感想:映画『バッド・シード』 どんなときも人は笑えるし、笑えてしまうし、笑うしかない

【製作:フランス、ベルギー  2018年公開 Netflixオリジナル作品】

現代のフランス。移民の青年ワエルには職がなく、養母モニークとともに詐欺を働くことで金や物品を賄って暮らしていた。
しかし、モニークの昔馴染みヴィクターと出会ったことで、ワエルは彼が運営する、素行不良の子どもたちの更生を図るフリースクールの講師をすることになる。
ワエルの話術や一風変わった講義内容と、彼が配る10ユーロ紙幣に惹かれて生徒達はフリースクールに積極的に通うようになり、彼らは徐々に打ち解けていく。
そんな中で、移民の子どもである生徒達がどうして「問題児」とされているのか、それぞれの抱える背景が明らかになっていく。そしてワエルもまた、紛争と困窮を生き延びた過去を持っていた。


本作は2010年代のEUにおける難民・移民の姿を描いたコメディ作品である。
題材としては『はじめてのおもてなし』(2016年・ドイツ)と共通しており、同作が難民と既存の社会に生きる人々の関係構築に主軸を置くのに対し、『バッド・シード』は難民・移民の背景や、社会構造や偏見による現在進行形の困難に焦点を当てる。

作品の冒頭で映される、ヴィクトル・ユーゴーの『雑草はない。農夫が無能なだけ』という言葉が示す通り、本作では生育環境がその後の人生をいかに左右するかが強調される。また、主人公ワエルの特技である嘘を通じて、「道徳」の正当性を問う面もあった。

この作品では、現在のフランスでワエルが講師となるシークエンスと、紛争により孤児になったワエルの幼少期を描くシークエンスが交互に展開される。
最初にムスリムであれば属性を問わず殺害される紛争地帯の様子が描かれる。ワエルは家族を目の前で殺害されながらも、兵士に見つからなかったために生き延びる。その後、物乞いからスリになり、修道院に保護される過程では、彼が生きてきた過酷な環境が示される。
一方で、現在のシークエンスは基本的に明るいタッチのコメディであり、あまりにもあっけらかんと他人を騙すモニーク・ワエル親子、「不道徳」な講義内容などが笑いを誘うよう演出されている。その上で、下校・帰宅した生徒の暮らしの困窮がコメディシーンと連続して描かれ、明るい笑いが起きる場と、紛争や社会問題による苦しみは地続きの世界にあることがわかる。

ワエルが講師をするフリースクールの6人の生徒は全員がWASPではなく、遅刻や私語、他の生徒とのトラブルなどで停学処分を受けている。
しかし、そうした行動の多くは彼らの環境に余裕がないことや、彼らに対する社会的なサポート・ケアが不足していることが原因だと明らかになる。
特にアフリカ系のルドは、幼いきょうだいが下に3人いて、母親は体調を崩して寝込んでおり、父親は登場しないという状況である。さらに、本来彼をサポートするはずの行政の担当者フランクに脅され、わずかなお金を奪われるという八方塞がりの状況だ。
この環境で彼はいわゆる「非行」行為を働くが、生きる上ではそれしか術がない。後述するワエルの嘘も含め、マイノリティにとっての「悪事」の切実さが描かれる。
ワエルがフリースクールへの登校を促して生徒にお金を配布し、彼らが嬉々として受け取るのは破天荒な描写だが、メンバー達の家の経済状況を考えれば、それも自然な振る舞いといえる。
一方、ワエルは彼らの言動すべてを許容するのではなく、不寛容な態度については比喩などを用いて改めるよう促す。
生徒の中のひとりジミーはフランス語の読み書きがたどたどしく、他の面々にからかわれているが、ワエルは途中で遮ったり補うことなく彼の言葉を聞き、コミュニケーションに対して前向きになる後押しをする。また、物事を短絡的かつ一方的に判断しやすいナディアは諌められるし、民族どうしの抗争が原因で不仲のルドとカリムにはその行動が不毛であることが説かれる。
こうした描写から、一見して破天荒なワエルの言動には明確な基準があり、重要なのは「道徳」ではなく「寛容」だと捉えられていることがわかる。

序盤の詐欺に始まり、ワエルとモニークは次々と嘘をつく。
その中には他人の悪事や病気をでっち上げるといった、いわゆる「洒落にならない嘘」も含まれる。
幼少期のワエルが盲目のふりをしてスリを行うのも、社会の規範に則れば不適切である。
しかし、孤児になり物乞いをするも支援がなく、生きるための手立てがごく限られている状態で、そういった「道徳」が意味を持たないのも確かだ。現在のパートでも、ワエルが職を得ることの難しさを踏まえれば、嘘は生きるための手立てだといえる。

本作において、ワエルや生徒達の経歴は「調べればすぐにわかること」である。記録には、彼らのルーツや家族構成、入国履歴、犯罪歴といった「事実」が列挙されていると推測される。
「事実」に着目すれば、彼らは処罰されるべき人物、あるいは犯罪をおこなう傾向のある人物と規定されうる。しかし、自分では左右できないルーツや家庭環境、社会構造によって不利な状況に置かれ、公的なサポートも不十分という背景の把握をせず、一方的に処理をしても、問題の根本的な解決にはつながらない。
「事実」を用いた短絡的な判断は、EUにおける難民問題に限らず多くの社会で共通して行われていることである。本作はそうした行動の正当性を問うていると感じた。

ルーツや信教の尊重に加え、性的虐待を受けたことを告白するシャナの顔を映さない(消費しない)など、基本的には配慮の感じられる作品だったが、同性愛嫌悪とルッキズム的な描写についてはやや見受けられたのが気になった。

また、本作はモニーク役のカトリーヌ・ドヌーヴのアイドル映画的側面もあり、彼女がとてもチャーミングに描かれている。
序盤でワエルは彼女を「老女」扱いするが、モニークの人物像は「年老いた女性」へのステレオタイプを否定するものだ。作中におけるロマンスの中心がモニークであることからも、本作にはエイジズムに対する批判的なまなざしがある。
個人的にはビクターとの旅行を小細工の限りを尽くして実現するところがしたたかでとても好きだった。

Netflixの性質上かバストショットやクロースアップによる会話が多用され、カット割も細かいのだが、数少ない長回しがワエルとモニークの会話シーンに用いられ、ふたりの信頼関係を強調していた。
終盤の展開はやや素直すぎるようにも感じたが、冒頭でワエルが盗難を仕掛けた相手に残すメモ「人助けしてバカみたい」がラストで異なる形で返ってくるのは巧妙で好みだった。
最初はこの捨て台詞に憎たらしい印象を受けたのだが、作中で描かれるワエルのまったく人助けどころではない道程を踏まえると、いや本当にその状況で人助けをするのはとんでもないことだ……と心底思った。
なお、ハッピーエンドの本作だが、コミュニケーション能力が高く機転が利き、運動神経もよいワエルがあれほどボロボロになって初めて職への「入り口」にたどり着くという筋立てで、社会がいかに彼らに厳しいかを示すという点では最後まで一貫していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?