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アモールとプシュケー〈6〉愛のゆくえ




第6章 愛のゆくえ



 暗く険しい小径を上り、地表に出ると、プシュケーはふらふらとその場に座り込んだ。午後の黄金こがねなす日差しが背をあたためるのにも気づかず、川面や葉に照りかえす光を見やりながら茫然としていた。黄金の箱をしっかりと胸に抱きしめて。

 鳥の如き鋭い眼で彼方を見晴るかす愛の神が、いくつかある冥府の門を見回った末に、無造作な布の塊のように倒れ伏した乙女を高い空より認めて舞い降りた。
 息があることを確かめると、思わずかき抱いて妻の顔をうち眺め、安堵の息をついた。汗に乱れた髪をそっと顔から払うと、顔や手足の土埃ににじんだ紅を拭う間も惜しんで白い翼を駆り、宮殿へと連れ帰った。


 それから二日間、プシュケーは夢とうつつをさまよい続けた。
 夢の中で、彼女は何度も、冥府から地上に戻るくらい小径をたどり直していた。そして出口が近づくと、踵を返し、自ら坂を下りていく。
 無数の亡霊が骨も露わに指を突きつけ、彼女だけが日の光さす地上に戻るのかと責め立てていた。
 時折意識が戻ると、目の前にはクピードがいて、気遣わしげに覗きこみ、彼女の手をあたたかな両手で包み込んでいた。小さな水差しを唇にあてがってくれる時もあった。
 そういえば、顔や身体、足の先までも、ひんやりと良い香りのする布で丁寧にぬぐって浄めてくれたようにも思う。ぼんやりと思い起こすそばから、また雲のような眠りに引き込まれていくプシュケーだった。

「生ある者に耐えられるはずのない場所だ…ゼフュロス、いやおそらくは、母上に護られていたとしか思えないな…」
 クピードは、匂菫ニオイスミレのように白く、かき消えそうにひっそりと苦しげに眠り続ける妻を見つめた。


 ようやく、永い眠りから醒めたプシュケーは、良人おっとに支えられながら身を起こした。
 部屋の中は、壁からの灯りで、ほの明るく照らされていた。窓の垂れ絹は開けられていたが、下弦の月はまだ昇ってはおらず、星々だけが隠れるように瞬いていた。
 プシュケーは、物思わしげに黙り込んでいる有翼の神の、気品に満ちた面差しを見つめた。左右の半面が、それぞれ光と影に彩られている。頬の火傷は、ちょうど影の側にあった。背中の翼は、わずかな遊色を見せて、白百合や水晶のように静かに煌めきながら、燭火の光を返していた。

 長く直視するには輝かしすぎ、また苦しみの中にとめどなく墜ちていきそうで──プシュケーは、そっと目を伏せ、己が手のひらのすりむいた幾筋もの傷を恥じて手のひらを握った。動かすと痛みの響く膝にも傷がありそうだった。
 冥府で死者たちをかき分けるようにして逃げ惑った恐怖と惨めさが疼く。死ぬまでにこの怯えが薄れることはあるのだろうか…いずれ我が道としてたどらなければならないのに。思い出すと、身体が小刻みに震え始めるのだった。
 プシュケーは、天から降りてくるひとすじの糸を求める思いで、目の前にいる愛の神のかんばせに再び視線を向けた。苦しみを追い払うのは別の苦しみにしかできないことなのかもしれない。けれど、そう思うそばから湧き立ってきたのは、痛みとしか思えない憧れと愛おしさだった。

 七つの門を戴く一大都市国家ポリス、テーバイ。王女セメレーは、愛する雷神ゼウスの真の姿を見た瞬間に、雷光に灼かれて息絶えたという。
 その瞬間のセメレーのおののきと、それにも勝る嘆美の念が察せられる気がする…プシュケーは、ぼんやりと思うのだった。
 セメレーは、老婆に身をやつした神妃ヘラにそそのかされて疑念を植え付けられ、自分の恋の相手が本当に大神ゼウスなのかどうか確かめようとした──彼女の地上の恋は、ゼウスの天上の愛のたかぶりには敵うべくもなかった──叙事詩にはそのように記されているけれど。
 本当は、自ら望んで死を選んだのかもしれないと、プシュケーは思うのだった。

