Chie_Matsui

本業は美術家です。絵を描いたり写真を撮ったりしながら、時おり文字を書いたりします。 日…

Chie_Matsui

本業は美術家です。絵を描いたり写真を撮ったりしながら、時おり文字を書いたりします。 日々の戯言から、活動中に書いた文章や推敲中のものなどをここに掲載していきます。 どうぞお楽しみください。 https://www.chie-matsui.com/home/

マガジン

  • 今日の戯言

    ふと思いをよぎることを、メモのように気楽に書いています。

  • 人生上等

    「どうして期日前にならないと、制作できないのか」 自分に甘く他人に辛くを戒めるべく、日常のさめざめを呟きます。

  • ポエム

    気恥ずかしい、言葉遊びの数々です。 自己表出など、終えたつもりでいましたが、黒鍵を叩いているようにキーボードを打っていると、何か出てきて本人もびっくり!

  • 気儘な箱入りエッセイ

    まだまだ紙媒体が盛んだった頃に短いエッセイを書いたものを読むと、あれまあ恥ずかしいことです。少し直したり変えたりして掲載しています。これからのものは、また別マガジンを発行予定ですのでどうぞお楽しみに。

  • 展覧会の扉

    noteでも自分が参加、出品している展覧会や、気になる展覧会をお知らせしようかなとマガジンを作りました。

最近の記事

「個展が終わり雑記」

作品を持ち帰って倉庫に入れる作業と掃除で、昨日は終わった。 いつも通り「浦島太郎症候群」が始まる。  作品とそれにまつわる言葉で埋まっていた7ヶ月間の日常から、徐々に離れていく感じがしている。 でも、まだ身体はあの鏡ように、どこかに置き去りにされた感じがしている。 絵の中なのか。それとも時間の中なのか。言葉の中なのか。  今回は、ギャラリーの工房で制作していたので、規則正しく出勤していた。帰宅するとホッとするなんて当たり前なのに、その感覚はとても新鮮で、とうに忘れてた

    • あと四日

      個展も残すところあと四日 始まった頃は寒くて雨が多い三月の終わり お客様もダウンコートを着て 暖かいお茶を出していた。 昨日も今日もどんどん陽射しが強くなり 半袖でもいいくらいの午後 桜のことを忘れてしまうには まだ早いか? 昨年末から 四ヶ月間、同じルーティンを繰り返してきた。 一日一日が 絵の具と一緒に層になり 季節の時間とは異なった時を過ごしてきた 最終日は輪唱のような朗読をする 123枚の積層した時間を 声によってときほぐして 春の夜に

      • 春、日曜午後

        風柔らかく花びらはゆっくり落ちてゆく。 夏将軍は幕間で準備に余念がない。 「さて、今年の春の踊り子たちもよく舞ってくれることよ」と、 冬将軍は重い衣装をぬいで汗を拭う。 少年たちはボールを 投げる 蹴る 打つ 「結婚おめでとう」と少年たちはゲームの画面を見ながら和気藹々 そろそろ虫たちも動き出し、晴れた空に羽虫も踊る。 南の国では秋の姫が山登りを始めたと、鳩が告げて飛び立った。 ©️松井智惠  2024年4月14日筆

        • 画廊のお店番の日々

          個展が始まって、明日で二週間。 4月もどんどん日にちが過ぎて、すっかり桜が満開に近くなった。 1日に、そんなにたくさんのお客さまが来られるわけではないのだが、 いらっしゃった方は、じっくり作品を見てくださっている。 鏡を突き抜けた架空の場所を設定し、そこでは生者も死者も、その二つに分別することのできない両義性を含んだ輩がモノタイプの紙片となってあちこちで蠢いている。  透明度の高い色彩にしたので、どの画面も軽く明るい。  あの苦しさも、不甲斐なさも、何もかもなかったよう

        「個展が終わり雑記」

        マガジン

        • 今日の戯言
          42本
        • 人生上等
          49本
        • ポエム
          10本
        • 気儘な箱入りエッセイ
          31本
        • 展覧会の扉
          15本
        • 夜の箱を開けてみた
          29本

