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イスラム教徒のイスラム化—文化人類学的調査のこぼれ話


わたしはイスラムとは長いつきあいだが、改宗はしていない。


正直トルコでの調査時はきつかった。

涙をながしながら「イスラムはすばらしいんだ」「なぜ改宗しない」と叫ぶトルコ人の女の子たちに十重二十重にかこまれたことがあった。
「あんな石ころや木っ端(仏像のことらしい)にまどわされて」と陰口をたたかれながら白い目でみられたこともある。
トルコでは日本人に改宗をすすめるための日本語の冊子まででまわっていて、同じものを何冊もらったかしれない。


正直その冊子の内容にはなにひとつ感銘をうけていない。
海水が二つに分かれている場所があって?それをコーランは知っていたということがどう信じる理由になるのかわからない。


わたしも大した仏教徒ではないのだが、それでもタイで暮らしたことのあるトルコ人女性が「仏教もすばらしいよ」と周りをたしなめてくれたときだけはほっとした。


中国の新疆で調査をしたときに、とても親しくしてくれていたウイグル族の友人がいたのだが、彼女は新疆大学の預科学生(少数民族の学生の身分のひとつで本科に進学するまえの漢語研修中の身分を指す)で、その後上海の大学に進学したのだが、その友人とわたしは、ウルムチで毎夜バザールにくりだし、ウイグル料理に舌鼓を打ち、ウズベキスタンから来たフォークソンググループのコンサートに行き、一緒に家族や友達、服や本、中国や新疆、世界のことを語りあった。

彼女はまったく宗教的なことをしておらず、礼拝も断食もスカーフも長いスカートの着用も何もしていなかった。それは、大学が学生にそういったことを許していなかったからというのもある。
だがこっそり寮で断食をしていた学生などもいたため(みつかると処罰の対象となるので、2人で断食あけの食事の場をつくってあげたりしていた)、彼女はやはり何もしないことを選択していたのだなと思う(彼女は実家からの通学だったため、処罰されるような場所に彼女はいなかったと思うので)。

彼女は上海にうつってからも、あまり変わりがなく、彼氏(ウイグル族)ができて、「彼氏は本当にいい人間かな」などという夜話の相手をわたしはさせられたりしていた。だが、卒業間近になって彼女は突然スカーフをかぶりはじめ、礼拝をし、わたしにも礼拝を教えてやるといってきた(彼氏とは別れていた)。彼女は街にでるとイスラムの食堂があっても「あそこは汚い」「あそこはだめ」と拒否してばかりになり、彼女につき合っている以上わたしだけが食べるわけにもいかず(行動はすべて共にするのが信条)、中国を離れる船の出航時間がきたときも、すきっ腹をかかえたまま甲板から彼女に手をふっていた。食い倒れの中国(?)から帰るのになんで腹をすかせたままなのだとちょっと彼女を恨んだ(上海の小龍包~)。


彼女はその後上海から義烏(浙江省)という、その界隈では有名な、国際的な規模でイスラム教徒が集まって商売をしている街に行き、ソマリ人の貿易を手伝うという謎めいた仕事をしていた。わたしがたずねたときにはホテルの部屋に異国の女性といっしょに住んでおり、暑いのに布で全身を覆った姿になっていた。

彼女が公務員や会社員になっていなかったのには驚いた。なぜそういう方向に彼女がいけなかったのかはわからない(本人の志望を含め)。

政府は彼女のような少数民族の子供が、漢民族の文化に感化され、その文化のためにはたらく人材になってくれることを願って上海の大学への道を開いていたのだと思うのだが、大失敗である。


その後わたしと彼女とはそれぞれ別の経路でトルコにわたり、わたしは調査として、境遇も滞土(トルコのト)年数もさまざまのウイグル女性たちとイスラムについて話しあうことになるのだが、そのほとんどが、大学を出るころになって急にスカーフ着用や礼拝をはじめたことを知った。
彼女の変貌をつぶさにみていてよかったと思った。

なんとなくだが、彼女がかわったのは、学生生活が終わりに近づき、外で金を稼ぐということがその生活に加わったためだったのではないかと考えている。彼女がそれを考えはじめたときに、彼女は漢民族社会を拒絶し(あるいは漢民族社会が彼女を拒絶し)、自民族、そしてイスラム世界の広がりをえらんだ。そしてそこではイスラムの倫理があれば自分を守れる、と思ったのではないか、と思う。大人同士で金をはさんでやりあうときには何かよりどころとなる共通の何かをあいだに挟むのではないかと思う(日本の場合は法律とか)。彼女にとってはそれがイスラムだったんじゃないかな、と思うのである。

そうした彼女らの成年にたっしてからの宗教化をわたしは「イスラム教徒のイスラム化」と呼んでいる。

イスラム教徒はイスラム教徒の両親のもとに生まれれば「自然に」イスラム教徒としての所作を身につける、といったことをまことしやかに唱える研究者もいるが、わたしはそうは思わない(彼女をみてきたから)。どうも私の前にいる人びとは、彼女を含め大人になると選択の自由をあたえられ、その選択によってなんらかの自発的な変化をおこしている(それまでスカーフをしていたのに「しない」選択にいたる場合もある。のちに調査をする中東でもそうだった。東南アジアのことは知らない。できれば同列に論じないでほしい)。その引き金になっているのは、イスラムが本来そうした「所作」にではなく、生きるということを自分と神との対話、すなわち自分対世界というフェーズでとらえるという、大人でなければとらえることが難しい地点にあり、また同時にかれらの生活にそれが基盤としてうめこまれている部分もあるからだとわたしは考えているが、そのあたりを語るには、もう少しテキストが必要だと思っている。

優しい漢民族の女子学生たちとの寮でのにぎやかな暮らし、美しい夜景のひろがる上海での生活、そんなものにぬりかえられない、彼女をイスラムに引き戻した要因を、わたしはきちんと言葉にしてくることができただろうかと考えている。


日本や新疆で、日本人がスカーフや断食や礼拝といったイスラームの所作をちゃかすのをみたことがある。
日本人でイスラム教徒になって、「私は正しい!」「戒律を実行しているわたしは天国に行けるんだ!」とまくしたてるひとにもあったことがある。

わたしはそのどちらにも属しない。イスラムを荒唐無稽な「シューキョー」だとも思っていない。

わたしがイスラムに改宗しなかったのは、日本がひとをカテゴリーで見る社会で、イスラム教徒になった日本人の教授に「先生はやっぱり豚は召し上がらないのですか」などと質問している研究者がいたのをみていたからというのもある(うざい)。いずれにしても、イスラムが日本人にとっても絶対よいものである、という確信ももっていない。

信じてはいないが、愚かだとはまったく思っていないという文化人類学者としての立場でイスラムを語ることはできないか。

などと考えており候。


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