 神の一人をこうして間近に見ていてさえ、大神ゼウスは畏れ多く、姿を想像できないほどの、至高の存在だった。
 そのゼウスに選ばれ、愛を受け止めたセメレーとは、どれほど高雅でしなやかなひとだったのだろうか。彼女は女神を母に持つ半神ではあったけれど、死すべき定命じょうみょうの存在だったから、プシュケーには近しく感じられた。むしろ不死の片親を持ちながら死んでいかねばならない身の儚さに、人知れぬ哀しみを抱えていたのかもしれないと思えるのだった。
 ゼウスにとってはいくつもの恋のひとつに過ぎなかったのかもしれないけれど、セメレーはきっと、儚くも強く、人の身にあたう限り深く、そして誇りにかけて一途に愛していたのだろうと思う。想いが強まれば強まるほど、深手を負いながら。きっと、それほどまでに、魅かれずにはいられなかったはずだ。
 神々から見れば、風に吹き払われる花びらのような軽い命であっても──だからこそ、そのたったひとつの命をかけて愛することができる。いつか終わりを迎える人生だからこそ。

 光の神アポローンは、愛する貴公子ヒュアキントスが円盤で額を割られて死んだとき、相剋そうこくの果て、ともに冥府に行くことはできないと慚愧ざんきを述べた──そう伝えられている。けれど、人間であるヒュアキントスのほうは、そのような試練に遭えば、愛するひとの後を追ったのではないだろうか。
 きっと、神々は、永遠の時間を投げ捨ててまで、命をかけて誰かを愛することはしないのだろう。わたしならば、きっとそうだ。
 だからこそ、人間に生まれて良かったのだろうと思うプシュケーだった。

 そして、その愛の苦しみも儚さも強さも、なにもかも教えてくれたのは、目の前にいる愛の神だった。

「ペルセフォネー様からいただいた箱は、どこですの? 小壜の中のおくすりを、あなたの頬につけていただきたいの。やけどの痕が消えるように」
 クピードは、枕元にある黄金の小箱を示しながら、視線を足元に落としたまま、小さくつぶやいた。
「その薬は要らない。お願いだから、二度とこんな怖ろしい真似はしないでくれないか。身を守るものもなくたったひとりであのような地の底まで…きみを取り戻した今でも、思うだに怖ろしい──どれほど危険なことをしてきたのか、きっときみにはわからない」
 怒っているようにも思われ、プシュケーは戸惑いながら言った。
「…でも、やっと手に入れた大切なおくすりなの」
「私がそれを使えば、きみはまた同じようなことをしかねないから。それに──」
 クピードは顔を上げ、静かに笑った。
「あの蝋燭ろうそくのおかげで、私は目が覚めたのだ」



 黄金の箱を開け、中に入った水の香気を確かめると、クピードは言った。
「これは、我々にとっては治癒と休息をもたらす酒のようなものに過ぎない…だが」
 彼は、蓋をしっかりと閉め、続きの部屋にいたらしいゼフュロスを呼んで、それを遠くの峰の頂きに運ぶように頼んだ。
「あの峰の鳥たちに、守らせてほしい」
 ゼフュロスは快く疾風に乗り、黄金の箱を持って飛び去った。
 その姿を窓辺で見届けたあと、クピードは、水晶の高坏たかつきに香りの良い飲み物を注いで、プシュケーに手渡した。

 飲み終えるのを待って杯を片付けると、妻の傍らに静かに腰を下ろして、しばらく思いに沈んでいた。
「プシュケー。あれは、《冥府の眠り》だ。あなたが──」
 クピードは黙り込み、それから声を励ました。
「あなたが年老いて、私の傍らで天寿を全うするとき、眠るように息を引き取るための──魂となった後、苦しまずに冥府の坂をかわして、奥底まで降りていくための…女王の配慮なのだろう」
 プシュケーは、打たれたように身を起こした。何もかもが腑に落ちた思いだった。
「あれがあれば、ペルセフォネーさまのもとに、このわたしのまま行けるのね? あの坂を通っても、なにひとつ忘れずに──身体は失くしても、すべて憶えたままで──今日のことをなつかしく語り合いたい…と、あの方は仰せだったもの」
 プシュケーは、強いまなざしで良人を見た。
「──年老いてからですって? ちがう…それはちがうわ──あの方なら、きっとわかってくださる。あれは今すぐに飲むためのものなのよ。返して…あの箱を。わたしに返して…!」
 クピードは、プシュケーの腕を捕らえようとした──だが、プシュケーは、まだ力の入らない身体から出るとは思えない強さで、良人の腕を払いのけた。
「わたしだけが年老いていくのはいや」
 プシュケーは弱々しく叫んだ。
「人の世であればこそ、わたしだって人並みに老いていく定めを受け入れていたわ…でも、あんまりだわ、どうしてわたしを選んだの…どうして…あなたの愛をこの身に受け、そのあとで、あなたの憐れみを受けるなんて──最後には、老いたティトノスの部屋の戸を優しく閉めて、それきり会わなくなった暁の女神エオスのようになるのでしょう? ありがとうなんて、言われたくない…」
 胸をなだめようと、プシュケーは、一度言葉を切った。ふるえながら続ける。
「──ちがいすぎるわ…なにもかも……人間の命なんて、神様から見たら、はじけ飛ぶのを待ってるあぶくみたいなものなのでしょう? でも、わたしは自分にできる精一杯のことをして命を終える…それで充分なの。もしかしたら、何ひとつ実を結ばないかもしれなくても──神様なら、永遠の時間があるのだから、失敗しても心ゆくまでやり直せるし、失くしても似たようなものが見つかるまで待つことができる。永遠に若く美しいまま愛し合えるのなら、狂おしく求める必要なんてない。苦しいくらい愛おしいこともきっとないのでしょう? ──死ぬことのない神様には、本当の苦しみも、哀しみも喜びも、わからないのよ──」
 愛だってそうよ──叫ぼうとし、プシュケーはすんでのところで踏みとどまった。それは、もし仮に正しいとしても、口にしてはいけないことに違いなかった。
「……だから、わたしは人間に生まれて良かったんだわ。──なのに、なぜあなたはわたしの前に現れたの? なぜ、わたしの心を奪うようなことをしたの。神と愛し合うのは身の程を知らぬ大罪かもしれないけれど、それなら神が人間を抱くのだって、大罪だわ…!」
 アモールは言ったのだ──同じひとつの命として分け隔てなく愛してほしい、と。
 そしてわたしはそのとおり、心を尽くして愛したのだ。同じ命ではあり得ない神だとは、つゆほども思わずに。

