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私の中にあった罪悪感 恥と女

先日、いつも参考にさせていただいている、猫男@ASD.OTさんのnote&You Tubeを拝見して気がついた事がありました。

罪悪感という感覚が、自分の中にあるような、無いような、ピンと来ていなかったので言葉にならなかったのですが、猫男さんのnoteのおかげでモヤモヤの正体が見えてきたのです。

罪悪感とはどういったものなのか?の解説が詳しく、わかりやすくまとまっていますので、ぜひ皆様もご覧いただくと、胸のつかえが取れるような、モヤモヤがスッキリするような、霧が晴れるような、そんなクリアな気持ちになれるかもしれません。

私がこの動画を見終わって、自分に当てはめた時、私の中にあった罪悪感の正体が分かりました。それは『恥』でした。

私の中にあった罪悪感は、

『女性らしさ』
『女子力』
『母性本能』
『母性愛』

などの欠如に対する『恥』の感情でした。

これらを、『自虐ネタ』のようにして消化したような気になっていたなと思います。『開き直り』と言えば聞こえはいいのかもしれませんが、罪悪感が消えたわけでは無く『恥』を使って自分を縛っていたのだと思います。

私は、四人姉弟の3番目、中間子として生まれました。

当時では珍しく、両親は私に、アドラー心理学で言うところの『課題の分離』をし、私を育ててくれました。他の姉弟たちも同じように育ちましたが、中間子の私はその思想を色濃く反映した形で育つことになります。振り返ると、元々持っていた性格的な部分や、環境が『課題の分離』に適していたのだろうと思います。

そして、17歳の時に母が他界。究極の形で『課題解の分離』がやってきました。興味深い事に、私は母が亡くなった事で困ることは何一つありませんでした。そこにあったのは私自身の感情と対峙するという自らの課題のみでした。本当に何一つ困り事が無いという状態に育ててくれた母には感謝しかありません。これ以降の私は、両親が私に与えた『課題の分離』により様々な人生の岐路を、自ら選択し切り開いていくという技を身に着けていくこととなります。

時代はバブル崩壊後の氷河期と呼ばれた頃。課題を分離する事は、よしとされていなかった現実がありました。女である事や、若者である事は責任者からは程遠く、自らの人生の責任を自ら取ろうとすると、必ず邪魔が入りました。そして、他人の責任は私が先回りして取らねばならないとされました。自分の事は他人に委ね、他人の事には介入する事が、女性らしさであり、それらを社会は求めていましたので、『課題の分離』をする度に、そうした行為は

『女性らしさが足りない』だとか、
『女のくせに』だとか
『若者はこれだから』
『生意気を言うな』と弾かれましたし、

『親の教育が悪い』とか
『母親は何を教えてきたのか』と
親を悪く言われる事もありました。

『女は口を出すな』と煙たがられたり、
先回りしない事についても
『そんなこともできないのか』
と鼻で笑われたり
『女の自覚がないのか』
とバカにされる事が日常でした。

それらの事は、女性が受けてきた極々当たり前の世界です。私のようなものでなくても、多かれ少なかれ様々な事を言われたり、社会の風潮に合わせざるを得ない状況に、ずっと縛られているのが女の世界というものでしたし、縛り付ける縄は女性が自ら作り出し、女が女を縛り付ける事も多くありました。

私の両親は、女の世界を縛り付ける事はしませんでした。自由にやらせておいても、そう遠くまで行かないのが女の性だと分かっていたのでしょう。

社会が女を縛り付け、我慢を強いて尻拭いを求めていたあの頃。それでも、どうにか『課題の分離』を続け、ようやく若者を脱した頃に、世間的には遅めの子育てを始める事になります。両親から受けた大切な教えである『課題の分離』で子育てをしようとすると

『母親のくせに』
『母性本能が足りない』
『妻として女としての自覚はあるのか』
『女子力が低い』
『育て方が悪い』と迫られます。

やはり女と言う性を社会は縛り付けておきたいのだろうと思いました。女性の社会進出が叫ばれても、なんの代わり映えもしないのは、女を縛り付ける縄を解いていないからでしょう。

その縛り付けにする縄は、私の中に『恥』という罪悪感を生み出し、どうにか『恥』を減らす為にカモフラージュをしなくてはリアルの世界では生きていく事が難しく、子育てしにくい。それが未だに続く現実です。

私の中にあるこの罪悪感が、本当の自分には必要の無い事であることを証明するために、私はnoteという場所で『恥』を捨てて自由に発言し発信しているのだろうと思います。

私から罪悪感を切り離したかった。
『課題の分離』を行いたかった。
それが、私のnote。

『社会が求める母性本能って、なんじゃそりゃー!あるかーそんなもん。すぐに縛り付けようとするなー!』

『女だからとか、女はこうしろとか、未だに言ってるのかー?!』

『女子、女子、女子、聞き飽きたわー!大人になっても女子ってなんなのよ。幼くかわいくいないといけないって…年も取るし成長するのよ女だって。っていうか、女の子が女の子でいられる期間って恐ろしく短いのよ』
あっ!( ゚д゚)だからか…

『女子会…おいおい。自分から下がるのはもうお辞めなさいよ。大丈夫よ。おばさんの女子会は元々求められてないから。お姉さんの女子会だってもう微妙よ。おばさん会でも、女性会でも美人会でもいいでしょうに。媚びなくては生きていけない時代は、私が生まれた頃にはとっくに終わっていたよ。なのに自ら女の子を売り込むような事はもうしなくてもいいんだよ。女には女の尊厳があり、生き方があるのだから、女の子になる必要なんて、どこにもないのよ』

『自分の人生の責任は、自分でとりなされー』

『自分のご機嫌は、自分でとりなされー』

『それは優しさじゃ無いよ…』

『責任を肩代わりすることを、愛だと勘違いしているって…』

言葉を選ばずに表現すると↑だいたいこうなるなぁ。ブラックボンボン再び降臨(*ノω・*)テヘ
許してにゃん。

ジェンダーの問題に関わらず、様々な決めつけや、過度な期待、あるべき姿像が強いほどに生きづらさを抱える人も多く、私のように罪悪感を伴ってしまう可能性もあるのだと思います。

女性はこれまで我慢を強いられる事が多くありましたが、それらは日常に溶け込んだものでした。なんとなく引っかかるものの気が付かないような事や、モヤっとするけどそれがどこからくるのか分からないというような感覚で受け止めてしまっていたり、社会としても当たり前、普通といった感覚であったと思います。日常に溶け込んだ差別や偏見などがどんどん可視化され、学びの機会を得られるとてもよい時代になってきていると感じます。子どもたちの未来がより良い方向へ向かうよう、発信を続けていきたいと思います。

ようやく、罪悪感というモヤモヤの正体を言語化することができました。そして、自分でも納得する事ができました。気づきを与えて下さった猫男@ASD.OTさんと、noteという場所、そして私のnoteを読んでくださる皆さまに、心から感謝いたします。

猫男さん、コメントに困るような紹介になってしまって申し訳無いです。わがままを、お許しください。

そして、私の人生にとってすばらしい贈り物をくれた両親に愛を込めて感謝を送ります。

そんな『課題の分離』な私のnote。これからもどうぞよろしくお願いしますヽ(=´▽`=)ノ

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