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都市の極相・まちの極相

もう何年か前の話。ぼくの目は、日光の戦場ヶ原あたりを歩いていた。ふと思う、この湿原はやがてどうなるのか。そもそもどこへ向かっていくのか、と。約2万年前の火山活動がきっかけに長い時間をかけて変化し続け、今、"たまたま湿原"であるのか。それともこれが"終わり"なのか。
stay home 生活で、また少し考えてみた。この夏の自由研究。答えはないけど。


森林の教え

都市は、まちはどこへ向かっていくのか。変わりゆく街並みは、人間の活動のカタチが現象として表出したものだとしても、ある意味でシステマティックにも見える。もしそのシステムに働きかけることができれば、より創造的で、より個性的な変化を導けるのでは。

このミズナラの林は歩いていて気持ちいいが、ぼくの目には、とても単調で退屈でもある。もちろん木々の形は違うけれど、植物の種類は少ない。変化が少なく、とても安定している。写真のように、ひとつの視点(scene)から見たとき、やはりこの林は美しく、気持ちのいい空間だと思うけれど、連続する視点(seaquence)、つまり歩いているときの感覚は少し違う。この景色のまま長い距離を歩くとするなら、感じる「変化」はより微細なものになっていくだろう。「変化」と「豊かさ」には密接な関係がある。まちにとっても「変化」は、「豊かさや魅力」とつながっているはずだ。

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植生の遷移と極相

森林も変化する。森林は「時間」の蓄積だ。何もない「裸地」にコケなど侵入し、数年かけて草が地面を多い、良質な土壌を育て、光が好きな樹木(陽樹)が育ち、次第にブナなど比較的弱い光でも育つ樹木(陰樹)が育っていく。この森林の様相の変化を「遷移」といい、安定した森林の状態を「極相」という。土地の高度や気候によって、極相の状態は違うようだが。

20210626土曜5時に。(千住のコンポジション).048

もし、この遷移過程で、落雷や自然火災などにより森林の一部が消失すると、森林には「ギャップ」と呼ばれる穴がぽっかりとあく。すると、森林は、豊かな土壌をもとにその穴を埋めていく。裸地には戻らない。森林にあるたくさんの種が自己修復していくという。

20210626土曜5時に。(千住のコンポジション).049


まちの「穴」

ときどき、まちにも「穴」があく。森林でいえば「ギャップ」だろう。森林の自己修復になぞらえれば、「まちの土壌」が、まちにある種(=コンテンツ)で、このギャップを埋めていくはずだ、、、が、もちろん単純ではない。まちは経済と密接に関係している。まちの遷移を決定する因子は、森林のように必ずしも場所に縛られない。樹木は、森林は動けないが、人間は動く。だから、その因子は、必ずしもまちにあるものだけでは決まらない。とても厄介だ。

蔵が見える。戸建ての住宅も、マンションも見える。高層マンションも。新しいものと古いものが混ざったまちに、突如として現れた変化・まちの「穴」は、ぼくらを試しているようにも見えてくる。「ここをどうするんだい?」と。

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都市の極相・まちの極相

まちの変化は、複雑だからと簡単に片付けたくない。意志のある小さな変化をどれだけ起こせるかが、やがてまちの真髄になるような気がする。それは、そこで暮らす人が起こすことに違いないだろう。森林のように、都市やまちの極相があるとすれば、それはどんな状態なのだろうか。

建物はやがて朽ちていく。人の活動が終わり、使われなくなった建物が極相といえるだろうか。長崎の軍艦島はまさにこうした建物群であるが、極相というよりも、死に近いように感じる。変化することなく、自己修復さえできず、朽ちるのみだ。

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成長という意味では、高層化や高度利用化が極相といえるだろうか。新宿の超高層ビル群はまさにひとつのカタチであるが、建物の規模に騙されているような気がする。森林のさまざまな種の植物がつくる多様性は、一見して見当たらない。

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森林に返ると、例えば高い山はどうだったろうか。「森林限界」という言葉があるように、一定の高度になると育つことができる植物の種類はぐっと減ってしまう。岩の山肌には、コケ類、地被類、草本類とわずかな樹木があるのみだ。

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水辺はどうか。森林に必要な土壌がない場所。当然、水面に森林はできないが、森林と湖の境界線は多様な種の植物が見てとれる。境界には、森林の豊かさの断面が表出している。

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まちの土壌

まちの土壌は、建物や公園など空間的な要素だけではなく、人々の暮らしや活動を含めた蓄積で、過去から連続するもの、総体のようなものかもしれない。ここにどういうまちが育っていくのか決めているのは、"今"だけではない。

千住のまちに、東京電気大学のキャンパスがある。北千住駅東口の目の前だ。そこにアゴラとよばれる地域に開かれた空間がある。ここで、2019年に3x3のリーグ戦が行われた。普段は、近所の保育園のお散歩コースだったり、比較的に地域になじんだ使われ方をしている。この3x3の試合は「まちの土壌」にあたらしい種が入ってきたような感覚をうけた。パブリックスペースの使い方として、これまでのまちにはなかったし、こういうあたらしいコンテンツはまちを元気にする。

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一方で、古くからまちにある建物がまちのみんなに開かれた場所にもなる。千住仲町にある「仲町の家」。昭和初期の古民家は、現在のまちに暮らす人たちの活動をあたらしい記憶として刻んでいく。

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都市やまちの極相が何なのかは、よくわからない。でも、建物だけがつくりだす空間でも、効率的かつ合理的な人工物が支配する空間でもないだろう。とりあえず、「そこに暮らす人の活動と都市やまちの空間が一体となって、まちの土壌がさまざまな変化を受容している様相」、と仮定しておきたい。

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