見出し画像

月の砂漠のかぐや姫 第150話

 不意に苑の肩に手が置かれました。びくんっと苑の体が震えました。
 そして、それと同時に、冒頓の落ち着いた声が聞こえてきました。それは、苑が空風に指示を送りながらずっと、いつ来るかいつ来るかと、恐れ続けていたものでした。
「小苑、今はここまでだ。そろそろ行くぜ」
 その声は、苑に対して羽磋たちを探すのをやめるようにと告げるものでした。


 交易隊の男たちも羽磋たちがどうなったかが気にかかっていましたから、駱駝や馬の世話などの朝の仕事を済ませると、広場の谷に面した縁の方へやってきて、苑の動作を注意深く見守っていました。始めは、苑の希望に溢れた表情につられてか、「いずれ、苑が喜びの大声を上げるだろう」と楽観的に考えていた男たちでしたが、だんだんと苑の表情が暗くなるに連れて、彼らも「やはりだめだったのか」と気持ちが落ち込んでいくのでした。
 また、そのような厳しい状況の中でも必死になって空風に指示を送り谷底を探し続ける苑のことが、とても痛々しく感じられるようになっていました。そのため、苑の周囲に集まった男たちの中には、苑に対して「もう、あきらめよう」と声をかけられる男は一人もおりませんでした。
 とは言え、いつまでもこの場に留まって、羽磋たちを探し続けるわけにはいかないのでした。
 冒頓が昨晩に決定した通り、騎馬隊だけでヤルダンに乗り込んで母を待つ少女の奇岩を破壊する、それを太陽の出ているうちにやり遂げようというのであれば、早々にここを立つ必要があるのです。
 そこで、苑を取り囲んだ男たちの集まりの中から進み出て、彼の肩に手を置いてこの捜索活動の終了を告げたのは、やはり、冒頓だったのでした。
 今の状況がどのようなものかは、苑の方でも理解していました。だからこそ、彼は自分に声が掛けられることを、恐れていたのです。
 でも、その恐れていた声を、他の誰からでもなく、この隊を率いている冒頓その人から掛けられてしまいました。冒頓から、はっきりと「今はここまでだ」と言われた以上、それに逆らって捜索を続けることなどできません。いや、もしも、自分はここに残って羽磋たちを探し続けると願えば、あるいは冒頓はそれを許してくれるかもしれませんが、それは考えられません。苑は、自分の居所は冒頓の隊の先頭にあるのだと考えていたのですから。
 苑は未成人ですが、その乗馬の技術を見込まれて貴重な馬を与えられ、隊の先頭での哨戒の任を与えられていました。そして、そのことを苑自身もとても誇りに思っていました。
 命令が下されることを恐れていたとしても、それが下された以上、気持ちを切り替えてそれに従うしかないのです。そして、それは自分が望んでいることでもあるのです。
 ああ、でも、それでも。
 苑は自分の中に「ここに留まって羽磋たちを探したい」と願うもう一人の自分がいることを、はっきりと感じていました。
 もちろん、そのようなことは、これまでにはなかったことでした。
 冒頓と共に戦うこと以外に、自分が望むことなどなかったはずなのに。どうしてだろう。
 心の中に幾つもの思いがぐるぐると渦巻いていて、苑は、一体どれが自分の本当の想いか、まったくわからなくなっていました。
 苑の迷いは、冒頓に対しての質問となって現れました。それは、一見いつもの苑が発する何気ない一言のようではありましたが、実のところは苑の心の中で起こっている感情の複雑な絡み合いが、そのまま形となって苑の口から外に出たものでした。
「了解しましたっす。冒頓殿。すぐに空風を呼び寄せて、出発の用意をするっす。ところで・・・・・・、羽磋殿の馬はどうしましょう?」
 冒頓は、自分に返答をしたかと思うとくるりと背を向けて、朝の空に向かって指笛を鳴らしている苑をぎろりと睨みつけました。最初は、この少年が自分を試しているのかと思ったのです。ですが、少年の様子からはそのような意図は全く読み取れませんでした。おそらくは、言葉の通り、乗り手のいない羽磋の馬をどうするかについて、冒頓の指示を求めただけなのでしょう。
 冒頓は、苑に呼ばれて谷の上の空からこちらへ戻ってくる空風を見ながら、大きく息を吸いました。
「冒頓殿、貴方は羽磋殿が死んだと思いますか」
 苑の言葉がそのように聞こえたのは、自分の心に大きな迷いがあるからだったのでしょうか。
 ゴビの砂漠では馬は非常に貴重な家畜でしたから、この冒頓の護衛隊でも、馬に乗る者は二十人に満たないぐらいでした。これから、ヤルダンの中に騎馬隊だけで乗り込んで行って、母を待つ少女の奇岩を破壊しようというのですから、護衛隊の誰かが羽磋の馬に乗って参加すれば、大きな戦力の向上になります。
 一方で、馬は乗り手の相棒というべき存在であり、他の人が乗ると別の癖が付くということもあって、他人の愛馬には乗らないというのが、月の民や匈奴などの騎馬民族の間で共通する礼儀なのでした。
 ですから、仮に冒頓が護衛隊の誰かを羽磋の愛馬に乗せてヤルダンへの討伐に参加させることを指示したとしたら、それは冒頓がその馬はもう羽磋の愛馬ではない、つまり、羽磋は死んだと考えているということになるのでした。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?