 けれど、確かにあの瞬間、現身に彼女の魂は宿っていたのです! それ以来、わたしの人生の目的は二つになりました。彼女を殺した犯人をこの手で始末すること。もう一つは、彼女の魂を完全な形で現身に呼び戻すこと。
 そんな馬鹿なことはありえない? ええ。見ていない人にとってはそうでしょうね。でも、わたしは奇跡を目の当たりにしたのです。奇跡の欠片に触れた以上、完全なものを求めないという道理があるでしょうか。
 ああ、岡島さん。随分眠そうですね。大丈夫ですよ。話はここでお終い。後は準備がありますから、ゆっくり眠ってくださいね。

 岡島が目を覚ましたときに感じたのは、まず嗅覚だった。香のようなものが焚かれ、部屋の中が薄く靄がかかったようになっている。次に痛覚だった。手に激痛を感じて見てみると、両手を重ねた状態で、その上から太く刃渡りの長いナイフで釘でも打つように刺しこまれていた。深々と突き刺されているため、手を動かそうにも動かなかったし、力を込めるだけで痛みが走った。見ると足も縛られ、テーブルの上に寝かせられていた。猿轡などされていないから、口は自由になったが、この深山の奥では、助けなど期待できそうもない。
「お目覚めですか」
 テーブルの横には吹雪と桜が立っていた。桜は漆塗りの鞘に納められた短刀を捧げ持ち、吹雪は両手をポケットの中に入れて、冷徹な目で岡島を見下ろしていた。
「わたしが訊きたいことはたった一つ」と吹雪はポケットから右手を出して、人差し指を立てて紅い唇に当てる。
「なぜ彼女を殺したの」
 岡島は女たちの見てくれに騙されて迂闊に招じ入れた自分の短慮に臍を嚙んだ。女、吹雪の目には最初からその名の通り、凍てつくような冷たい光が宿っていた。それが自分に向けてのものだと悟っていれば、こんな馬鹿げたことにはならなかったものを、と。
 彼は五年前、一人の女子大生を殺した。人生で際どいこともときにはこなしてきた岡島だったが、人を殺したのはそのときが初めてだった。
「彼女は美しかった。君の家から出てきたときのあの艶のある微笑み。あの美しさを、無茶苦茶に壊してしまいたいと思ったんだ。声をかけたぼくに対して彼女が向けたのは、善良な仮面だった。ぼくは腹が立った。その仮面を叩き壊して、奥に隠れている本当の顔を引きずり出して見たかった。女性に対してそんなことを思ったのは初めてだった。ぼくはそれを恋だと思った。恋とは破壊なのだと悟って、彼女を殴って昏倒させ、車で人気のない山林まで連れ去った。そこで目を覚ますのを待ち、目を覚ました彼女と対話しようと思ったんだ。理解するには言語をもってするしかない。けど、彼女は悲鳴をあげるばかりで、ぼくと話をしてくれなかった。だから殺した。彼女の尊厳を踏みにじって蹂躙して。だってぼくと会話してくれない。ぼくの尊厳を足蹴にしたのだから。そうやって、弄んで、心が満たされて、気が付いたら彼女は死んでいたんだ」
 言っていること、感情の時系列が入り乱れ、支離滅裂だ。岡島は彼女の話になると正気から逸脱する。この狂気が、彼女を死に至らしめたのだと吹雪は唇を噛んで拳を握りしめた。こんな下種な男に殺されたのだと、改めて受け入れざるを得なかった。
「……岡島」と深呼吸して吹雪が口にした名前は、冷えて凍りついた抜き身の刃のようだった。
「この子の顔に見覚えがあるかしら」
 吹雪が促すと、桜は帽子をとって顔を上げる。その顔を見た岡島は絶叫をあげる。「か、彼女だ。ばかな、そんな生きているはず」
 岡島ははっとして、「現身か!」と叫ぶ。吹雪がにっこりと笑って「ご名答」といやに明るい声を上げると、桜が捧げ持った短刀の鞘を払い、刃を吹雪に向かって差し出す。それを受け取った吹雪は刃に自身の顔が映るのを眺めて、「これが人殺しの顔よ、桜」と桜を一瞥して言った。
「彼女が生きていたなら、こう言ったのではないでしょうか。『獣を一頭、始末しただけのことよ、吹雪さん』と」
 桜はうっすらと微笑んで言った。吹雪はその口調が彼女のものに感じられて、しげしげと桜を見つめた。現身に感情はない。ないが、あるように振舞うことはできる。だが、特定の誰かを、しかも死んでこの世にいない人間の口ぶりや感情を真似るような高度なことは、現身にはできないはずだ。
 だが、吹雪は彼女に肯定された気がした。
「そうね」と吹雪は頷いて、岡島の心臓の上に短刀を両手で構える。
「けだものを駆除する、それだけのことよね」
 岡島の絶叫が響き渡るが、吹雪の手が下ろされた瞬間、くぐもった湿った呻き声が漏れて、その後は痛いほどの静寂が部屋の中に立ち込めた。
 ぱちぱちと囲炉裏の炎が爆ぜる音がする。桜が身じろぎし、ドレスワンピースの裾がさらさらと音をたてる。吹雪は深い海に潜っていたかのようにとめていた息を吐き出すと、それより多くの空気を取り入れようと呼吸を繰り返した。桜はその背をゆっくりと、たおやかな手つきで撫でる。
「桜。あなた、泣いてるの?」
 吹雪は首だけ振り向いて桜を見、驚いて声を上げた。
 桜はその手で目元を拭うと、確かに手が濡れたことは確認したが、涙を流したという認識には至れないで、きょとんとしていた。
「現身には確かに涙を流す機能はありますが、それは作動しない構造だけのもののはずで」
 吹雪は困惑したように見える桜の頭を抱くと、かつて自分が生前の彼女にされたように、自分の胸の中で頭を撫でた。
「わたしは信じるわ。桜。あなたの魂は確かにそこにあるって」

