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月の砂漠のかぐや姫 第172話

 奇岩たちは、既に大地の裂け目を回り込み、冒頓たちの正面からまっすぐに迫ってきていました。
 サバクオオカミの奇岩の四肢が大地を蹴る力強い音が、どんどんと大きくなってきました。
 大型のサバクオオカミの背に乗りながらこちらの方に顔を向けている母を待つ少女の奇岩の姿が、しっかりと見分けられるようになりました。
 人間のような眼を彼女が持つはずがないのに、母を待つ少女の奇岩が恨みのこもった眼で自分たちをにらみつけていることを、男たちは肌で感じ取りました。「視線であいつらを焼き尽くすことができるなら、焼き尽くしてやりたい」という彼女の思いまでもがヒリヒリと伝わってくるほどに、その視線は鋭く熱いものでした。
 騎馬隊の男たちは、これまでに敵からこれほどまでの激しい感情をぶつけられたことはありませんでした。体こそ砂岩で出来ているのかもしれませんが、母を待つ少女の奇岩はまぎれもなく心を持つものであり、激しい怒りを燃え滾らせて向かってくる敵でありました。騎馬隊の中でそれを疑う者は、一人もおりませんでした。
 母を待つ少女の奇岩だけではありません。青い光を帯びたサバクオオカミの奇岩たちからも、ヤルダンに入る前に戦った時に比べて、自分たちを喰らいつくそうという意志が、しっかりと伝わってきました。
 あのゴビの裂け目から噴き出した青く輝く飛沫がどこから力を得ているのかはわかりませんが、飛沫はそれを浴びた者の思い出したくない記憶を呼び覚ます効力を持っていました。そして、それは騎馬隊の男たちに対しては辛く悲しい思いをさせて行動を制限する一方で、母を待つ少女やサバクオオカミの奇岩に対しては、人間に対する怒りを掻き立てて、行動を強化する結果となっているようでした。
 これまでの激しい大地の震動や突然の飛沫の噴出でひどく怯えていたところに加えて、近距離で銅鑼が力いっぱい鳴らされたことで、騎馬隊の馬は激しい興奮状態に陥っていました。いくら冒頓の騎馬隊の男たちが乗馬技術に優れているとはいっても、激しく跳ね回ったり棹立ちになったりしている馬に乗ることはできません。かといって、馬に優しく声をかけてその心を落ち着かせる時間など、もう残されてはいないのでした。
 目の前には母を待つ少女の奇岩が率いる敵が迫ってきていました。今武器を取らねば、応戦することすらできなくなってしまいます。それに、冒頓は忘れてはいませんでした。自分たちが盆地の外周部分で戦っていたサバクオオカミの奇岩の集団のことをです。一時は馬を全力で走らせて置き去りにしてきたものの、それはすぐに追いついてくるはずでした。そうなれば、自分たちは前後から挟み撃ちにされてしまいます。数で劣る自分たちが一度に両方の敵に対処することなどできるはずがありません。この状況を抜け出すために考えられる方法とはただ一つしかありません。それは、敵の大将である母を待つ少女の奇岩を倒して、それによってサバクオオカミの奇岩の動きを止めることでした。
 冒頓は決断を下しました。
「間に合わねぇ、馬はあきらめろっ。弓を持ってる奴は矢を放てっ。剣を持ってる奴は前へ進めっ。止まるなよ、後ろからも来るぜ!」
 シュンッ、サシュンッツ。
 弓を手にしていた男たちから、幾本かの矢が放たれました。もはや敵は近くまで来ていますから、それは直線に近い穏やかな弧を描きながら、鋭い音を立てつつ奇岩の群れへ飛んでいきました。
 ある矢は、群れの前方を走るサバクオオカミの奇岩の肩口に命中しました。しかし、その走る勢いに負けたのでしょうか、それとも、飛沫を浴びて青く輝く奇岩の肌が強度を増していたのでしょうか。その矢はサバクオオカミの奇岩の肩から弾き飛ばされてしまいました。激しく動くその砂岩で出来た肌には、ほんのわずかな傷跡しか残っていませんでした。
 また、別の矢は、サバクオオカミの奇岩を率いる母を待つ少女の奇岩めがけて、空気を切り裂いて進んでいきました。
 でも、こちらの矢も、目的を遂げることはできませんでした。母を待つ少女の奇岩が、右手をさっと一振りすると、真っ二つにされた矢が、赤く染まり始めた空に向かって飛んで行ってしまいました。
 もともと数少ない矢ではありましたが、それらは奇岩たちの勢いを弱めるためには、全く役に立ちませんでした。
「全員、剣を抜いて俺に続け! 離れるなよっ! ウオオオオッ!」
 矢での攻撃で時間が稼げるとは、冒頓も端から期待はしていませんでした。矢による攻撃の効果を確認するよりも早く、彼は隊員に対して自分の後ろを一塊になって追いてくるように指示をすると、迫ってくる奇岩の群れに向かって走り出しました。
 母を待つ少女の奇岩が率いる群れは、騎馬隊が盆地の外辺で戦った群れほど数は多くないものの、こちらに向かってまっすぐに勢いよく走ってきているのでした。数こそは少ないものの、どうやら彼らは、青く輝く飛沫によって力を増しているようでした。全てのものを呑み込みながら冬山の斜面を駆け降りる雪崩が発するような恐ろしい圧力が、その群れからは発せられていました。奇岩の群れに立ち向かう冒頓たちは、腹の底から雄たけびを上げて自らを奮え立たせないと、その圧力に押しつぶされてしまいそうでした。




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