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夢の扉

 雨が降る。音もなく、漂うように。
 タケルは傘を差すことも忘れ、駅前のロータリーに立ち尽くしていた。頬がじんじんと痛んだ。痛みを労わるかのように雨が撫でていく、彼にはそう感じられた。
 路線バスが黒い排気ガスをまき散らしながら走り去って行く。去り際見えた彼女の横顔には涙が目立ったけれど、表情は怒りに満ちていた。
 本来ならタケルもあのバスに乗る予定だった。なんのためにこんな山の中くんだりまでやってきたというのか。
 タケルは背負っていた荷物を下ろすと、その上に腰かけて俯き、深いため息を吐いた。
 彼女の怒りは不当なものであると同時に正当なものだった。
 昨日の夜遅くに神奈川から栃木の宇都宮まで着いたタケルは彼女と駅で合流し、駅ビルの中にある居酒屋でしたたかに酒をあおった後で、駅近のビジネスホテルに泊まったのだった。
 彼女とは遠距離恋愛で関係を紡いできて、さあいよいよ結婚だという段取りになっていた。二人はロマンチックな展開など双方ともに期待せず、付き合いも長くなってきたから、結婚どうする、と彼女が議題に挙げ、タケルも結婚する方向で、と採決を仰ぎ、見事合意となったわけだった。ムードのあるプロポーズとかサプライズなんてものとは縁がなく、ただお互いの両親には挨拶をしておくのが義務だ、と考える二人は、まず彼女の親に挨拶しようという運びになった。
 概ね円満な二人の関係だが、火種がないわけではなかった。
 それがタケルの昔の恋人、チサトの存在だった。
 彼女はチサトの親友だったが、タケルに興味を抱いて相談事、という体をとって接近し、タケルもそれを拒まず相談事に乗ると二人で会ったりしていた。二人にはその間肉体関係があったわけではないが、チサトがやめてほしいと頼んだにも関わらず、チサトの親友だから、とあくまで拒む姿勢を見せなかったタケルにチサトが愛想を尽かし、破局となった。
 その後すぐに彼女は恋人の座に収まったことになる。当然、チサトとは絶縁になった。
 今回彼女が怒り、一人で帰ってしまったのは、タケルが寝言でチサトの名を呼んだからだった。忘れられないんでしょ、と彼女がタケルを詰り、タケルは否定したものの、そこで致命的なミスを犯した。
 怒りの火が燃え盛る彼女を、よりにもよって間違ってチサトと呼んでしまう、致命的な、それでいて凡庸なミスを犯したため、彼女の怒りの炎は消せないほど強く高く燃え上がり、渾身の平手打ち、という一撃に至ったのである。
 夢の中のことだけなら許してほしいと、タケルも思ったが、現実でもチサトの名を呼んでしまったことは、どう好意的に解釈しても情状酌量の余地はないな、と自分でも思っていた。
 どうしたもんかな。
 途方に暮れたタケルは、後から来るバスで彼女を追いかけようかと思った。だが、バスは一時間に一本しか走っておらず、しかもどの停留所で降りて、どう行けば彼女の実家なのかも分からない。それでは追いつきようもない。かと言ってすごすごと消沈して帰るような男を、彼女は認めてくれるだろうか。
 荷物を抱えて自販機でコーラを買い、霧雨が降る中をうろうろと歩き回りながら、コーラを飲んだ。炭酸の弾ける甘さが口に心地いい。雲っていた頭の中まで晴れ渡りそうだ。もし、彼女と言い合う前に頭の曇りがとれていたなら。いや、そんな暇はなかった。コーラを飲み出そうものなら、烈火のごとく怒っただろうから。
 駅の周辺をぐるりと回って戻ってくると、既にバスが来ていた。発車時刻まで三十分以上間があったが、これ幸いとタケルはバスに乗り込む。運転手は帽子を目深に被っているせいで顔が分からないが、ずんぐりとした小柄な男だった。白い手袋をはめ、右手でハンドルを握り、左手をシフトレバーにかけていた。
「もう乗ってもいいですかね」
 タケルが訊ねると、運転手は手で帽子を摘まんで下げながら、頭を下げる。
