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【ショートショート】ある狂人の日記

マスク!

それはあたたかな魔法だ。それは七難を隠す。それはすべてを煙にまく。

路行く人々の顔が、みんな同じに見える。色濃く塗られたアイシャドウと、厚塗りされた化粧の下に見え隠れする、深く悩まし気な隈の名残が、太陽の光に照らされてちらちらと見えたりする以外に、皆の顔の特徴なんて見つけられるものか。

まあずいぶん前から、世の中は生きやすくなったもんだ!なにしろ、感染症が流行る前は風邪でもひかないとマスクなんてできなかったのに・・・。今じゃマスクしない方が後ろ指をさされるような時代になっちまった。実に素晴らしい。願ったり叶ったりだ。これで俺もようやく、目立たずに往来を歩くことが出来る。

前々から思っていたのだが、どうしてみんないつも無表情でいられるのだろう?彼らの心の中にはいったい何があるのだろう?俺にはこれがどうしても不思議で仕方がない。なんでこんな話をするのかというと、通勤電車に乗る人々の顔があまりにも似通っているからだ。それはまるで、どこぞの博物館に大切そうに保管されている文化財の能面みたいだ。貪るようにスマホを眺めているお姉さん。まるで天国でも見つめているような焦点の合わない目つきをして、いつまでたっても真っ暗な窓の外を見つめているおじさん。みんな、あまりにも生気がない。どうして、みんな同じような表情をしているのだろう?

俺はいつでもどこでも笑ってしまうのに。

これはどうも仕方がないんだ!許してほしい。昔からの癖なのだ。俺は無表情でいることができないのだ。たぶん病気ってやつなんだろう。

こうした瞬間にも、過去に出会った美しい女の唇の感触やら、昨日どこかの子どもに言われたショッキングな台詞やら、はたまた自分の頭の中に思い浮かんできた様々な詩句やら、アイデアやらがどんどん勝手にあふれてきやがる。俺の頭はちょいと変に出来上がってしまったらしい。だって歩いているだけで、いろんな連中が勝手に俺を楽しませてくれるのだから・・・。そして、「いろんな連中」は実在しているものだとは限らない。その中には妖精だの、ザシキワラシだのが含まれてるわけで!こんな変な頭ってあるかい???おかげで今日も愉しい毎日さ!今朝なんて、駅前のカラオケの看板で一生懸命に歌を歌っている姉ちゃんの微笑みがなんだか急に面白くなってきて、しかも彼女が「ねえん、あたくしのお歌をとりあげてちょうだい?」なんて言ってきたもんだから、ついつい大声を出して笑っちまった。

いかれてると思うだろ?そうさ、俺はいかれてる!でも、何が悪いってんだ?ただ笑ってるだけじゃないか?俺が笑うことで、お前らの財布から一万円札が消えたか?人が死んだか?

どうせ誰も俺の人生には干渉してくれやしない。だったら、一人で楽しんで何が悪い?俺は道を歩くだけで人生バラ色なんだ。いるだけで周りの人や物が楽しませてくれてるのに、俺に対して眉をひそめるような連中は、なんでそれをわかろうとしないんだ?きっととてつもなく退屈な世界に生きてるんじゃないだろうか?だとしたら、たいそう気の毒な連中だ!

なんて思っていたものの、感染症が流行ってから状況は一変した。なにしろ、自分の顔を隠せるのだ。これほど都合の良いことはない!もちろん、マスクをつける前も俺はいつも笑っていたのだが・・・それでも多少は人目を憚って我慢したところもあったさ。「なんで俺は我慢なんかしてるんだ?それは俺自身が臆病だからだ!」なんて思いながら、自分自身に唾を吐きながら、唇を固く結んでなんとか笑いをこらえていたもんだ。

だけど、今日ではどうだ!もはや躊躇うことはない。堂々と笑うことが出来る!どんなにギチギチの通勤電車の中でも、目の前のおっさんの頭が花札の「月とボウズ」みたいで後光が射してくるように見えたり、どっかの姉ちゃんの髪の毛が俺においでおいでしてきたり、その他いろいろ摩訶不思議な出来事があったとしても、俺はためらいなく笑うことができる!楽しいことがあるのなら堂々と笑えばいい!いったい何をみんな遠慮しているのだろう?まさか、あれか?人が楽しそうにしているのを見るとみんな嫌な気分になるってやつか?冗談じゃない!一緒にしないでくれ!どうせみんな俺のことになんか興味ないんだろ?だったら好き勝手やらせてもらうぜ!おれは白いマスクの下で笑うんだ!笑って笑って生涯を終えるのさ。素敵な人生だろう?

でも、どうなんだ?今まで人目を憚っていた連中も、マスクのおかげで生きやすくなったんじゃないか?好きな人からラインが来た時の顔のほころびも、ホームであの子を見つけた時の驚きも、もう隠す必要なんてない!堂々とニヤニヤすればいい!堂々と「アッチョンブリケ」すればいい!その白いマスクの下でな!やりたい放題だ!みんなマスクがしたいんじゃないのか?顔を隠していた方が、楽なんじゃないのか?だからこそ、こんなに暑苦しくてもみんなマスクを取ろうとしないんじゃないのか?俺はそうであることを願っている。そして、人間の精神なんてのは、誰にどう見られるかとか、自分が「マトモ」に見られたいとかいうケチな根性で容易に封じ込めてしまうべきものじゃない、そんなことしたらそれこそ病気になってしまうってことを、みんな分かってくれるといいな。

さて、時間だ。今日も笑っていこうぜ!

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