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月の砂漠のかぐや姫 第170話


 ザザワッ・・・・・・。
 早朝の冷たい風が、冒頓の肌を冷やし、足元の青々とした草を揺らしました。
 冒頓は遠くの方で行われている戦いの様子を見極めようと、じっと目を凝らしていました。
 え、朝? それに、足元の草?
 冒頓たちはいま、夕刻が迫ったヤルダンの赤土の上にいるのではなかったでしょうか。
 もちろん、実際に冒頓の体が、急にどこかに行ってしまったわけではありません。肌をなでる早朝の風も足元で揺れる草も、冒頓がそのように感じているというだけです。おそらくは、あの地面から噴き出した青く光る飛沫を全身に浴びたからでしょう。弁富や苑たちと同じように、冒頓の意識も現実の世界から飛び出て、別の世界の中に入り込んでしまっているのでした。
 冒頓が入り込んでいるのは遠い昔の記憶の中でしたが、それは彼の人生を決定的に変えた、ある一日についての記憶でした。
 記憶の中の世界で冒頓が立っているのは、柔らかな下草が生え茂っている草原の上でした。そして、草原を見渡している彼自身の視点は、とても低いところにありました。これは、冒頓が座っているからではありませんでした。彼の体自体が小さいためでした。
 この記憶は、彼がおおよそ五歳の頃のものでした。この頃、彼ら匈奴は、彼の父親である頭曼(トウマン)単于(王)の元で、急速に勢力を拡大していました。そのため、他の遊牧民族と遊牧地をかけて争いになることも数多くありました。そして、この日は冒頓の足元に広がっている草原の帰属を掛けて、月の民との戦に臨むところでした。
 匈奴を含む遊牧民族は、家族と家畜を伴って各遊牧地を巡り、長距離の移動をしながら生活する民族です。月の民の五大部族の様に根拠地となる村を持つ民族は別として、それは戦いの場合にも同様でした。実際の戦闘そのものには加わらないにしても、戦地の後方には家畜や家財道具を取りまとめた女子供の集団がいるのが常でした。
 まだ少年であった冒頓は、父と共に戦場に立つことはできなかったのですが、自分たち匈奴の命運をかけた大きな戦いの趨勢が気になって仕方がありませんでした。そのため、この女子供を集めた集団から従者と共に抜け出して少し離れた丘に上ると、戦場となっている烏達(ウダ)渓谷の方を、鋭い目で見つめていたのでした。
「見てください、冒(ボウ)殿。我らが匈奴が押しているように見えますよっ」
「まだ、わからん。月の民の軍勢が後退しているのは確かだが、崩れたって感じがしないしな」
「そうですかね。圧倒しているように思いますが・・・・・・」
 厳しい表情を崩さない少年冒頓の横で、「やれやれ、自分の意見を変えないお方だ。だから、むやみに突き進むという意味で、冒(ボウ)と呼ばれるんだ。我が匈奴が、月の民の騎馬隊をあんなに押し込んでいるのに、まだわからないなんて」と、口をとがらせている従者は、年若い頃の弁富でした。
 弁富が考えているように、烏達(ウダ)渓谷の入口に広がる草原で始まった匈奴と月の民の会戦は、匈奴が優勢のように見えました。風上に立った匈奴の軍勢から放たれた矢は悠々と月の民の軍勢のところまで達しているのに対して、風下の月の民からの矢は匈奴の軍勢に届く前に力を失ってしまっていました。遊牧民族の戦いでは弓矢が主な武器でしたから、この違いは非常に大きなものなのでした。
 指先が白くなるほど力を入れてこぶしを握りめながら少年冒頓たちが戦況を見つめる中で、この状況を不利と見たのか、月の民の軍勢は烏達(ウダ)渓谷の中へと逃げ込んでいきました。そして、匈奴の軍勢も、それを追いかけて渓谷の中へと突入していきました。
「見てください、冒殿っ。月の民の奴らを、逃げ場のない渓谷の中へ追い込みました。我らの大勝利ですっ」
「ああ、そうだなっ。どうやら、勝てそうだっ」
 少年冒頓と弁富が顔を見合わせて笑い安堵の息を漏らした、その時のことでした。
 急に、匈奴の軍勢と月の民の軍勢が上げていた旗印のたなびく向きが変わったのです。それまでは匈奴の軍勢の側から月の民の軍勢の側へとたなびいていたのでしたが、月の民の軍勢の側から匈奴の軍勢の側へとたなびくように変わりました。それは、烏達(ウダ)渓谷を通り抜ける風の向きが、一瞬にして変わったことを示していました。
「ああ、なんだとっ」
 少年冒頓は、自分の目を疑いました。
 逃げる月の民の軍勢を追いかけて烏達(ウダ)渓谷へ突入していった匈奴の軍勢が、次々と倒れていっているではありませんか。
 全ては、月の民の軍勢を率いていた御門の思惑によるものでした。わざと不利な風下で戦いを挑み、逃げると見せかけて匈奴軍を烏達(ウダ)渓谷の中に誘い込むと、当時の月の巫女である弱竹(ナヨタケ)姫の力により風向きを反転させて、一斉に反撃の矢を放ったのでした。
「そんな、そんな・・・・・・。父上ぇっ」
 遠く離れた丘の上に立つ少年冒頓の瞳に、父である頭曼(トウマン)単于(王)率いる軍勢の上に、空にかかる雲そのものが落ちてきたような恐ろしい密度で、これまでは届くことがなかった月の民の軍勢の矢が降り注ぐ様子が、焼き付けられました。
 その日、匈奴の軍勢は月の民の軍勢の前に大敗北を喫しました。この「烏達(ウダ)渓谷の戦い」と呼ばれる戦いを境に匈奴は勢いを失い、月の民の前に膝を屈することとなるのでした。




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