 無口な運転手だな、と思いながらバスに乗り込むと、既に乗客が何人か乗っていた。タケルは後部乗車口付近の座席に腰かけると、窓に頭を凭れさせ、ゆっくりと瞬きをした。山間部だけあって、気温が低くて過ごしやすいな、と思った。タケルの住んでいる藤沢辺りは、体感でここよりも五、六度くらい気温が高いように思えた。これだけ涼しければ、そりゃあ夏もエアコンがいらないと豪語できるよ。彼女の得意げな顔を思い浮かべて、胸がちくりと痛んだ。
 すべての元凶は夢だ。別れてから三年、チサトの夢など見たことなかった。それなのに、彼女といざ結婚するという段になってわざわざ夢に現れるなんて、恨みでもあるのか、と思って、恨みならあるだろうな、と胃の辺りがきりきりと痛んだ。だからあんな姿で現れるのだ。チサトからしてみれば、裏切られたも同然だ。恋人と親友を失うという仕打ちは、どれだけオブラートに包もうとも酷い仕打ちだと言わざるをえない。
 あれは不思議な夢だった。夢の中に出てきたチサトのことを思い出すと、胸がほっこりと、人肌で温めたように温かくなるように感じると同時に、背筋が寒くなるのだった。
 夢の中でも、バスに乗っていた。そう思ってバスの中を見回し、タケルは夢の中のバスと内装といい、中吊りの広告までそっくりだと困惑する。
 夢の中のチサトは、小さな少女だった。肩口で茶色がかったふわふわの髪の毛が揺れ、コーラルピンクのブラウスとクリーム色のスカート。目がぱっちりと大きくて、まつ毛が長く、くるんとカールしている。大人のチサトをそのまま小さくしたような、冷静だけど勝気な性格の彼女らしい顔立ちだった。
 タケルは抱っこ紐で生後数か月の赤ん坊を前抱っこしていて、小さなチサトはその隣に腰かけて、何かのアニメの主題歌らしい歌をささやかに歌っていた。
 ママに会えるの楽しみだな、チサト。
 夢の中のタケルはそう声をかけていた。するとチサトはタケルを見上げて、「チサトは別に平気だもん。パパが寂しいんでしょ」とふくれっ面をしてみせた。
 そうだな、チサトはお姉ちゃんだもんな。
 そうよ、とチサトは得意げに胸を張る。
 パパもな、チサトがいてくれれば寂しくないよ。
 ほんとう、と恐る恐る、といった様子で上目遣いに窺いながら訊ねる。本当さ、とタケルはチサトへの慈愛を感じ、それを顔に滲ませながら頷いた。
 じゃあ、このまま、ママに会いに行くのやめようよ。
 どうしてだい、と怪訝そうにタケルは訊ねた。
 だって、ママはパパをチサトからとっちゃうから。
 チサトの目には不安そうな色がありありと浮かんでいた。
 そんなことないよ、パパはチサトのパパだよ。
 ううん、とチサトはいやいやをするように首を横に振った。
 ママはチサトのことが嫌いなの。だからチサトを――。
 俯いて、ぼそぼそと言った後で、チサトは顔を上げる。その顔を見て、タケルは恐怖を感じた。夢の中でなければ、叫び出していただろうと思う。チサトは、胸も顔も血に塗れていた。血が入ったため見えないのか、左目を瞑り、右目を眦が裂けそうなほど見開き、口から血を吐きながら言う。
 殺したのよ。
 そこでタケルは逃げようと立ち上がろうとしたところで、抱えた赤子が異様に重くなっていることに気づき、抱っこ紐をめくってみると、そこにはばらばらになったチサトの四肢と頭が入っていた。冷たい、と思ったときには、タケルのシャツもジーンズも血に染まっていた。
 チサト、チサト。
 繰り返しチサトの名を呼んだ。それが、現実でも口に出ていたらしい。彼女はそれを聞いたのだ。
 そこで、目が覚めた。
 タケルは尻に伝わる振動にはっとして顔を上げると、バスは既に走り出していた。車窓は町中の景色をゆっくりと切り取ろうとするかのように様々な光景を映していた。
 また眠っていた。同じ夢を見たらしい。
 彼女の実家は山の中だと聞いた。まだ通り過ぎたということはないだろう、とタケルは安堵して浮かしかけた腰を下ろし、自分がリュックを抱えていることにぎょっとする。夢の中で抱えた抱っこ紐の中身はチサトだった。じゃあ、今自分が抱えているものは、と恐る恐るジッパーを開けて中を覗き込むと、何のことはない、着替えなどの自分の荷物だった。
