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アモールとプシュケー〈1〉春の宵

【あらすじ】

古代ギリシャ。愛の神アモールと王女プシュケーは深く愛し合うようになる。けれど、神と死すべき人間とでは共に生きることは叶わない。あまりに儚い愛に取り乱したアモールは神威しんいの制御を失い、プシュケーを落命させかける。

プシュケーは自ら冥府へ下り、アモールに負わせた不慮の火傷やけどを治す薬を、女王ペルセフォネーの厚情により手にする。

再会を果たし、想いを確かめ合いながら、苦しむ二人。

そんな中、ゼフュロスの助力により、プシュケーを不死の女神とする道が開ける。また冥府でも、ペルセフォネーが冥王ハデスを取りなす。

プシュケーは晴れて天上の神々に迎え入れられ、二人は永久とわに互いを愛し抜くことを慎ましやかに誓い合うのだった。




第1章 春の宵





 その暗闇は春のようにやわらかく、夜露のようにつやめいていた。
 青い宝石が胸の奥で小さくはぜる感覚に、身を震わせる。
 かぐわしい手が肌をすべり降りていく、たおやかな香りに、息が止まりそうになる。
 プシュケーは、夢の波間を漂いながら、溺れまいとしてそのひとの腕にすがり、ようやくささやいた。
「あなたはだれ──なんとお呼びすればいいの…?」
 やわらかな声が答えた。
「私は……そう、アモールと。あなたを愛しているというそれだけの者として」
「アモール…」
 自分の唇が動くのが、遙か遠いことのようだった。
 身体が何もかも知らせてしまいそうで、せめて顔だけでも隠したかったけれど──魅了されたけもののように、腕を持ち上げることも忘れ、静かな波に揺られていた。

 どこか遠くで幾つもの色彩が重なり合い、やがて今宵もまた、彼女は白い地平にいた。それは以前からごくたまに見る夢だったけれど、ここに来てからは目醒めている間にもふと彼女をらっするようになっていた。
 純白の光がやわらかくまた鋭く照りつける神殿で、祭壇に立つ白く美しい死の天使の腕に抱き取られていく自分自身の姿を、ふと見失う。誰もいない無垢の中、羽ばたきの音がかすかに聞こえた──。


「灯りを…ともしていただけませんの?」
 横たわったまま暗闇を見上げたプシュケーは、頬に乱れた髪を整え、どこか憂わしげな息をついて言った。
 そのひとが、少し寂しげに微笑むのがわかった。
「私が何者か、悟られたくはないのだ──たとえあなたにであっても」
「…きっと、春の精かなにか……かしら」
「そう……そのようなものかもしれない」
 馥郁ふくいくたる香りが、ふと穏やかに耳朶じだにそよぎ、明けの光のようにやわらかく身の裡を染めていく。ごく細く編まれた銀鎖ぎんさの光に囚われた蝶さながらに、プシュケーは束の間、安らいで身じろぎもせず横たわっていた。
 控えめな優しさで、ふわりと抱きしめられる。自然に、ほほえみがこぼれた。
 そのひともほほえむのがわかった。
 春の優しい息吹に包まれるひととき──それで、充分なのかもしれない。

 西風の神ゼフュロスに連れられて、この宮殿に来てから、七日ほどが過ぎていた。
 白亜の高い天井のもと、美しい調度品に囲まれ、薫風と雅な楽の音に満たされた、何不自由ない暮らし。
 時折聞こえてくる声の主が、夜になると、暗闇のなか彼女を抱きにやってくる。

 なめらかな肌とやさしい声で、彼女の心までも魅了し、うっとりとしたつややかさを肌に残して帰っていくのだった。優しく甘く、どこか慎ましいその手に触れられると、七絃しちげんの竪琴の響きのように豊かな余韻が、刹那を永遠へと沁みこませていく。

 毎夜、自分に何が起きているのか、ここはどこなのかを問いただそうと思うのだが、蜜のような夜の忘却の作用で、優しく脈打つ闇に絡め取られてしまうのだった。


 けれどあの白い神殿の祭壇にいるひとは誰なのか。
 冷たく澄んで凍りついた美しさをその眼に宿してわたしを抱き取っていく、あの一瞬の深い静寂。
 春の息吹に抱かれながら、彼女は冬を想っていた。
 厳しく、なにもかもを明るみに出し、逃れようもなく暴いてしまう、静かで容赦のない季節──死そのもののような美しさを。


「プシュケー、愛するひと──何を考えているのです? 哀しそうな目をして」
 やさしい声が絹紗のように頬をすべり、ふと迷いはぐれた風さながらに問う。
「あなたは、わたしをご覧になれますのにね…」
 見えないままに瞳を向け、腕を伸ばし、やわらかな髪の感触を確かめながら、プシュケーはつぶやいた。
「あなたの瞳は、何色なの…?」
「プシュケー──いつか……おそらくは」
 アモールは彼女の胸に頬を寄せて言う。
 この真なる暗闇の中でまで、顔を隠そうとなさるのね──。
 プシュケーは、そっと吐息を漏らした。
 そしてそのまま、身体じゅうを涼風すずかぜにくすぐられる心地よさのなか、まどろむように、身体の力を抜いた。
 そうやって目を閉ざし胸元で手を重ねていると、棺に眠る永遠の処女のように見えることにも、気づかないまま。

 七日たつうちに、異様な状況にも馴れ始めてはいた。
 なぜかは知れないけれど、愛されている──それは、疑いようもなく伝わってくる。明け方の親密な約束、日中の丁重なるもてなし、夕方の心を込めた歓待、夜伽よとぎのやわらかな声と優しい手のひら。
 甘い抱擁にくるまれて、見えない時間が今宵もまた過ぎていく。
 けれど、自分の身に何が起きているのかわからなくて、時折強い不安に襲われてしまう。
 何者なのか、訊いてはいけないと言われてしまえば、もう問うこともできない。

 いつの日か、わたしは燭台を掲げて、このひとの顔を見るのかもしれない。
 その面差しはきっと、声や肌の香りと同じように、心を溶かすほどに美しく甘く、玲瓏と輝いているのだろう。

 そして、あの死の天使の瞳とまるで違う、眩しいほどの優しさと希求とに見つめられ、きっとわたしは少しずつ死んでいくのだろう──その光に応えようと、深く、深く憧れながら。

 何もかもを透明に、形なく色も影もなくしてしまう、怖ろしいほどに美しい死の天使。
 その足もと以外に、どこにこの世の安息があるというのか──。



⇒〈2〉夕べの恋歌マドリガーレ



[frontispiece]William-Adolphe Bouguereau: Byblis (1884)



以下、ナビゲーション……全10話です。


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