 プシュケーはすすり泣きながら、両手で顔を覆った。今さら涙を流しても、何にもならない。なんと浅ましいことかと思うと呪わしかった。
 ペルセフォネーの、静かな黒い瞳を思い出してみる。凪いだ水面みなものように、心を映し出して、見せてくれるのだった。

 プシュケーはうっすらと笑った。
「──はじまりはおもいの矢だったかもしれないけれど、愛し合うということは、自分を明け渡し、ゆだね、命を預け合うことだったのだって、冥府で気づいたの。──このからだをあなたと分けあって、善いことも悪いことも、哀しいことも喜びも、わたしがわたしであることの苦しみも、あなたが半分になってくれたの。あなたの半分を、きっとわたしが引き受けたの。わたしがあなたになって、あなたがわたしだった──だから、あの坂も正気で通り抜けられたのかもしれない」
 このちっぽけな、しようのないわたしを好きだと、嘘をつける唇ではなく全身で伝えてくれた。
 その、一度きりの恋が終わったのだ。もはや人生でなすべきことは残されていないはずだった。
 いまはこの苦しみさえも愛おしいのだ──。
「だから──いつか終わりがくるってわかっていても…わたし…どうしても、離れられないの──どれだけ引き離されても、地の底からでも、きっと探し出してしまうわ…命ある限り、あなたのそばから離れる力はないんだわ…アモール、あなたも、そうなのでしょう……?」

 アモールは、泣き笑いのように、頷いた。見れば、その背中の翼は消え失せ、そこには彼女の愛した青年がいた。
「そうだ…きみの声が聞きたい…きみのほほえみを見ていたい…鼓動に触れたい…花のように儚いきみを抱いて、この身に深く刻みたい──きみのいなかったひと月、あたたかい感触が忘れられなくて、苦しくて……ずっとなにかがこぼれ落ちていくのを止められなかった……いつか終わる運命さだめだと…分かちがたくならぬうちに、離れなければと思っていたのに……愛がこれほど苦しくて、不自由なものだなんて思いもしなかった──でも、思うようにはならなくても、それでもきみを愛していたいんだ…これから先もずっと、許される間は…きみがいつか死んでしまったら、私はどうしたらいい…? 永遠なんて…ほとんど地獄タルタロスだ……」
 すがるような瞳、その声音。それで、充分だった。
 プシュケーは、我知らず固くつむった目を開け、窓の外を見た。暗い空に、永遠を知る星たちが、瞬いていた。
 ゆっくりと低くささやく。
「わたしたち…いえ、わたしの末路はひとつしかないの。あなたはそのままで生きられるけれど、わたしは老いて、やがて死ぬ。ゆっくりと、あなたの心が離れていくのを感じながら、人生を下っていくの」
 プシュケーの深いあめ色の瞳が、静かにアモールを射た。
「あなたにはまただれか見つかるわ。あの矢を使えばいいのでしょう? ──アモール、お願いよ……いつか死んでいくのなら、幕引きを、いつにするかくらいは、選ばせて。あなたが…手を下せないのなら、せめてわたしが自分で片をつけるのを、とめないで──どうか、あのお薬を……いまはもう、あなたを想うぶんだけ、くるしいの…」

