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古の人がまとった古代布、太布(たふ)①

藍染めに興味を持つまでは、昔の人がどんな布を着ていて、どんなものを使って服に色をつけているのかなんて考えたことがなかった。

今、私が当たり前のように来ているコットン(綿)の生地が日本で広まったのは、今から約300年前の江戸時代で、それ以前は麻や楮(こうぞ)から採れた太布(たふ)が一般的だったとか。

麻の生地は、夏場に今でも着ることがあるし、知っているけれど、太布は全く知らない。聞いたこともない。太い布と書いて、「たふ」と読む響きもなんだか不思議な感覚がする。麻のようにシャリ感のある生地なのか、綿に近いものなのかも全くイメージすることができず、ただ頭に「?」だけが思い浮かぶ。そんな太布はかつては日本全国で織られていたらしいが、現在では全国で唯一、徳島県木頭地区にだけ残されている。

それを知ってから、いつか木頭に太布を見にいきたいと思っていた。けれど、四国のマチュピチュと呼ばれ、徳島県民でさえも行くのを躊躇してしまうような秘境である木頭地区に行くのは、車はおろか免許さえも持っていない私にとって夢のまた夢の話だった。

いつか行けたら良いなと思っていたけれど、その機会は意外と早くに訪れた。藍染め講習のスケジュールに、木頭での太布見学が奇跡的に組み込まれていたのである。徳島市内から車に揺られて3時間ほど。左側に雄大な川、右手は山肌に挟まれた一本道を延々に道なりに進んでいくと、集落が現れる。えんじ色の瓦屋根の平屋の建物の入り口には、大きい文字で「太布庵」と書かれていた。

どことなく沖縄の家のような趣のある工房

出迎えてくれたのは私と同世代くらいの若い女性、三嶋さん。てっきり地元のおばあちゃんたちがいるかと思っていたので驚いた。去年の7月から地域おこし協力隊として関東から木頭に移住していたのだとか。大学卒業後は海外で織物を学んだのち、日本の自然布を織りたいと思い帰国。

沖縄の芭蕉布やシナ布、葛布など様々な自然布のうち、どれを学ぼう?と考えていた時に、太布が一番継ぐ人がいなそうで放っておいたら無くなってしまいそうと感じ、太布に決めたのだそう。また、太布は他の生地に比べ情報量が少なく、「どんな布だろう」と興味を持ったことも理由の1つだったとか。

太布は、楮の木から作られる靭皮繊維。原始的織物で、一説によると一番古い繊維と言われているとか。かつては、つの袋や作物を入れる袋、畳のへり、徳島では名産の和三盆を漉す布などに使われていたそう。楮は和紙の原料として知られるが、木頭では別の品種である赤かじが太布の原材料として使われているとか。

楮は日本に自生する植物だったため、日本全国で織られていた生地だったものの、400年前に入ってきた綿の勢いに押され、今では徳島でしか作られていない希少な布になっている。「どうして木頭に残ったんですか?」と尋ねたところ、「あまりに秘境すぎて綿が入ってくるのが遅れたこと、明治時代には地元の特産物として太布を量産し、綿と交換していたとか。また、斜面で水捌けの良い環境も、楮の生育に適していたなどの理由があるということだった。

「今では、綿が当たり前になってますが、江戸時代に入ってきた綿の歴史は400年。けれど、それ以前の1万4000年は楮などの靭皮繊維が長く衣服として使われてきたので、はるかに歴史が長いですよね」と三嶋さんは言う。

これから細く裂いて糸になる前の楮

太布織は、毎年1月の極寒の時期に、楮の刈り取りが始まる。鎌で刈り取った枝を束ねてこしきの中に入れて2時間ほど蒸すのだそうだ。

中に楮の枝を入れて蒸す

蒸された楮の樹皮を剥いで、灰汁で煮る、木槌で叩き、鬼皮をとる、流水に晒すなどの手間のかかる作業を行う。私が行った時には、すでにそれらの工程が終わり、軒下の竿にかけて乾燥させている段階だった。

ここからさらに、繊維を細くさいていく。その工程も見せてもらった。

頑丈な繊維らしく最後まで綺麗に真っ二つに裂ける

ほそく糸状に裂けたい糸は、糸同士を繋ぐことで長い糸にしていく、それを「糸績み」と呼ぶ。糸と糸同士を指の腹でよって繋げながら「今では糸を績むという言葉が死語になりつつありますが」と三嶋さん。かつては日常の手仕事で使われていた言葉も文化の衰退と共に消えていくのかもしれない。

尊くも見える糸を績む様子


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