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死生観

前書き

昨日、友人と夜カフェに行ってきました。
みんな人生(やりたいこと、仕事、働き方、生き方、恋愛)の様々なことに一人で思い悩んでいるのだなと思いました。

仕事熱心でプライベートを全部犠牲にしてでも苦じゃない!俺は燃えている!みたいな感じで4年間突き進んできた人が「やっぱり今の仕事やめて飲食店やりたいわ」と言っていました。人の考えって半年で大きく変わるものですね。やりたいことを見つけたからでしょうか。まるで別人でした。

話を聞いて、「え、じゃあ今やればいいじゃん。」と私は反射的に思ってしまうのですが、その人はあと3年ほど勤務して貯金を十分に貯めて、30歳頃にお店の開店のために動き出すとのこと。

人の人生なので、私は関与しませんが、明日死ぬかもしれないのに長期的に考えるのかぁと思うのでした。


ここからは書きたいものを書きたいように書きます。

※死生観について綴りますが、一人一人に個別の死生観があり、これはあくまで"私の死生観"なのを留意ください。

希死念慮がある私には数年後、数十年後先の未来やプランは考えられません。
それでも直近の未来(約1〜2年後)に「もしこうなったらどうしよう」という不安は抱くのですが、これは短期的に発生する「可能性が高い事象」に限定された不安なのであって、2年後以降の展望なんぞ真剣に考えられないのです。

考えようとしても思考が勝手にピタッと止まります。文章を書くのは億劫じゃないですし、勝手に言葉が溢れてくるタイプなのですが、「数年後・数十年後の将来の自分を考えてみましょう!」と言われると一向に手が動かないのです。
そして、その理由は未だ特定できていません。

周りは「新NISAだ、投資だ、婚活だ、子どもだ、転職だ、親の介護のためにUターンだ」と遠い未来を見て話を進めていきます。私は置いてけぼりですが、冷めた目でそれでいいのだと割り切ってその様子を見つめています。

私は30歳までに死ぬかもしれません。もし何かきっかけが生じれば1ヶ月以内に死ぬこともあるかもしれません。希死念慮があるということはまるで綱渡りをずっとしているかのような精神状態で生きるということです。

新入社員のとき、研修の一環でオリエンテーションがありました。
そこで人事から『自分の人生のグラフを書け』というお題が出ました。
ここで馬鹿正直に書いて説明するとドン引き・沈黙必須の絵が浮かんだので、グラフはゆるやか〜に調整し、楽しかったことを中心に話したのを覚えています。

ですが、そのグラフには目盛がありまして、私は40歳で線を止めたのですが、周囲の同期は平均80歳以上(長い人は100歳まで)線を伸ばしていました。

そして、「なんで40なの?」と質問され、「え、40くらいで死ぬと思うから」と即座に答えてしまい、ドン引き・沈黙が流れてしまいました。
そこでやっと「あ、やらかした」と気づきました。高齢化社会の現代日本で40そこらで死ぬと思って生きている若者ってかなりの少数派に違いありません。

でも自分なりに伸ばして伸ばして長く見積もった上での40だったんです。
希死念慮のある人の死生観はそんなものではないでしょうか。

自死について

自死の根底にあるものは言うまでもなく絶望であり、自己否定です。
失意、困窮、病気、罪悪感など様々な動機があったとしても、「自死とは自死できるという人間の能力への信頼(信仰)であり、絶望や自己否定と同時にいつでも自死できる能力を持つ自己を大胆に肯定もしている」のです。

もし生きることが耐え難い苦しみに置かれているならば、そこから脱却できる道は自死のみですよね。それは一つの希望です。いつでも自死できるという希望だけは人は最後まで保持できます。
だからこそ絶望に落ちた時、自死を一筋の光のように感じるのです。

しかし、問題が一つ。
自死しなければならないと思ったその自己判断が正当なものであるのか。
人間に己が自死すべきかどうか判断できる能力が果たして備わっているのだろうか。それは大いなる疑問です。

我々人類は自死を行える極めて稀な動物であり、これまでの歴史において数多くの人が自死を実行しました。
ただし、その判断は自己ならざるものから促されていた可能性も否定できません。

精神疾患もその理由の一つでしょう。

だからこそ、私はまだ生きようと思うのです。
自分の判断が正確だと確信できるその日まで、もしくは「真の完全絶望」に陥るその日まで。

これが私の死生観です。

終わり。





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