 アモールの、色を失った唇から、かすれた声が漏れた。
「きみを愛さなければ、よかったのか…いや、違うな」
 アモールは、かすかにわらった。 
「──私も…人間になれば、いいのだな」
 その言葉に貫かれ、プシュケーは呆然とアモールを見つめた。
 天を仰いだその唇から、かすれた呻きが漏れた。
「ちがう……そんなの間違ってる……あなたが生きていてくれなかったら、なんのために死んでいくのかわからないわ…」
「初めてきみを見たとき、こんなに初々ういういしく清らかな存在ものが、いつか枯れて土に還るのだと…そのことにふるえて、手元が狂ったんだ──なにか、吸い込まれるような感覚だった…あのとき、今日のこの日を、悟っていたのかもしれないな……きみを死なせてしまいそうになったとき、私の愛の先には死と破壊があるのかもしれない…と、怖ろしくてならなかった…きみが定命じょうみょうだからなんだろうか、それとも私は化け物か──アレースの血がそうさせるのか…私は、死の神でもなければ、破壊の神でもないはずなのに…。母に頼んで、もっとまともな愛の神をもうひとり産んでもらって、その者にこの弓矢もすべて譲ろうか…そんなことも、考えたりした。でも、そう思えば思うほど、独りでいることに耐えられなくなって、きみの居場所を、ゼフュロスに…訊いたんだ…。きみに、私はアモール受苦の愛だと…愛の神だと言ってほしくて──世界中から烙印を押されても、きみが私を愛の神だと言ってくれたら、それで救われると思った…だって、ほんとうの私を知っているのはきみだけだから──そのきみが冥府に行ったと聞かされたとき、ついに殺してしまったのかと思ったんだ──死とはなんなのか、考えたことすらなかった私は愚かなのかもしれない。きみにとって死が、思うだけで立ち枯れるほど怖ろしいものなのなら、私もそれを知って、きみに寄り添うのもいいのだろう──だって…きみが言うには、死ぬことのできる身にしか、ほんとうの愛・・・・・・はわからないんだろう…?」
 次第に小さくなったアモールの声は、やがて途絶えた。

「あなたが何かに怯えるのも、歳を取っていくのも、わたしには耐えられないわ──アモール…あなたはわたしにとって、永遠にアモールで、永遠に愛の神よ…わたしが死んでも、それは変わらない…だって、わたしが死んだらもう誰も、この想いを覆すことはできなくなるもの。そうよ、わたしは死をもって、この愛を完成させるの。そうするより他に、できることはないのだもの──アモール…人間はね、永遠に生きる神さまがいるから、その御方おかたに世界を委ねて安らかに死んでいけるのよ──だから…人間が死なねばならないように、神さまは生きなければならないの。それは、動かしてはいけないことなのよ……永遠に生きるあなただからこそ、すべてにおいて完全で、すべてにおいて満ち足りていてほしいの──神さまになら、できるでしょう?」
 それきりプシュケーは言葉を失い、首を横に振り続けた。
 今すぐに、優しい胸に身を投げて、暗がりに棲まい、泣いてすべてを忘れたかった。けれど、そうしたが最後、決意は崩れ、自分の若さが病み衰えて、飽きられてもなお愛をせがむ幽鬼になり果てるに違いなかった。
 アモールの腕の中で味わった、まっすぐで祝福に満ちた愛を思い出す。あの時、わたしは自分のすべてを肯定されていたのだ。それが、おそらくは愛というもののすべてなのだろう。
 愛が肯定なら、死は否定に違いなかった。アモールが積みあげた分だけ、否定し尽くさなければならない今、その道のりがいっそう苦しく思われるのだった。

 その時、ふと別の影がさしかかる思いに、プシュケーは力なくうなだれた。
 愛の神が心を病んでしまったら、その手が放つ矢はどうなるのだろう。
 その時初めて、プシュケーは、自分のためではなくアモールのために、不死であればよかったと激しく願い、そして絶望したのだった。
 愛の神の伴侶が、一介の人間に務まるはずがないのだ。たとえ、束の間でも。やはり、だれか立派な女神が傍らで支え、愛し合うのが正しいように思われた。初めからそうあるべきだったのだ──。

 プシュケーには、人々の祝祭の声と、この世でたったひとり、孤独によりき殺されていく自分とが、早くもまざまざと思い浮かぶのだった──クピード様に御子がお生まれになったそうだ…皆、新しき神殿を建てて、お三方を祀ろうではないか──。
 だからこそ、その前にわたしはこの世から歩み去りたいのだ。

