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映画ハンガーゲームを平和学的な観点から考察する(戦争と平和について)

2012年に第一作目が上映された「ハンガーゲーム(The Hunger Game)」という4部作の映画を観終わった。戦争が勃発しているこの時代に、改めて観るべき映画だなと思った。

この記事では、大学時代に国際政治や平和学を専攻していた者としての視点から、ハンガーゲームという映画の感想、そして「戦争」と「平和」について書いていきたいと思う。



映画のあらすじ


文明が崩壊した近未来アメリカを舞台に、殺し合いのゲームに参加させられた16歳の少女の活躍を描く。わずかな富裕層だけが住むことができる都市キャピトルでは、冷酷な支配者たちが、かつて自分たちに反旗を翻した12の地区から代表者を選び、殺し合いのゲームを強制させていた。ゲームの模様はTV中継され、最後まで生き延びた1人には巨額の賞金が与えられる。ゲームに参加することになった第12地区居住者の少女カットニスは、同じ地区から選ばれた少年ピータとともに戦いに挑む。

https://eiga.com/movie/57839/


ハンガーゲームの見所

国際政治や平和学、紛争解決学的な視点での、この映画の見所は、国際政治やメディアがどのように戦争や平和を戦略的に構築し、扇動しているのかを、とても適切に描写しているところにあると思う。


"平和構築" のための政治的常套手段

独裁国家パネムは、過去に大戦を経験した。「過去の過ちを繰り返さないため」という名目のもと、毎年、「ハンガーゲーム(直訳:飢えのゲーム)」を盛大かつ娯楽的なイベントとしておこなっている。

このゲームでは、過去の大戦で敗戦した人々を12地区に分け、それぞれの地区から毎年抽選で10代の少年少女を一人ずつ、合計24人選出する。これに選ばれた少年少女は、「ゲーム・メイカー」によって企画・製造されたアリーナにて、最後の一人になるまで殺し合う「ゲーム」に強制的に参加させられる。このアリーナには、様々なトラップや仕掛けが施されており、参加者は、そのアリーナ内の仕掛けに殺されないよう、そして生き抜くために、自分自身の出身地区の参加者を含む、他の23人のメンバーを殺していくことを余儀なくされる。

これは、国際政治学的に見て、とてもよく使われる手法でもある。

敗戦者たちが互いに団結して、独裁者(勝者・国家)に対して牙を向けることがないように、敗戦者たちを異なる地位・立場・環境に分断し、お互いを憎しみ合うように仕向ける。こうすることで、皆、誰が本当の敵なのかを忘れ、お互いに牽制し合い、憎しみ合うという図式が作られる。

こうすることで、独裁者は自身の政府の安全を守り、また敗戦者たちの力や希望を削ぎ落とし、敗戦者たちを恐怖でもってコントロールすることが可能となる。団結されてしまえば、独裁政府にとって恐怖や脅威となり得る存在も、分断させ、それぞれを牽制させ合うことで、より強固な政治の基盤を築くことができるのだ。

これは、現在でも世界各国で未だ水面下でとられている政治手法でもある。1994年に実際にアフリカのルワンダで起こった「ルワンダ・ジェノサイド」もそのいい実例だ。

その仕組みが、このハンガーゲームでは、とても分かりやすく描かれている。政治的に、どのように敗戦者をコントロール化におき、どのように彼らの力を弱め続けているのか。その視点でこの映画を観ると、今の世界の仕組みも垣間見える。


戦争を生み出すための「アイドル(先導者)」の作り方

ハンガーゲームで一番わかりやすいと思うのは、戦争や紛争を作り出すために、どのように特定の人物が「アイドル化」「先導者」に作り上げられていくのかということだと思う。

主人公の少女、カットニスは、4部作を通して政府に対する反乱を先導しようとする主体的な意思は無く、また扇動者になろうとしたわけでもない。彼女は最初から最後まで、「自分自身が生き残るため」そして「自分の大切な家族たちを殺されないため」に動き続けていた。

しかし、様々な人々が彼女のカリスマ性、立ち位置を利用して、彼女をその時々で都合のいい「アイドル」として祭り上げ、メディアを利用して政治的・戦略的に民衆の心を操作していった。それは、政府側も、反乱軍側も同じだ。

カットネス自身、そのことに気づいていたし、それに抵抗しようともした。でも、できなかった。愛する者たちを、そして自分自身の生命を守るため、敷かれたプロットの上で、決められた役柄を演じざるをえなかった。