 蛍は情報を辿り、どうやら山奥の茶屋の主の岡島が姉の死の真相に関わりがあるらしいと突き止めて、山道を一人歩いていた。
 こんな人気のないところで商売して生計が成り立つのか、とは思うのだが、現身の店の店主は土日祝日になると観光客で結構賑わっているらしいと言っていて、蛍は山に好んで行く酔狂な人間が多いことだ、と感心すらした。
 ただ平日の夕刻ともなれば、人通りは皆無と言ってよかった。聞こえるのは風に揺れる葉のざわめきと、鳥の声ばかり。
 閉店時間をだいぶ過ぎているから、岡島も身が空いているだろうと思ってこの時間を選んだが、彼と話して帰る頃には夜になってしまいそうだな、と歩いてきた道を振り返ってため息を吐く。
 現身の店の店主の取引記録から、姉の現身を依頼したのは、「御堂吹雪」という代々医者の家系の一人娘であることが分かったが、彼女は姉の現身を受け取った直後から行方をくらましていた。せめて写真でもと御堂家を頼ったが、先方ではけんもほろろに扱われ、何ら情報は得られなかった。
 茶屋が遠くに見えるようになると、蛍はほっと一息ついた。すると、前方から山歩きとは思えない軽装の女性二人連れが歩いてくる。
「あら、こんにちは」と吹雪は相手の存在を訝りながらそれを悟られないよう、親しげな笑みを浮かべて会釈した。
「ああ、どうも」と蛍は不審そうな眼差しを隠しもせず、頭を下げる。
 嫌な予感がするな、と吹雪は直感していた。男の油断ない目つき、物腰。ただの登山客ではない。だとすると、岡島に用があって来たのなら、剣呑な客のはずだ。
「お二人は茶屋から帰ってこられたんですか」と蛍は顔を隠した桜を覗き込むように訊ねるが、桜はふいと顔を背けて、帽子をさらに目深に被る。それを見て一瞬眉をひそめたが、すぐに好青年の笑顔の仮面を被る。
「ええ、登山の帰りに寄ろうと思ったんですけど、店じまいだったみたいで。呼びかけても返事がないので、諦めて降りて来たんです」
 吹雪は何気なく、自然に聞こえるように努めて言った。嘘をつくときは、まず自分がその嘘を真実だと信じることだ。
「返事がない?」と蛍は吹雪の言葉に反応し、ぴりっと静電気のような緊張感が三人の間に走る。
「ええ、そうなの。お留守なのかしら」
 蛍は顎に手を添えて考え込む。それを見て好機と考えた吹雪は桜の手を引き、「それでは失礼しますね」と優雅な仕草で会釈すると、山を降りていく。
 はっとした蛍は駆け出して、茶屋まで息を切らせて辿り着くと、息つく間もなく戸を叩いて、「岡島さん、岡島さん!」と叫んで呼びかけたが返事がない。戸を開こうと思っても鍵が閉まっているのか、びくともしないので、「開けますよ、岡島さん」と言って戸を蹴破った。
 中に入った蛍が見たのは、手を磔にされ、足を縛られ、心臓を一突きにされた岡島の死体だった。まさか、あの二人、と吹雪と桜の姿が過った蛍は慌てて表に出るが、当然彼女たちの姿はもう見えなかった。
(まさかな……)
 蛍は吹雪の顔を思い浮かべ、その可憐さを想って、何を考えているのか、と彼女の姿を打ち消した。ただの登山客だ、と言い聞かせても、彼女の顔が脳裏から離れてくれなかった。邪念を打ち消すようにスマホをポケットから出すと、地元の県警に連絡を入れる。
 強い風が吹いて、店の前の山桜の花弁が舞い散り、吹雪のように蛍を包んだ。
 まだ咲いているんだな、と呟くと、地面に落ちた花びらを一枚摘まみ上げ、その香りを嗅いで、ポケットに突っ込んだ。

〈了〉


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