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0185 幾度目かの光

幾度目かの最期、という本はずいぶん前に読んだ。
それとは無関係である。

急に昨夜、閃いたので2点ほど記録する。

一つはYouTubeで見た気づきだ。
ここ2,3日、YouTubeで見つけた動画を夜、寝床で見ていることが多い。
一つは、工場勤務の男性の日常。もう一つは、町中華などの料理人が、チャーハンなどの料理を作っているものだ。

昨日も、いつもと同じく見ていたのだけれども、気づいたら泣いていた。
男性の、丁寧で優しい生活っぷり。
料理人の手さばきもさることながら、「お待たせしました!」という笑顔と、シンプルな、でも家では作れなそうな卵焼き。

涙の理由は、私には何にもないなぁといういつもの自虐だったのだが、ないのではなく、大事にせずに、放り出してきただけだったことに気が付いた。

丁寧に暮らすこと。
できたよ!と相手に笑いかけること。

効率的、効果的、合理的、何故かと言えば、成果の早期実現のため…
なのだけれど、気づけば、「早く早く」「もっともっと」が目的になってしまっていて、自分が置いてけぼりだった。

早く、もっと、とイライラして、息しているだけの人間になっていた。
何のために。
世間の目のために。
かくあるべき、と自分で首を締め上げて生きていた。
ほっと一息するときは、寝ている時だけ。酔っぱらってみても、全然素面でいたのは、もうお前だめだよ、アルコールの力を借りたって、限界が突破できるわけではなかった。

二つ目。
このマンガを電子で買い、一気読みした。

私は、この著書のような優しい、誰かの為に、と考えてしまう人間ではない。(どちらかというと、「誰か」というものが「組織」に置き換わり、危ない思考に走り勝ち)
「抑うつ症」の段階で病院に行ったので、まったく動けなくなるという日が少ない。

しかし、だんなさんのセリフ、休み方のこと、今まで通りではなく、新しい人生……どうしてこうなったんだろう……

休んでから一か月半くらいは、浮き沈みが激しくて、責任感で家事をしていた。生活が乱れることはなかったが、唐突に、「もういいかな(生きるの)」と思い始める。
生きている意味は何だ、私は今までどうやって仕事をしてきた、もう退職しなきゃ、でも働かなきゃ、今まで強い人だったのにどうしてだろうなんでだろう、元に戻るのか…前にみたいに…
「真面目だから」「考えすぎ」、だから、「そうしなければいい」と言われたって、そこの部分をなくした私はいったい何者なのか。

こういう思考の渦の中に、「自分」がいないと、本は教えてくれた。
自分の人生、を考えていなかったことを知った。
これまでカウンセリングを受け、通院して、視界クリアだ、と思っていたけれど、肝心要の自分のことを、まだ隠していたのだ。
どおりで、時折気分が落ちるわけである。何かが怖くてたまらない、早く行き先を教えほしいと焦るのだ。
何故、答えをそんなに欲しかったかと言えば、しっかりした嫁さん、早期に復帰した強い人、と思われたいという、別のところに重心を置き、ぐらついている自分を見ていなかったのだ。

それが抑うつのなせる業なのだとしたら、この気づきは2度目の光である。
これでいいのだ、という言葉が、受け止められる気がした。


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