        記事

          「置き去られた鏡」展

          明日から、いよいよ個展が始まります。  ほとんど展示が終わった会場に収まった作品は、今日までは私が独占して見ることができます。今は一番贅沢で、緊張が抜けてきた時間かもしれません。展覧会がいざ始まると、観客の視線に作品は耐えなければならないのです。  昨年の八月頃から、会場になるギャラリーノマルの工房で作り始めた、モノタイプの版画。最初は月に二回くらい通ってテストアンドエラーを繰り返しつつ、秋を過ぎて冬になった頃には、月に4回工房人入り、今年に入ってからは、週に二、三日工房

          「置き去られた鏡」展

          阿倍野のご老師

           「その道に入るんやったら、親や家族の死に目には会えぬと思え」「頂いたお座敷は断るべからず」とは、卒業後に亡父が言った言葉。流石に、年齢と共にペースが変わり最近は、時々お断りすることが出てきた。  時代遅れに響く今日頃ごろだけれども、確かに父はそのような生き方をしていたなあと思い出した。決して善人ではなかったし、裏も表があるええかっこしいのところを、私は見事に受け継いでいる。と思えば、母の田舎風味の割り切れなさも、しっかりあるので、都会の田舎暮らしも自然の成り行きなのかもし

          阿倍野のご老師

           「置き去られた鏡」へのイントロ

          「鏡を貸してくれ。もし息で表が曇るなら,それなら,これは生きているのだ」  狂乱に陥ったリヤ王の悲惨な最後に出てくるこの一節がもたらす事象をすっかり私は忘れていた。銭湯の鏡でどれだけ遊んだことだろう。まさに息を思いきり吹きかけて、広がる曇りが消え去る前に急いで指で絵を書いたのだ。「鏡」の役割りはいつしか私を映すものに変わり、シャッターを押す暗箱の中に入り、世界を写すことに変わっていった。 コーデリアに差し出された鏡 そう、幾多の鏡が世界中に細かな破片も含めて一体いくつ

           「置き去られた鏡」へのイントロ

          赤いカーディガン

          先日、とても懐かしい友人とオンラインで会った。 10年以上、いやもっと長い間合っていなかったかもしれない。 その間メールニュースで自分の活動を送ってくれていた。 彼女の紡ぎ出す表現はどのようなものであれ、いつも自然な慈愛に満ちている。 メールの最後に、いつも”Sunny Love”と記されたその一言で、 ほっとすることが度々あった。 だから、時々サイト見たりして思い出していた。 画面に映った彼女は、変わりなく、柔らかな大阪ことばを紡ぐ。 本当に久しぶりの対面だっ

          赤いカーディガン

          真夏の陽射し

            連休土曜日の午前は雨も上がって、自転車で眼科医へ検診に行く。来月には個展を控えているので、平日に行くことがなかなかできない。仕事に出ている殆どの人はそうなのだと思い、混んでいても仕方ないと待合のソファで珍しく本を読む。  このところ、左の眼の端が瞬時、眩しくなるときがある。目を使う仕事なので、画面の見過ぎが応えているのだろうか。痛みはないが、半年ぶりに、瞳孔を開いた状態にして、眼の奥まで観てもらう検査をする。随分前だが、網膜剥離をした時の痛みのせいで、時々眼が心配になる

          真夏の陽射し

          「道 パッサカリア」のトレーラーを観て

            ベルリン国際アート映画祭長編最高賞を受賞した『道 パッサカリア』。 伴田良輔さんの作品を初めて知る。関西方面で上映されないだろうか。 ウクライナのダンサーの名前に続いて、針山愛美さんや最上和子さんの名前も見える。  ダムタイプその他の多彩な音楽活動で知られる山中透さんも、音楽を担当し、イタリア映画賞のサウンドトラック賞を受賞。旧知でありながら、現在の山中さんの音楽と伴田さんの映像は予告編を観ると、すでに美しい。 久しぶりの美しい映像と音像の調和。 東京では、すでに

