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ザ・ドリフターズという音色

私が物心ついた時既にテレビを席巻していたモンスター番組 "8時だョ!全員集合" 。

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現在から遡ること約50年前の1969年にスタートしたこの番組は、1985年に終了するまで土曜夜、私と家族にとって毎週の楽しみとしていつも側にあった。

番組が絶頂期だった1980年前後、私は小学生であり、正にブームの真っ只中にいた。学校ではドリフの話題。加トちゃん、シムラの物まね。ちょっとだけョ~、カラスなぜ鳴くの…カラスの勝手でしょ。"ななつの子" という元々のタイトルなんか大人になるまで知らなかった。

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なので私は"ドリフ"と言えば「コメディアン」という認識が当然だった。

ドリフの歴史

~グループとしてのザ・ドリフターズは終戦から11年後の1956年に "サンズ・オブ・ドリフターズ" というカントリーウエスタン&ロカビリーバンドとしてスタートした。

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当時のメンバーはリーダーの岸部清を始め現在のメンバーは1人もいない。流動的なメンバー交代の中、坂本九や木の実ナナ、小野ヤスシ等意外な有名人がメンバーとして名を連ねていた時代もあったという。

真っ当な音楽中心の体制から徐々にギャグを挟むコミックバンドへと変貌を遂げる中、新加入した碇谷長一(いかりや長介)が中心になり当時人気絶頂であったクレイジー・キャッツの弟分として更にコメディ色を深めていくことになる。

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そして様々な紆余曲折がありメンバーがほぼ現代の顔ぶれに定着した頃 8時だョ!全員集合 はスタートする。その後の活躍は世間のよく知るところである。

ただ、忘れてはならないこととして、このメンバーを集めるにあたって重要視したのはやはり音楽的な素養が大前提という点である。

ドリフの面々は、ほぼ全員が一流のミュージシャンなのだ。全員集合の中で、加トちゃんが華麗なテクニックで名だたるミュージシャンとドラムバトルを繰り広げていたことも覚えているだろう。

晩年いかりや長介がテレビCMでウッドベースを披露していたのを覚えているだろうか。そこにはコメディアンとしての"長さん" という顔は一切なく、ひたすらに格好の良い、渋いミュージシャンだった。

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THE BEATLESよりも先に!

現在でもミュージシャンを目指す人にとっての聖地である日本武道館。文字通り柔道や空手、剣道等様々な"武道"の試合を行う為に作られた建物である日本武道館で"初めて”ロックコンサートを開催したバンドとして知られているザ・ビートルズ。

が、しかし。

そのビートルズ公演の前座としてザ・ドリフターズはビートルズより先に武道館のステージに立っていたのである(笑。

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とにかく仲本工事の甘い声が相当COOL。そしてバンドの音がめっちゃロックだ。更にちゃんと笑いも取る。が、ビートルズファンの熱気に充てられて最後は逃げるようにステージから去る。既によく知る"ドリフ" だ(笑

ドリフの最終形

とまぁ、ここまでいかにザ・ドリフターズが素晴らしいミュージシャンであるか紹介してきたが、そこに填まる最後のピースは、

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そう、志村けんである。

既にコメディグループとしてテレビや舞台で活躍していたザ・ドリフターズに志村けんがボーヤとして加入したのは志村が高校を卒業する間際の1968年。そして長い見習い期間のうちには、仕事に嫌気が差し逃走しバイト生活を送ったり(これは後に「社会人経験のない志村に社会経験を」といういかりやの親心という側面もあるらしい事が逸話として付け加えられた)、お笑いコンビを結成しいきなり冠番組を持ったものの3ヶ月で終了し相方も逃げ鳴かず飛ばずの生活を送りまたドリフの付き人に戻ったりと紆余曲折があり、全員集合に見習いとして初登場したのが1973年。そして遂に東村山音頭でブレイクし "ドリフの一員" として視聴者から認知されるまで更に3年近くも「イマイチパッとしない新人」として世間から見られていたのだ。

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  ドリフ加入以前に活動していた漫才コンビ                              " マックボンボン "

当初番組から降板する予定だった荒井注の後釜として、荒井がまだ出演中の全員集合に見習い加入した志村けんは、絶対的なリーダーシップを誇るいかりやと圧倒的な荒井注のギャグ、そして当時人気絶頂だった加藤茶、更にそこにいるだけで場を和ませる高木ブーや絶妙なボケの緩衝材である仲本工事との間に割り込むスキなどなく、相当辛い時期を過ごしていたという。

しかし加藤、いかりやの「志村しかいない」という判断は遂に実を結び、その後現在まで続くお茶の間の人気者へと大化けすることとなる。

その後の活躍は誰もが知るところなので割愛するが、"楽器の弾けない純粋なコメディアン" である志村けんがドリフに入ったことにより、ザ・ドリフターズは完全にコントグループになってしまっていたのだと私は思っていた。

しかし大人になって色々と振り返ってみればそれは完全に私の記憶違い、そして勘違いだった。

志村はコメディアンを目指すにあたってコメディの要素と同時に "音楽性" の観点からザ・ドリフターズを選んでいたのだ。

あの有名な髭ダンス。

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このテーマ曲の元ネタはテディ・ペンダーグラスの "Do Me" という曲のベースラインだ。志村はコントで使用する音楽を自分でチョイスしていた。

志村けんは子どもの頃から音楽が好きでビートルズの武道館公演には友達を騙してまで観に行ったという逸話もある。そのコンサートの前座がドリフというのもなかなかに運命的な気もするが(笑
※ちなみに志村が観た公演はドリフが前座を務めたステージとは別の日である

志村けんのギャグにはリズムの付いたネタが多い。しかもさりげなく裏打ちのリズムが入っていたりすることから恐らくジャズやファンク、ソウル音楽の造詣が深いことが伺える。そして志村はそもそもギタリストとしてドリフに加入していたのだ。高校生の頃にはビートルズのコピーバンドを組んでいたこともあったらしい。

後に志村は後年習得した三味線をテレビ画面で披露している。

加トちゃんの「ちょっとだけよ」のギャグもそうだが、ドリフのお笑いには常に "音楽" が付随する。

それはザ・ドリフターズが昔も今も変わらずミュージシャンとしての下地を決して疎かにしないという意識の裏付けではないだろうか。

つまりドリフは音楽を棄てたのではなく、本質としてのミュージシャンという自分達のスタンスを尊重し大切にした上で、「観る者全てを楽しませたい」という欲求をとことんまで追求した姿こそが、

ザ・ドリフターズ

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なのではないだろうかと思う。

と、また長々と書いてしまったが要するに、ドリフがすんごい好きっていう話でした。

P.S  因みに私の推しメンは、体操コーナーが影響して地元の器械体操クラブに参加する程憧れていた仲本工事氏です。
2022.12.追記…先日仲本氏の訃報を受け、悲しくそしてまたメンバーが一人天国へと旅立ってしまった喪失感を抱えつつ、決して色褪せることのないザ・ドリフターズのステージを変わらずテレビで楽しむ日々を噛みしめながら、いつもの日常を送りたいと思います。R.I.P.

※参考… 居作昌果 / 8時だヨ!全員集合伝説                        いかりや長介 / だめだこりゃ


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