見出し画像

「青蓮丸西へ、その前のお話」

 風がヒューヒューという音から、ごうごうという音に、急に変わりました。「シロや、海の上の風は上からも下からも、右からも、左からも吹いてくる。お前は寒くないのかい」「私は、北の国生まれなのを、ご主人はお忘れになって。それより、お身体に触ります」。と、シロは、フカフカのお腹で、ご主人の身体を隠して温めました。

 青蓮丸は、舟を操るのが、上手でしたが、寒さにはかないません。「うさぎのチョッキを、阿倍野の原っぱに、忘れてしまったよ」澄みきった海が、みるみる鈍色に変わっていきます。舟は、舵取りもできなくなって、漂うのが精一杯でした。二人と1匹は、こんな時は、腹ごしらえだと、粟おこしを舟の食料庫に、取りに行きました。
 蓋を開けると、子ネズミが五匹飛び出してきました。うさぎのチョッキが底にありました。「青蓮丸がぼくらにかけてくれた、うさぎのチョッキ!」。少しかじられてぼろになっていましたが、あったかいチョッキを着て、青蓮丸は粟おこしをネズミにもわけてやりました。
 甲板に上がると、緑の髪は風に煽られて、青蓮丸の顔が隠れてしまいました。「海坊主だ」と、ネズミたちは囃し立てるので、「全く呑気だなあ、お前たちは」と、青蓮丸は少しむっとして言いました。雲の切れ目が見えて、光が差し込んでいる場所に、島が朧げに見えています。「お前たち、なんとかあそこへ辿り着かないと」と、足元のネズミに言いました。
 毛皮のチョッキから、阿倍野の池に住んでいる人の百合の匂いが、かすかにしました。

 「お前たち、どうするのさ沈んでしまうのを待っているのかい」と、突然女の人の声がして、みんなは振り返りました。少し離れたところに、もう一隻舟が漂っていました。不思議なことに、風にも波にもビクともしていません。女の人は、ごうごうという風を物ともせず、ひらりと青蓮丸号に舞い降りました。
 「ふーん、見かけない異国の舟だね。見事な舟じゃないか。で、あんたたちは、どっちを向いて行きたいんだい。」と、女の人はテキパキと言いました。「僕の生まれた西の国へ行くのです」と、青蓮丸は言いました。「今は、南を向いているよ、お坊ちゃん。このまま行くと、海の滝に落っこちて、大海老のやつらの胃袋の中だね」。シロは、ビクッとしました。大の苦手の海老に食べられるなんて、と、ぶんぶん頭を振り回しました。「人間がお二人さんと、獣とネズミさんたち、向きを変えてやるよ。そうしたら、大きな島があるから、一休みしな」と、女の人は、靴から銀の鱗を一枚はがして、海に投げ入れました。

 あたり一面の風と波が一つの向きに集まり、青蓮丸号は、くるりと回ってまっすぐ進んで行きます。「お前がついていっておやり」と言うと、女の人の薄青の袂から、一羽のコマドリが出てきました。「なりは小さいけれど、いっぱしの添乗員よ」と、コマドリは短い尾を広げて挨拶をしました。「ほら、もうすぐつくわ。、見て」と、コマドリが歌い出しました。大きな島の入り江が、近づいて来ます。

 「やれやれ、西の国は、まだまだ遠い遥かなところですよ。ま、でも私がついてますから」とコマドリは、舟を導く用意を始めました。「ふんとに、こんどのお客様は、手がかかること」
 「コマドリさん、ありがとう。ぼくたちは、てんでかなわないや」と、青蓮丸はお礼を言いました。「ま、お礼はあの方にいってくださいな」「ありがとうございます。命を落とすところをたすけてくださった、薄青の衣を召されたお方よ」と、青蓮丸は、少し改まって頭を下げました。

 頭をあげると、百合の匂い人の姿は、もう消えていました。

©︎松井智惠             2024年6月30日筆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?