 本当の愛ならば、遠く離れてもアモールの幸せを願いながら、ひとりで静かに生きていくことができるはずだった。愛されることがなくとも、愛していけるはず。それが、冥府の女王がわたしに伝えたかった真意なのだろう。けれど、そんなふうに心を鎮めることなど、できそうにないのだ。
 今となってはただ、アモールの中から、跡形もなく消えてゆきたいのだった。きっと初めからこの世に存在しなければ、なお良かったのだろう。

 うなだれて、プシュケーの言葉の重みに耐えながらじっと考え込んでいたアモールが、悲しげにつぶやいた。
「そんなのはもう無理だ…。完全でなくてもいい。永遠でなくてもかまわない。私はただ、愛していたいんだ…それだけだ…それがきみで、よかった── プシュケー、私は今やっと、自分の望みがわかったんだ。きみに、生まれてきてよかったと思ってほしかった。望みもせず生み落とされ、望みもせずに死んでいかなければならないきみに、それでも生まれてきてよかったと思ってほしかった。そのために、心の底から慈しみ、愛したのだと思う。でも…どうやらそれは、うまくいかなかったみたいだ」
「アモール、わたし──」
 たまらずプシュケーは口を挟んだ。けれどアモールはあくまで静かに、続けた。
「──その先は、言わなくていい。嘘までつかせることになる──きみが逝くのなら、私も人間になって、後を追う。魂だけになっても…離れたくないんだ──」
 うつむいたまま、両手で力なく顔を覆ったプシュケーを、アモールは静かに見つめた。
 もの悲しげなまなざしは、往く道を怖れながらも、どこかしら魅入られているかのようだった。──ともに永遠に生きることが叶わないのなら、ともに死んで永遠になるしかないのだろう。

「冥府か……ペルセフォネーも、そのつもりであれを預けてくれたのだろうか──あのひとは、ひどく賢いひとだから……無力な魂となって、冥府に行け、と…だがその先に、待っているのは…」
 そうなったら、どんなにいいだろう。ペルセフォネーさまのもとで、アモールの魂と、とこしえに。冥府の空も、寂しい灰色ではなく、青く透ける夜の色で、高く深く広がっているのだろう。
 そんなことを自分に許してはいけないのに、その甘美な思いに掴み締められる己が、プシュケーはただ忌まわしかった。

 だが、一時の激情で不死の命を捨てさせるわけにはいかなかった。
 アモールの言葉がまことの深みから出ているからこそ、こんなにまで惑わせ、貶めてしまった己の罪深さに、プシュケーは果てのない深淵に沈みこむようにふるえるのだった。
 ほかの神々に知られることなくひっそりと、神が人間になれるのかどうかはわからなかったが、どうにかしてアモールの短慮を、ゼフュロスに、ひいてはアフロディーテに知らせ、押しとどめてもらわねばならない。
 そして一刻も早く、この身の始末をつけるしかない。もちろん、アモールが後を追えなくなるように、あの薬なしで。自分を徹底的に抹消するのだ。幸せすぎたという罪の、報いとして。

 プシュケーは、窓の外を見た。あの白い宝物部屋にある何か尖ったもので、とも思ったが、この身を衝いた何かを置いたまま死んでしまったら、それを拾い上げるアモールがどんな思いをするかと想像しただけで苦しくなった。人の身体はく土に還るけれど、宝剣はそうはいかない。彼の持ち物を使うことは、あまりにも残酷に思われた。
 最も良いのは、行方を眩ませて、それから身の始末をつけることだろう。けれど、翼のない自分には逃げ出す術がない。
 ならば、高い峰にあるこの天の宮から身を躍らせる…粉々につぶれた身体をした死者は、そういえばあの坂にいただろうか。

 ケルベロスの咆哮、業火、うす赤い河、さまよえる死びとの群、呻き声……身の毛のよだつ恐ろしさが脳裏によみがえる。
 そこにとどまる間に、アモールのことも、この愛も忘れ、ペルセフォネーのこともわからなくなり、哀しく澄んで、あの広間にたどり着くのだろう。
 死んだら誰も想いを覆せなくなる──その哀しい嘘が、胸の奥を灼いていた。
 ──わたしは…なにもかも、取り上げられてしまうのね──。
 こんなに深く、愛したのに──プシュケーは身もだえして、ペルセフォネーに祈った。



⇒〈7〉天上へのきざはし


[frontispiece]Anthony van Dyck: Cupid and Psyche ─ Cupid finds the sleeping Psyche (1639–40)


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