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月の砂漠のかぐや姫 第149話

「明日の朝、明るくなったら空風を飛ばして、羽磋たちを見つけてくれや。頼むぜ。そうしたら、今度はあいつらを引き上げる手段を考えないといけねぇから、それはそれで大変だがな。ハハハ。まぁ、そいつは、明るくなってからの話だ。明日、お前が空風を上手く操れないと、それこそ羽磋たちが困っちまう。もう戻って、寝てしまえよ、小苑」
 背中を軽く叩きながら、冒頓は苑に戻って体を休めるように言いました。彼の言う通り、これ以上ここで谷底を見下ろしていても仕方がありません。それに、苑の中で湧き上がっていたどうすることもできない強い感情も、冒頓と話をし、共に谷底を見つめることで、すっかりと消えていました。
 気分の軽くなった苑は、冒頓に対して勢い良く頭を下げると、眠りに付くために広場の中心の方へ戻ることにしました。焚火の明かりが力を及ぼす圏内に入ろうとするところまで歩いたところで、ふと彼が後ろを振り返ってみると、冒頓は相変わらず広場の縁に立っていて、そこから谷底を見下ろしているようでした。
「俺にはああ言ってたけど、やっぱり冒頓殿は、羽磋殿たちのことが気にかかってるんだな」
 苑のように表に出せない分、冒頓の心にも生じたもやもやとした気持ち、なんとかしたいのにどうしようもできないという焦燥感は、容易には消えてくれないのかもしれませんでした。
 再び足音を忍ばせながら、苑は自分の寝場所と定めた砂岩の陰に戻ってきました。いざというときの為に近くに留め置いている愛馬だけが、苑の帰りに気づきました。苑はその鼻面をつるんとなでると、マントを被って横たわりました。
 羽磋のこと、王柔のこと、理亜のこと。それに、冒頓のこと。
 いろんなことが心の波の上に浮かんできますが、もうそれらが先ほどのように苑を悩ませることはありませんでした。
 大変な一日を過ごした少年の体は、休息を必要としていました。
 横たわってからさほどもせずに、苑は深い眠りに落ちていくのでした。


 次の日の朝。
 辺りはまだ薄暗く、多くの者がマントに包まり体を休めている中で、苑だけが動き始めていました。隊の物資を運ぶ駱駝が集められているところへ行き、飼い葉と水を手にして戻ってくると、愛馬の世話を始めました。それを手早く終えると、今度は自分の荷を下ろしておいた場所へ行き、布がかけられた大きな木箱を引き出しました。木箱の中からは鋭い鳴き声が漏れてきていました。それは、オオノスリの空風を夜の間休ませている箱でした。
 苑は身体をそらして空を仰ぎ見ました。
 頭の上の空は黒青の夜の色をしていますが、東の方へ行くにつれて、だんだんと黒色が抜けて青色が勝ってきています。そして、ゴビの大地との接線が近くなると、今度は薄い黄白色や橙色が現れてきています。
 まもなくです。まもなく、夜が明けようとしているのです。
 苑は少しの間、布の隙間から木箱の中を覗いて空風の様子を確かめるなどして過ごしました。頭上の空が完全に白んずるのを待つためです。それはたいして長い時間ではありませんでしたが、苑は布を剥いで空風を空に放ちたいという自分を抑え続けなければなりませんでした。でも、それは、昨晩のような不安や焦燥感に押されていたからではありませんでした。冒頓と話して気が落ち着いたからでしょうか。それとも、身体を休めたせいで、心も落ち着いてきたのでしょうか。今の苑は、「空風を飛ばせばきっと羽磋たちが見つかる」と自然に思えていて、早くその瞬間を迎えたいという意欲がどんどんと湧き出ていたのでした。
 そして、ついに、その時が来ました。
 頭上の空が早朝の鮮やかな青色に変わり、砂岩や駱駝や馬たちがそれぞれの影をゴビに落とし始めたのを確認するやいなや、苑は空風の入った木箱を覆っていた布を勢いよく取り去りました。そして、箱のふたを開けて空風を外へ出すと、大空に向かって差し出しました。
「行け、空風っ! 谷底のどこに人がいるか探して教えてくれっ」
 苑の上げた大声に乗って、空風は翼を大きくはためかせて飛び立ちました。苑の頭上を、広場の上を、ぐるぐると回って風をつかまえながら上昇していきました。
 苑は空風に指笛で指示をしながら、広場の谷に面した縁の方へと走っていきました。もう周りの人たちのことは彼の頭から抜け落ちています。朝早くから何事だという文句が男たちから彼に投げかけられますが、それは広場の縁へ急ぐ彼には追い付かず、動き始めた朝の空気の中へ溶けていきました。
「もうすぐ、もうすぐだ。空風が、羽磋殿たちを見つけてくれるっ」
 広場の縁に立ち、谷の上を旋回するオオノスリを見つめる少年の瞳は、希望に溢れていました。
 でも、その瞳は、時間が経過するにつれて、深い心配の色で染められていきました。
 どれだけ待っても、オオノスリの空風はただ谷の上空を舞うだけで、人の影を認めたとの合図を送ってこないのです。
 しびれを切らした苑が、何度も指笛で指示を送り、探す場所をこまめに変えてみたりもしたのですが、空風が合図を送ってこないのには変わりはありませんでした。
 朝一番では明るい希望に溢れていた苑の顔には、今では不安と苦しみが深い皺を刻んでいました。


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