 考えすぎか。
 タケルは深く息を吐いた。窓の外を眺めるとちょうど停留所が近づいてきていた。待っている人間もいた。だがバスは減速することなく、その停留所を行き過ぎた。待っていた客も顔を上げることなく、下を見ていた。
 おいおい、いいのか。タケルは眉をひそめて身を乗り出し、運転手の背中を覗き込んだが、彼は微塵も動かない。誤りだったならもっと動揺するはずだ。じゃあ、確信をもって通り過ぎたということか。
 タケルは途端に不安になってきた。目的地にたどり着く自信は元々なかったが、それが一層なくなった。ゼロからマイナスに減ったような気分だった。
 バスは山間部に入って行った。周囲から民家が消え、鬱蒼とした雑木林が広がるばかりの緩い傾斜道を走って行く。
 タケルは落ち着きを失して立ったり座ったりしていた。
「少しは落ち着いたら」
 突然女性の声でそう言われて振り向き、タケルは唖然とした。そんな馬鹿なことがあるわけがない、と思った。
「チサト」
 久しぶりね。そう言ったチサトは三年前と何も変わらない、理知的な瞳を、凪いだ湖面のように広く穏やかな表情の中に埋め込んで、けど負けず嫌いな口は、自信を湛えて口角を上げていた。
「どうして君が、ここに」
「分からないの」、とチサトは訝しそうに言って、そうか、あの子言わなかったのね、と合点したように頷いた。
「まあ、いいじゃない。とにかく久しぶりなんだから、再会を喜びましょ」
「チサト、君は僕に怒って――」
 チサトは悪戯をした子どもを見守るような目でタケルを見つめ、小さくため息を吐く。
「そりゃあね、直後は怒ったりもしたけど。もう何とも思っていないわ」
 タケルは首を振った。
「怒れよ。君はそうして然るべきなんだ。どうしていつも、俺を憐れんだような目で見るんだ……」
 チサトはタケルの隣に腰かけると、ごめんなさい、と言って俯いた。
「憐れんでいるとしたら、きっとわたし。自分自身を憐れんでいるんだわ。それをあなたに投影してしまっている」
 結婚するんだ、とやけになったタケルは投げやりに言った。それを聞いたチサトは困ったように笑って、「知ってるわ」と言ってタケルの横顔をじっと見つめた。
「知ってるって、どうして」
 バスががたん、と大きく揺れる。タケルは尻が瞬間浮いたように感じられた。
「それは言えない」とチサトは運転手の方を気にしながら答えて首を振った。
「でもね、わたしはやめておいた方がいいと思うの」
 タケルはむっとして、「どうせその理由も言えないんだろ」とチサトの顔に叩きつけるように語気荒く言い捨てる。
「そうね。具体的には言えない。でも、あの子と結婚すれば、あなたは大切なものを失くす。その苦しみを味わわなくちゃいけない」
 タケルはチサトの言葉を聞いた瞬間、夢の中の少女のチサトを思い出した。二人のチサトの声が重なり合い、タケルに訴えかけてくるような気がした。血まみれの少女。その姿が目の前のチサトに重なる。
「わたしはあの子の幸せなんて願わない。でも、あなたの幸せは願いたい」
 タケルは猛っていた心を落ち着かせ、ゆっくりと呼吸しながらチサトを眺める。チサトに遭遇した動揺と、チサトから投げられた言葉に対する反発心が徐々に収まってきた。
「俺の幸せなんて。君が幸せになってくれれば、それで」
 そう言いながら、自分はそんな言葉を口にする資格なんてない畜生だ、と自嘲していた。そもそも、どの面下げてチサトの前に留まり続けているのか、と自分を殴り飛ばしてやりたい気分だった。だが、チサトが自分との対話を望むのなら、それに応えねばならない。その責務が自分にはある。
「わたしの幸せは、ガラス細工の城のよう。透き通って、美しいけれど、あまりに脆い。そしてその城はもう壊れてしまったのよ」
 チサトは掌を繰り返しひらひらと返した。その手からは崩れた城のガラスの欠片が舞い散るように、タケルには見えた。
「もしかして、俺が見た夢に関係があるのか」