          「道 パッサカリア」のトレーラーを観て

          胡桃と栗の立ち話

          栗が胡桃に問う 私もあなたも、もうすぐ枝からもがれるのね。 そうよ 栗のあなたは、体の周りにたくさんの針をつけているわね。 ええ、だから私は地面におちたところを拾われるの。 あなたによく似た生き物が海にもいるって、カモメが言っていたわ。 あなたの何倍もの長さの、ピカピカの棘を持っているそうよ。 あら、それは初耳ね。私に似た生き物が海にいるなんて。 そもそも、私たち、海を見たことがあるかしら? 私もあなたも、ずっと枝にくっついたまま。空模様を見ては、鳥に食べられやしな

          胡桃と栗の立ち話

          「あくまで私見」

             もうすぐ、京都市京セラ美術館で村上隆さんの展覧会が始まる。滅多に日本では見ることのできなかった、あの強力な作品が並ぶのだろう。とても楽しみだ。嵐の前触れのように、節分祭を前に、古都は静まり返っているような気がする。否、数多くの美術大学の卒業展でそれどころではないのか。  村上隆さんという作家はは日本現代美術界の「踏み絵」なのかと思う時がある。作品の好みや噂の数々を聞くと、決して物分かりが良い作家ではない。  奇異に聞こえるかもしれないが、私は、草間彌生さんと村上隆

          「あくまで私見」

          「ひ」

          ヒマラヤまでは ひとっ走りね ひだまりの草 ヒバリも鳴いている ひとりで歩いて ひとりで食べて ひとりで眠って ひとりで見てたら ヒッパラれてたわ ヒリヒリ痛い ひらいた傷口 ひらいた目 ひらかないもの ひとつある それ ヒマラヤ山脈 陽が落ちて ヒッパラれてったら 秘仏があったわ ヒットパレード聞こえてくるけど 光り輝くネオンで一杯 ひっく 日頃の何かが ひっくり返って ヒステリックでグラマラス 彼岸の向こうで綱渡り 2002年筆 テキスト作品(壁に発行生

          ちゃありい

          ちゃありい 茹でた卵をお前は食べた 揺れる白身が殻の中から現れただろう その中にはまん丸の黄色い球体 一羽の鶏を食べたのは ちゃありい、お前だ ほら 冷蔵庫の中で十羽の鶏が出番を待っている。 祝祭の前は卵も産みの親も大忙しだ インフルエンザにかかって命を落とすなかれ ちゃありい お前は、ただ鶏を食らう お前は謙虚を美徳とし 貧しくも心清らかに 美の求道者であろうとしたのか 清貧とアヴァンギャルドという美徳の鏡を手にしたお前は 鏡に映る自分の姿を見たか 権威と富と名声を求め

          ちゃありい

          ステートメント草稿

          「置き去りにされた鏡」  今朝、鏡の前に立っていた。 「幕間」と「鏡」この二つのタイトルの間を行ったり来たりの日々が続き、私はほうっと息を吐く。 鏡の表面は少し曇り、寝ぼけた老女の顔が映っている。その背後には緑の引き出しと、描きかけの絵に洗濯物。 手にしたスマートフォンで反転した自分を撮影する。  インスタレーションの作品から「picture」にスピンオフしてしばらく経つ。私は物語や記憶の発生装置として、インスタレーションの構造を作っていた。もうかなり時が経ち、私の住

          ステートメント草稿

          「鏡に息を」

          「幕間」と「鏡」この二つの間で制作がとどこっている。 「幕間」は一昨年前から昨年にかけて、”picture”つまり私にとっての制作媒体である絵、写真、動画、それらを全て指し示す言葉の中に現れた空間だった。インスタレーションの作品からスピンオフしてしばらく経つ。私は物語や記憶の発生装置として、インスタレーションの構造を作っていたから、 記憶の瘡蓋を剥がし続け、物語=ナラティブの闘争が重苦しくのしかかる現実の中で生活をしていると、時代が経たことを強く感じ、少し考え込んでしまう。

          「鏡に息を」