そして、メディアを通してそれを観ている民衆たちは、それぞれに自分が思う理想を彼女に投影し、彼女を愛し、また憎み、そして彼女の名の元に動いていった。民衆たちは皆、「カットネスが自分の意志で反乱をしている」と思っていただろう。でも、そうじゃない。それを知る人は、彼女の周りにいて、彼女のことをよく知っているほんの少数の人間だけだった。


メディアにおける洗脳

ハンガーゲームのもう一つの見所は、メディアがどのように政治的な目的や意図で作られ、放映されているのかが、とても分かりやすく描かれているということだろう。

民衆は、メディアの裏側を知らない。ただ、見せられたものを「真実だ」と信じる。政府側で流れていた映像、反乱軍側で流れていた映像のメッセージの違い。

同じカットネスという人物を、その時々でどのように描き、そこにどのようなストーリーを描き、そしてそのストーリーでどのような行動や思想を人々に植え付け、どのような行動・結果に誘導しようとしているのか。

そういう目線でこの映画を観て観ると、今のこの世界の仕組みが少し回見えてきておもしろい。

これは、戦争に限った話ではない。芸能界やスポーツ業界、メディアが取り上げている(「ほぼ」と一応つけておく)すべてのものには、政治的な意図があり、裏側で大衆を一定の方向、一定の矛先へと先導しようとする。

ニュースは事実を告げている?

ニュースは、世界で起こっている事象のすべてを拾い集めているわけじゃない。イスラエルで起こっている戦争だけが、最近の世界で起こっている戦争じゃない。それぞれの国、宗教によって、どのような国、宗教に関わる戦争が起こっているのか、放映され方、そもそもニュースに上がっているかどうか自体、まったく違っていることなんてザラだ。


「本当の敵」は誰なのか

この映画を通して、何度か出てくる言葉がある。

「本当の敵は誰なのかを忘れるな」

カットネスがハンガーゲームの出場者として選ばれ、アリーナに投入される際、そしてその後のエピソードでも、言われる言葉だ。

これは、わたしたち全員に対して向けられている言葉だと捉えていい。表面的に起こっている戦争。たくさんの人が死に、虐殺されている。でも、その表面だけを見ていては、全体像は見えてこない。

お金はどこからどこに流れている?
武器は、どの国に対してどの国から流れている?
その国家通しが繋がるメリットはどこにある?
そもそも、この場所で、この人たち同士で戦争が起こることのメリットは、なんなのだろうか?

戦争というものは、作られているものだ。政治的に。自然発生するものじゃない。作中でカットネスも言う。「どんな大義名分があったとしても、人が人を殺すのは、いつでも私情だ」と。(意訳してます)


本当の平和は、どのように創られるものなのか

さて。

ハンガーゲームを観ると、現代の国際政治と戦争作成方法がとてもよくわかる。メディアは洗脳・扇動のために使われているし、それを観ている一般人には、裏側で本当に起こっていることはわからない。猫が猫じゃらしで誘導されてウロウロぐるぐる分かった気になって、主導権を持って動いている気になっているだけなのと同じことだ。

そしてハンガーゲームの最後を観るとわかるように、単純に「平和のため」と謳った独裁政権からの解放も、本当の意味での平和をもたらすのかは、謎だ。

事実、2010年〜2011年ごろに中東ではFacebookを利用して、独裁政権に対抗する反乱がドミノ式に勃発し、その後続々と新政権が樹立された。その後、中東は平和になっただろうか…?その後も、テロや内乱、宗教戦争などといった様々な名目での争いが続き、現在に至っているのではないだろうか?

では、どうやって戦争を止め、どうやって本当の意味での平和を創ればいいのだろうか?