 夢、と怪訝そうにチサトは小首を傾げる。
「そうだ。小さな女の子が出てくる夢だ。その子をチサトと、俺は呼んでいた」
「そう、あの子が」、とチサトは呟くと、目元を拭った。
「泣いているのか」と訊くと、顔を上げて気丈そうに笑って「いいえ」と首を振った。
 チサトは立ち上がると、身を乗り出して降車ボタンを押した。チャイム音が鳴って、電子音声が次の停留所で止まる旨をアナウンスする。
 車窓から見えるのは相変わらず雑木林ばかりで、緩やかな坂道を登り続けている。このまま永遠に登り続けるのではないかとタケルは錯覚しそうだった。
「夢ってね、出入り口は一つじゃないの」
 出入り口、と鸚鵡返しに繰り返す。
「そう。いくつもある中から、あなたが無意識に選び出した扉をくぐっているの。その扉は、多くが過去に繋がるけれど、未来に繋がることもある」
「じゃあ俺が開けた扉は」
 そう言ってタケルが腰を浮かしかけたところで、バスが停車し、後部ドアが音をたてて開いた。するとバスの外から無数の手が伸びてきて、タケルを掴む。
「なんだよ、これ。チサト」
 青白い手の群れは蠢きながらタケルの体を掴み、バスの外へと引きずっていこうとする。タケルもポールに掴まって堪えようとするが、腕の強力な吸引力に抗しきれず、手を離してしまう。
 タケルが見たとき、チサトの横には少女のチサトが座って、手を振っていた。
 少女のチサトは寂しそうに微笑んで、手を振った。腕にはクマのぬいぐるみを抱えていた。タケルはそのぬいぐるみに見覚えがあった。どこだ。そうだ。写真。彼女が、小さなころから大事にしているというぬいぐるみ。
「ばいばい、パパ。またね」
 タケルは腕に引きずり込まれて飲み込まれ、そして意識を失った。
 気がついたとき、タケルは停留所のベンチに横たわっていて、その傍らで彼女が心配そうにのぞき込んでいた。
「気がついた、タケルくん」
 体をゆっくりと起こすと、そこにはバスを降りた雑木林沿いの坂道なんかではなく、田畑が広がるのんびりとした光景が広がっていた。
「タケルくんなら追いかけてくる気がして、バス停に来てみたら倒れてるんだもの。ねえ、体、痛いところとかおかしいところない?」
 タケルは念のため体を動かしてみて、何の異常もないことを確かめると、「大丈夫みたいだ」と彼女に向かって苦笑する。
 よかったあ、と彼女は安堵して大げさにため息を吐いてみせる。
「ごめんね、かっとなったりして。私、大人げなかったよね」
 いや、とタケルは首を振ったが、頭の中には二人のチサトの言葉が木霊していた。
「あのね、大事なことを伝えてなかったの。本当は昨日伝えるつもりだったんだけど」
 大事なこと、とタケルは首を傾げる。大事なことは、これからチサトの両親に結婚の話をするのではなくてか、と訝しむ。
 彼女は顔を朱に染めて、もじもじと勿体ぶってみせる。そしてたっぷりと間を取って焦らした後で顔を上げて、喜色をその面に満面に称えながら言う。
「私ね、お腹に赤ちゃんがいるのよ。タケルくんの子ども」
 タケルは雷に打たれたような衝撃を味わっていたが、その反面予期してもいた気がした。
 彼女はタケルが驚いている、その心の中までは知らずとも、驚いているという事実に満足して、目に勝者の優越と喜びを満たしていた。それで昨日からのことに意趣返しをしているかのように。
「それでね、もし女の子が生まれたら、チサトって名付けようと思うの」
 彼女の目に宿った、意地の悪い光をタケルは見落とさなかった。反対すればタケルに二心アリとまた騒ぎ立てるだろう。
 あの夢は未来の扉をくぐったのだろうか。なら、あのバスは。二人のチサトが同席していたあのバスは、何処からきて何処へ向かうものなのか。
 ばいばい、パパ、またね。
 チサトの声が、頭の中で繰り返し響いた。脳のしわの隅々まで染み込ませるように、二人のチサトの声となって響き渡った。

〈了〉


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