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フィルムに魂を焼き付けた男


京都・祇園祭山鉾巡行の前祭(7月17日)
この日は、毎年 ”あの人” を思い出す。



1969年(昭和44年)2月。
次回作「千羽鶴」準備中に、
体の不調を訴え前田外科に入院。
数日後に、
朝日生命成人病研究所に転院。

新しい映画の企画に、
最後の執念を燃やすも、
再び立つことは出来ず、

同年7月17日
午前8時20分、
肝臓ガンの為に死去。
享年37歳。

映画俳優として活躍した期間は、
わずか15年。
その短い活躍期間にも関わらず、
出演した映画は、159作品。

日本映画黄金期を支えた

”希代の映画スター”


その名を、


「市川雷蔵」


という。


さて、私自身で
私の眠狂四郎を
批評するとしたら、
残念ながら
この第1作は失敗だった
と、
いわないわけには、
まいりません。

試写を見て驚きました。
狂四郎という人物を、
特徴づけている、
虚無的な物が、
全然出ていないのです。


映画の中の狂四郎は、
何か妙に明るくて健康的で、
それは狂四郎のイメージと
まったく相反したものでした。

これまでの私に、
たくまずにして出ていた、
虚無感や孤独感といった
一種のかげりが、
今の肉体的、精神的な条件の中から、
ほとんど姿を消していたのに、
私は、はじめて気がついてハッとしました。


このことは、
まことに迂闊(うかつ)千万な次第ですが、
その反面私自身が家庭を持った
一種の安らぎ、あるいは充実感といった物が
無意識のうちに、にじみ出ている結果だと
知る事ができました。


もちろん演技者としては、
これは弁解にはなりませんし、
そんな事では、いけません。

この次こそは、
厳重な注意の目をくばりながら、
狂四郎の役づくりを、
大きな課題としなければならぬと、
戒心しています。

引用元 市川雷蔵 著「雷蔵、雷蔵を語る」 飛鳥新社(平成7年 P218 P220)



やや引用が長くなりましたが、
とても大事な箇所なので、
途中までに出来なかった事を、
お許し頂きたい。


1963年公開の、
シリーズ第一作、
「眠狂四郎殺法帖」は、
原作者、柴田錬三郎
映像化に渋る中、

雷蔵自らが、
剣先で円を描いてみせる
「円月殺法」
見事披露して、
口説き落とした
エピソードは、
有名である。

そうして誕生した第1作は、
次作に異論を唱える
大映幹部が出るほど、
また、こうして雷蔵自身が、
認めているほどの失敗作だった。

私が、この本を購入したのは、
出版されてから、
だいぶ年月が、
経ってからだった。

VHSの時代に、
第1作を観ていたが、
あまり覚えておらず、
シリーズ全作を観たのは、
DVDや衛星放送で放送した頃、
ようやくであったので、

すっかり第1作を忘れていて、
この本を購入してから改めて、
第1作とそれ以降を観た。

なるほど、確かに、
雷蔵自身が語るように、
後の作品で感じられるような、

「虚無感」「孤独感」は、
感じられなかった。
むしろ、終わりの方は、
真逆の「熱血漢」すら
私には、感じた。

前年に結婚して、
子どもまで生まれて、
雷蔵にとって、
ようやく訪れた
平穏や家庭的幸せは、

俳優 市川雷蔵としては、
「眠狂四郎」を演じるうえで、
無意識にでも、
そういった物は、
出してはいけないという、
なんとも映画俳優としての
悲しき宿命というか・・・。


そうして、雷蔵自身が語った、
大きな課題を見つけた
「狂四郎の役づくり」は、
見事、成功したと、
次以降の作品で、
証明してみせた。

狂四郎のイメージの持つ、
「ニヒル」「孤独感」
「虚無感」「死相」

そして、「異質なエロス」

画面から、全て感じた。
役作りの課題が
分かったからと言って、
それを、演技で証明できるか?
といったら、それこそ、
役者としての力量が試される
そういう世界なのだと、素人ながら思う。