ハンガーゲームから少しズレるが、呪術廻戦という漫画・アニメの中で、五条悟という人物が、この論題に対する答えを出している。

@ogiwarasayu429

いっその事上の連中全員殺してしまおうか #呪術廻戦 #五条悟

♬ オリジナル楽曲 - ネクロン - ザビエル

僕はさ、性格悪いんだよね。
教師なんて柄じゃない。
そんな僕がなんで高専で教鞭をとっているか。

夢があるんだ。

悠仁のことでも分かる通り、上層部は呪術界の魔窟。
保身馬鹿。
世襲馬鹿。
高慢馬鹿。
ただの馬鹿。
腐ったみかんのバーゲンセール。

そんなクソ呪術界をリセットする。

上の連中を皆殺しにするのは簡単だ。
でもそれじゃあ、首がすげ替わるだけで変革は起きない。
そんなやり方じゃあ、誰も付いてこないしね。

だから僕は教育を選んだんだ。
強く聡い仲間を育てることを。

呪術廻戦


「目には目を、歯には歯を」の復讐のしあいでは、いつまで経ってもすべての人に平等な平和は訪れない。とはいえ、「敵を赦せ」と言うことは、簡単なことではない。それに、そもそも大衆個々人が人格的に成長していなければ、人は何度でも過去を忘れ、過去と同じ間違いを犯す。

性善説か性悪説かという議論は、昔から哲学者や思想家たちが論じてきたことだ。

個人的な結論としては、人は悪にも善にもなりうる。なぜなら、人は自由意志を持っているから。そして、環境や過去の経験に影響される生き物だから。

では、どうすればいいのか。


精神性と人格の向上。
そこに尽きる。
そして、それは法律や恐怖で強制されるものであっては意味がない。
個々人の心のうちから、自然と湧き上がってくるものでなければならないのだ。


宗教という規律がなくても平和を維持できた日本の精神性

江戸時代が終わり、開国後、西洋列強が日本に押し寄せた。彼らは、日本人の精神性と平和かつ温厚な性格に驚愕したそうだ。

「なぜ、この国には天国や地獄という概念を説く宗教による戒律がないにも関わらず、人は悪に落ちることなく、これほどまでに皆が統一され、また一体となって平和を構築できているのか?」

当時の西洋列強は、問うたらしい。

その答えは、縄文の昔から日本人の魂の奥底に刻まれている精神性にある。

江戸時代においては、それは「武士道」という風に呼ばれていた。実際に、武士道という概念を世に知らしめた新渡戸稲造は「武士道」という本を英語で出版し、その中で日本人が自然のうちに持っている精神性を説こうとした。

武士道とはなにか。
実は、武士道という言葉を作ったのは、新渡戸稲造ではない。

明治維新に活躍した三舟のひとり、山岡鉄舟が次のように述べている。

神道にあらず、儒道にあらず、仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降、専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎、これを名付けて武士道と云ふ。

武士道とは、日本古来より受け継がれ、そして儒教や道教が融和しあい、長い時の中で熟成された精神性であり、武士道の最骨頂とは戦うことではなく、「争わぬこと」であった。


自然の中に神を感じとる精神性

日本人は、世界でもポリネシア人以外で唯一、虫の声を左脳で言語として処理する民族であると言われている。擬音語であるオノマトペの数は世界でも群を抜いており、自然の声に耳を澄ませ、その声を聞きとる力は他に類を見ない。

さらに、自然の中に神性を見出すことができるのも、日本人の豊かな感性であり、それが日本人の精神性につながっているのだと思う。


法律で禁じられているから、人は人を殺さないのではない。
恐怖で支配されているから、人は罪を犯さないのではない。

誰が見ていなかったとしても、誰も知ることがなかったとしても。
自分が、見ている。
自分の心が、知っている。

自分の魂に背くことはしない。
それを自然に、誰にも強制されることなくできていたのが元々の日本人であった。そして、ハンガーゲームの映画でも分かるように、「正しさ」とはなんなのかを常に問い続ける心。自分にとっての「正義」を貫く姿勢。カットネスのそれを、すべての人が思い出さなければ、戦争はいつまでも終わることはない。

ただ、国を変え、首をすげ替えられるだけで、いつまでも「本当の敵」には届かない。本当の平和は、いつまでも訪れず、「偽りの平和」の中で、それに気づかず生きることになる。

だからこそ。
本当の意味での平和を築いていきたいのであれば。
人々の心を癒すこと。精神性を養っていくこと。本当の生きる意味を、教えていくことが、なによりも大切なのだと思う。


カットネスが最後に選んだ人は、勇敢で武力に長けていた彼ではなく。花を愛でることができる、どこまでも優しく、穏やかな、あの人だった。

「本当の勝者に相応しい日常」は、ただ四季折々の季節の中で、愛する人と共にその移り変わる自然のすべてを、ただ寄り添いあって見つめることだった。

その中に、すべての答えが、あると思う。


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