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月の砂漠のかぐや姫 第169話

「ごめん、緑才(リョクサイ)。ごめんよ・・・・・・。でも、君を連れて行くわけにはいかないんだ。愛している。だけど、僕のことは忘れてくれ・・・・・・。許して、許してくれっ・・・・・・」
「何言ってんだ、弁富。俺だ、冒頓だっ。しっかりしろよっ」
 冒頓はしっかりと弁富の肩を抱き、その耳元で大きな声を出して呼びかけたのですが、弁富は自分の肩を冒頓が抱いたことにも全く気が付かないようでした。彼は下を向いたままで故郷に残してきた恋人に詫び続けていました。彼の両目からは涙がこぼれ落ちて、ゴビの大地に点々と黒い染みをつけていました。彼の耳には、両手でしっかりとふさいでいるにもかかわらず、彼を責める恋人の声が聞こえ続けているのでした。
「駄目だっ。こいつには俺の声がまったく届いてねぇな。だが、どうやら弁富だけじゃねぇようだ。他の奴らの中にも、こいつと同じような顔をしている奴がたくさんいやがる。そうだ、苑、小苑はっ」
 冒頓は、体はこちらの世界にあるものの心は夢の世界にあるかのような弁富に自分の声を届かせるのをあきらめて、周りに注意を向けました。すると、騎馬隊の中に、弁富の様に自分の世界に入り込んでしまった男もいれば、何とか心を落ち着かせて正気を保っている男もいるのが、すぐに見て取れました。
 冒頓は、隊の最後尾を走っていたはずの苑の様子がとても気になりました。でも、騎馬隊の男たちが自分の馬の方までとても気を回せていないので、多くの馬は大地の激しい揺れで非常に興奮したままでした。隊の中を通り抜けて後方へ行くには、敏感になっている馬の警戒心を刺激して蹄の一撃を食らうことなどがないようにと、慎重にゆっくりと動かねばなりませんでした。
「俺の後ろでいったい何があったんだ。小苑はどうしてやがる」
 冒頓は一気に走りだしたい気持ちを必死に抑えて、間違っても馬の後ろを通らないように左右に気を配りながら、最後尾に向って騎馬隊の中を進みました
 いつもであれば、冒頓が隊の後方へ走れば、その姿を認めた苑が大きな声で「冒頓殿っ」と呼びかけながら、走り寄ってきます。それは、隊の後方の状況の報告のためでもありますし、冒頓を崇拝する苑の気持ちの表れでもあります。冒頓は、苑のその真っすぐな気持ちの表れと、きびきびとした態度を、いつも好ましく思っていました。
 しかし、この時は、苑の元気な声は、後方に向かう途中の冒頓の元には聞こえてきませんでした。冒頓が最後尾までやってきて、ようやく聞くことができたのは、苑の掠れた声でした。
 弁富は故郷に残した恋人の声に責められていましたが、苑が苦しんでいたのは、羽磋と王柔、それに、理亜が、交易路から谷底へ落下する光景によってでした。それは、苑にとってもっとも辛い出来事で、もっとも考えたくない出来事であったのにもかかわらず、もはや彼の瞳にはその光景しか映らなくなっていたのでした
 それも一度きりではないのです。後続の駱駝の暴走によって交易路から落下する羽磋たちが崖下の暗闇に呑み込まれていく一部始終を、苑が悲鳴を上げ涙を流しながら目で追い続けた後、体からすべての力が抜けてしまった状態でふと無意識のうちに脇に視線をやると、なんと、落下したはずの羽磋たちが交易路の上に立っているのが、再び目に入るのです。
 苑は疲れを忘れて身体を跳ね起こすと必死に大声をあげて、後ろから迫っている危険を羽磋たちに教えようとするのですが、その苑の目の前で、また羽磋たちは駱駝の奔流に巻き込まれて交易路から崖下へと落下していくのでした。喉から血を流しながら、掠れた声で悲鳴を上げ続ける苑。そして、彼が息を切らしながらふと横に目をやると、また、交易路に立つ羽磋たちの姿が見えるのでした。
「おい、おいっ。小苑っ。くそっ、小苑も弁富と同じだ。こんな時に夢でも見ているのか、それも、とびきりの悪夢をっ」
 冒頓は苑の両頬を手で挟んで、その目を覗き込みました。でも、苑の目は冒頓を見るのではなく、彼の後ろにある何かを見ているかのようで、自分の目の前にいる冒頓には全く何の反応も示さないのでした。
「なんだ、いったい、どうしちまったんだ。確かに大きな揺れだったが、それだけでこいつらがここまでおかしくなっちまうはずはないし・・・・・・」
 冒頓は、苑の前でひどく困惑していました。実は、隊の先頭を走っていた冒頓は、あの大きな揺れがあった後に大地から噴き出して隊員の上に降りかかった、不思議な青い光の飛沫を見ていなかったのでした。そのため、これまで幾つもの危険な状況を自分と共に切り抜けてきた部下たちが、このような意識もうろうの状態に陥っている原因が思い当たらずに、とても戸惑っていたのでした。
 それでも、先ほどの大きな揺れからいくらか時間が経ったためでしょうか、自分を見失っていた男たちの中にも頭を振って意識をはっきりとさせようとする男が何人かでてきました。大勢の男が頭を抱えて叫んでいた一時の大混乱の状態は、ある程度は治まってきたように見えました。でも、苑の様にこの場に無いものを見て心を乱している男も、未だに残っているようでした。
「おまえら、大丈夫か・・・・・・。おおおっ」
 まだ足元がおぼつかない様子でいる部下たちを元気づけようと、冒頓が隊の中程へ歩み寄った、その時のことでした。
 グラッ。ガガガンッ。
 シュウウワアアッ!
 再び、大きな揺れが彼らを襲いました。そして、それと同時に、隊の横で口を開いている裂け目から、青く光る飛沫が勢いよく吹き上げられました。その飛沫は高々とした空中でキラキラと陽の光を反射して輝いたかと思うと、今度は向きを変えて騎馬隊の男たちの上へ落ちてきました。もちろん、それは、騎馬隊の中頃で隊員たちに声をかけて回っていた冒頓の上にも、降り注いだのでした。



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