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詩の価値について

してきたことの総和がおそいかかるとき
おまえもすこしぐらいは出血するか?

堀川正美
『新鮮で苦しみおおい日々』

詩とは何なのでしょうか。

僕は詩が何であるか、その答えを知りません。詩は、近づけば離れていってしまい、離れれば突然迫りくるような運動です。そのため僕は、永久にそれが何かを知ることはできないでしょう。そんな得体の知れないものに、何故か惹かれてしまうのは、殊に現代においては、詩に対して価値を見出しているからではないでしょうか。

※価値という言葉は、そもそも詩とは釣り合わないのではないかという感情もありますが、ここでは、詩を他のすべての文化・プラットフォームと同列のものとして捉えています。詩は現代の消費社会において特権的な存在とは看做されていないので。ただし、これは、詩の消費を推奨するものではありません。

僕は、詩にはふたつの価値があると考えています。

ひとつは「言葉の新鮮さを発見する場」としての価値。
もうひとつは「人間性のぶつかり合う場」としての価値。

これらの価値は、詩を書くのか、あるいは読むのかということには依拠しないため、僕は、詩に触れるときは常に、このどちらかを軸足にして詩の空間に立つように意識しています。

それぞれどういうことか解説します。

「言葉の新鮮さを発見する場」とは何か

詩を成すものは、光とか美とか悲哀とか、色々とありますが、何よりも重要なのは言葉ということで異論ないんじゃないかと思います。

詩が書かれるとき、そこには言葉が並んでいます。しかし、その言葉たちの扱われ方は、僕たちが慣れ親しんだものとは幾分異なっています。詩を論理的に読むことは“ほぼ”できず、何が言いたいのかを完全に理解することはできません。

※“ほぼ”としたのは言葉が論理から完全に抜け出すということはあり得ないからです。ナンセンスや自動筆記であっても、そこには光とのあいだに横たわる、ある種の論理が存在しています。光と、人の認識にまつわる論理が。

詩の言葉が従来の言葉とかけ離れているのは、既存の構造から引き剥がされ、新しい配置と接合を与えられていることが原因ではないかと思います。

例えば、以下の連(詩の一節)はどうでしょうか。

あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
老齢は日暮れに 燃えさかり荒れ狂うべきだ
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ

ディラン・トマス
『あの快い夜の中へおとなしく流されてはいけない』

詩においては、主語や述語や目的語が恣意的に取り除かれています。要するになにが言いたいのか、という疑問を自然に生むような言葉の並びです。老齢が日暮れに燃えさかり怒り狂うとはなんなのか。ひとつひとつの言葉について深く考え、その意味や響きの可能性を模索します。すると、もしかするとこれは、老いて生きる気力を失いつつある老人に対し「生きろ」と言っているのではないか、という可能性が見えてきます。その時、言葉たちがこれまでと全然違った見え方をしてきます。文字通り書かれた「生きろ」とは、言葉の態度も、質量も、全く異なっています。これが詩の言葉の真髄であり、僕にとって、言葉に対する認識が転換した原体験でした。

言葉がこれまでと全然違った見え方をすることを僕は、「言葉の新鮮さ」と呼んでいます。それらに出会うことは、新しい世界が拓けることと同義です。この感動は、詩を書いていて降りてくることもあれば、詩を読んでいて出会うこともあります。これも詩の面白いところのひとつで、詩において主体-客体はそこまで重要ではないと確信しています。もちろん、この詩は自分では絶対に書けないというものは無数にーー僕がこれまで書いてきた詩以外すべてかもしれませんーーありますが、それはなんの問題もないことで、むしろその事実によって、詩の価値は生まれていると考えています。

以上が詩の価値のひとつ、「言葉の新鮮さを発見する場」です。

「人間性のぶつかり合う場」とは何か

コミュニケーションにおいて最も重要なことは論理であり、続いて感情や言葉遣いが重視されるんじゃないでしょうか。いずれにせよ、そこでは人間性というものはほとんど見向きもされません。

人間性が表立って現れてくるのは、ほとんどの場合その人の行為においてなんじゃないかと思います。戦地で勇敢に戦うことや、苦しむ人を助けることは、その人の人間性をよくあらわしています。生きてきたことのすべてを振り絞るようにして現れるもの、それが人間性です。では、人間性が詩という場においてぶつかり合うというのは、どういうことでしょうか。

僕は人が何を見、何を聴き、何を感じた上で、どんなものさしで世界と関わっているかということに強い興味を持っています。それがまさしく人間性にふれることだからです。また、詩を読み書きする時、その言葉の書き方-読み方は必ず、その人の認識と感性に裏打ちされたものになります。なぜなら、知らないことや感じたことのないことは、まともに書くこともまともに読むこともできないからです。

※詩ではないものも同様のことが言えるのではないかという反論が想定されますが、ある見方ではそうで、ある見方では違っています。ここであえて言いたいのは、詩とそれ以外の言葉には明確な差があることです。それは、ひとつの言葉に費やされる時間と熱量です。

詩の言葉はそれを書く人、そしてそれを読む人の認識と感性に根ざしています。認識と感性からなるもの、それが人間性です。ここで詩と人間性が接点を持ちます。しかも、この人間性とは、書く人のそれのみならず読む人のそれをも意味します。詩は、書き手と読み手それぞれの人間性が前に出てくることによってはじめて「かたち作られ始めるもの」なんだと思います。

書き手と読み手は、たがいの人間性を、詩という媒体で繋いでいます。繋いでいるというのはかなり生ぬるい表現で、僕はあえてそれを「ぶつかり合う」と表現します。これは決して誇張しすぎているということはないと思います。なぜなら人間性とは、生きてきたことのすべてを振り絞るようにして現れてくるものなのですから。

以上が詩のもうひとつの価値、「人間性のぶつかり合う場」です。

終わりに

詩を書くにせよ読むにせよ全力を傾けるのは難しく、集中が切れてしまって、捉えたように思えた言葉が指の隙間からこぼれていくような感覚になることは往々にしてあります。しかし、その事実が詩の価値を下げているとは思いませんし、詩を書かない-読まない理由になるとも思いません。僕は、詩の言葉が持つ力を真正面から、誠実に評価することができれば、詩を書く-読むことに全てを捧げることができると信じています。(これはロマンチズムですが、個人的にその点が歪むと、狂気しか道がなくなってしまうのです)

詩を書くこと、そして読むことの価値について、どんな可能性があるかを考えること。それが詩を切りひらいてゆくための、第一歩なのではないでしょうか。更に言えば、詩について考えることのはじまりは、その価値について考え、「いる」か「いらない」かを判断することなのだと思います。僕はその問いによって、ひとりでも多くの人が、詩を、「いる」と判断して欲しいと願っています。あたらしい言葉と出会い、人間性がぶつかり合う、終わりなき冒険ーーあるいは苛烈な死のために。

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