市川雷蔵は、
その生涯において、
3つの名前を持ち、
3人の母を持つ。

ここでは、詳細は書かないが、
そういう複雑な生い立ちだ。

それだけで、眠狂四郎の
イメージを演技で出せるか、
といったら、

やはりそこは、
雷蔵自身の絶え間ない、
決して人には見せない、
努力なのだと思う。

複雑な生い立ちと、
雷蔵の努力とが、
クロスして、
あの眠狂四郎が、
銀幕に登場出来たと、
私は思う。

どこが、どう違うのか、
私が、つまらない事を、
ああだ、こうだと書くよりも、
ぜひ、皆様ご自身で
ご覧になられて、感じて頂きたい。

一つだけ書くとすれば、
1作目における
「円月殺法」のシーンと、
それ以降の作品における
同シーンの各段の違いである。

1作目に繰り出す
円月殺法のシーンでは、
感じなかった、

「命を削って繰り出す」

それが、画面から伝わって来た。
観ている方も、苦しくなるような、
ああいった演技は、
まさに、唯一無二である。

眠狂四郎シリーズには、
「悪女」が多く出る。
毒をもって毒を制すが如く、
大きな課題を克服した、
眠狂四郎でなくば、
渡り合えなかったであろう。


市川雷蔵の写真を観ると、
プライベートの時は、
街中を歩いても、
誰にも気づかれなかったという
逸話があるほど、

地味で目立たない、
メガネをかけた、
エリートサラリーマンにしか、
見えないが、

いざ、撮影に入り、
メークをして一変し、
スクリーンに登場すると、
驚きの別人になる所も、
天性の映画スターとして、
そのギャップに、
魅力を感じる方も、多いと思う。

本当に、多彩な役柄を、
これだけ演じた俳優さんも、
まれだと思う。

あるときは、二枚目。
あるときは、影のある殺し屋。
そして、股旅。
さらに、
ニヒルな美剣士。

おまけに、
ミュージカルまで
見事にこなしてしまう、

”雷蔵さま”

あなた好みの
雷蔵さまを、ぜひ、
この機会に見つけて頂きたい。


大好きな市川雷蔵を、
書くときは、
無駄な虚飾はいらない。

彼の俳優道のように、
極力、ムダをそぎ落とした
ストイックな文章

ありたい。

更に望むなら、
その文章から
読んで下さる方が、
「円月殺法」のように、
命を削って書いているな
と、思われるような
文章を書けるように、
なりたいと思う。


まだまだ、
それが文字に
出せるほど、
熟練してるとは、
思いませんが、

今回の記事を、
読んで頂けた人が、
何か鋭い物や、
いつもの坂本猫馬が、
書く物とは、何か違うな。

そんな事を、
感じ取って頂けたなら、
まだまだ、
雷蔵の境地には遠いですが、
ほんの少し、近づけたようで、
とてもうれしいです。


今回も、最後まで
お読み頂きまして、
本当にありがとうございました。

なお、見出し画像は、
写真AC様
で、お借りしました。
素敵な写真を、
ありがとうございました。





エピローグ


1969年(昭和44年)
7月23日。
池上本門寺において、
告別式が執り行われた。


葬儀の最中、
天空は真っ暗となり、
激しい雷雨に、
見舞われたという。


しかし、
終わる頃には、
一転、快晴となる。
いかにも、
希代の映画スター
雷蔵らしいフィナーレ
と言えよう。

妻の太田雅子氏によると、

「雷蔵は、最後まで諦めず、
 遺言は一切なかった。」

という。

また、
最期の様子についても、

「雷蔵の顔には、
 白布が2重に巻かれ、
 火葬が終わるまで、
 解かれる事は、
 なかった。」

と、語る。


更に、雅子氏は、

「痩せてしまった姿を
 誰にもみせたくない。」

という本人の遺志を受け、
死に顔を見たのは、
養父と大映社長だけだったという。

最後の最後まで、
雷蔵は、”映画スター”であった。


お墓は、現在、
養父のお墓がある
山梨県 身延山久遠寺に、
移転したそうである。

行かれた方によると
お墓はなく、
ご位牌があるそうだ。

丁度、今日あたり
身延山久遠寺や、
京都でも、
たくさんのファンが、
献花に訪れたり、
思い思いに、
多くのファンが、
偲んだであろうと思う。


戒名

「大雲院雷蔵法眼日浄居士」



雷蔵の死から2年後、
1971年(昭和46年)
大映は、倒産する事になる・・・。




更に、時は過ぎ・・・・



1987年(昭和62年)

市川雷蔵が、

天に還った日と同じ、

7月17日。

もう一人の

”希代の映画スター”が、

天に還っていった。


その名を、


「石原裕次郎」


という。


懐かしいやら、マニアックな内容やらですが、 もし、よろしければですが、サポートして頂けたら 大変、嬉しく感激です! 頂いたサポートは、あなた様にまた、楽しんで頂ける 記事を書くことで、お礼をしたいと思います。 よろしくお願いします。