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アモールとプシュケー〈2〉夕べのマドリガーレ



第2章 夕べの|恋歌《マドリガーレ


 宮殿に運ばれてきてから一ヶ月ほどたったある日。
 その日は朝から心がざわめき、プシュケーは何をしても気が晴れなかった。故郷に残してきた父母や、優しい兄姉けいしらのことが気がかりでならない。
 わたしが突然姿を消したせいで、どれほど心を痛めているだろう。末娘とはいえ、気にかけてくれているはずだ。もはや死んだものと思われているのかもしれないけれど。
 どうしても今宵は、問いたださなければ。

 そう心を定めると、午後のまだ浅い頃ではあったけれど、気持ちを落ち着けるために湯浴みをした。
 薄桃色の大理石、乳白色の貝殻で張られた湯ぶねには、淡紅から深紅までとりどりの薔薇の花びらが浮かべられている。香り高い湯気に包まれていると、故郷で大切にしていた薔薇水晶の腕飾りアームレットを思い出すのだった。

 それは、高祖父から高祖母へ、婚礼の前夜に贈られたものと伝えられ、持ち主の身体こそ土に還り空に還りしつつも、四代にわたって守られてきたものだった。この館にあるものに比べるとずいぶん見劣りしたけれど、彫り込まれたしとやかな花姿に心魅かれ、大切にしていたのだった。
 あの日、身につけておけばよかったと、寂しく思うプシュケーだった。西風の神ゼフュロスの口ぶりから、夕方には戻って来られる程度の遠出かと思い込んでいたのだ。

 軽いため息をもらし、乙女は視線を遠くにさまよわせた。
 浴場と外との仕切りには白大理石の列柱が並び、その間から見える空と中庭の景色もとても美しかった。
 数段低まったところに小さな花園があり、君影草スズラン銀梅花ミルテ三色菫ヒュアキントスアネモネアドーニスが、うす明るい空のもとでしとやかに揺れていた。そこから吹いてくるそよ風は暖かく、濡れた肌にも心地よかった。

 しばらく後、身体を浄めた乙女は、ごくやわらかな麻の布で雫をぬぐい、不自由のないようにと常に何枚も用意されている絹のキトンを一枚手に取り身体をすべり込ませた。肩や腰を紐で結わえてドレープを整え、余った布を肩のところで留めた。故郷の王宮では、質素倹約を旨としていたため、絹のキトンは特別な折にしか身にまとうことができなかった。しかも、遥か東方から運ばせた絹地は土地柄ゆえか厚手で、そのまま仕立てると、うっすら汗ばむことになる。けれど、ここにある絹地はとても薄くて軽く、風を通して涼やかだった。糸を解いて織り直したのかもしれない。驚くほど白く、身にまとう動作につれてシュッとかすかな音が立つのも小気味よかった。あるいは絹に似て非なる、彼女の知らない繊維なのかもしれなかった。

 そんなふうに、身につけるものひとつとっても、感心することばかりだった。
 ここはいったい、どこなのだろう。西風の神に運ばれてきて、高い山の上だということはわかっていた。

 この宮は、佇まいこそ小さめの離宮のようだったけれど、壁にはめ込まれた絵画も雪花石膏アラバスター浮彫レリーフも見事で、四隅の柱にのせられた彫像に至っては、彫り手が自然のまことと腕を競い、並び立っているかのようだった。

 また、白亜の壁面を飾る絵画フレスコには、神々の気高く優美な姿が思い思いの形姿なりかたちをなしながら、命の躍動そのままに描き込められていた。仰ぎ見るほど大きな絵もあり、そこにはオリュンポス十二神らが一堂に会していた。

 美の女神アフロディーテの傍らに描かれた愛の神クピードの、翼を拡げて舞い降りた姿を、うら若き乙女の例に漏れず、プシュケーはうっとりして眺めた。凛々しく柔和な面差しに、涼やかな目もと。未だ見ぬ良人おっとのほほえみが、愛の神のそれに似ている気がして、プシュケーは愛おしいひとの姿を早く我が眼で見たいと、切ない思いに駆られるのだった。

 プシュケーは吐息をひとつもらすと、寝椅子の端に腰かけ、そこにかけ並べてある綾織りに指先をそっとふれさせた。それらは金糸銀糸を重ねた美しい陰影をたたえ、どれほどの匠でさえ織り上げようのないほどの優美さだった。半神か、あるいは女神アテナそのひとの手になるもののようにさえ思われた。

 床にまで、貴石や珠玉をはめ込んだ細工が線描をつなげていて、これを踏んで歩く者は、天地に祝福された幸多き者に違いないと思わせる目映まばゆさだった。プシュケーは、畏れ多い気がして、つい、宝石の少ない隅の方を歩いてしまうのだった。

 どれひとつとっても、魅きつけられ触れずにはいられない精妙さと艶やかさだった。籠からあふれる花々と目も綾なる宝石、見上げるほどの書棚に並ぶパピルス紙の巻物、そこからはみ出したきららかな綾織りの栞。

 プシュケーは、その中から、アフロディーテ讃歌やアポローン神の恋物語など、手にふれたものを読んでいく。指先になじむ繊維の感触、文字の運び、雅やかな言葉の調べ。
 アモールも神々の物語に興味があるようなので、いっしょに読むことができればいいのにと思いながら、プシュケーは心に残る一節を繰り返し唱えた。あとでアモールに聞いてもらうつもりだったのだ。

 他にも話したいことはいくつもあった。故郷の薔薇園や散歩道のさわやかさ、ここに来て初めて目にした薄青いはねの蝶がまた舞っていたこと、中庭の花々が故郷で見たものより大ぶりで色鮮やかなこと…アモールは頷きながら、丁寧に耳を傾けてくれる。

 けれど、いっしょに書物を読みたいだとか、愛の神の微笑みがアモールに似ている気がしたことなど、二人の間に横たわる秘密に触れる事柄は口にしてはいけない気がして、唇を引き結ぶプシュケーだった。
 そんなとき、アモールは悲しそうに押し黙ってしまうのだ。

 何か、知らない方が良い事柄というものがこの世にはあって、アモールにはそれが分かっているのかもしれない…それに、姿形を見たとしても、相手がどのようなひとなのか本当の意味で知ることはできないのだ。──そう、自分に言い聞かせる。表情が見えないだろうから──そう言って、その分いっそう言葉にし、抱きしめて伝えてくれるアモールに、プシュケーはいつしか信頼を寄せるようになっていたのだった。

 プシュケーは、宝物部屋の方に爪先を向けた。広すぎることのないその一室は居心地も良く、佇まいそのものが優雅だった。壁の中ほどには外への開口部が窓のようにいくつか設けられていて、向こうに花々や空が見え、鳥のさえずりも聞こえた。

 その窓は充分に大きく低かったので、小柄な人なら通り抜けられるほどだった。滑石のパネルはいつ見ても取り払われたまま棚の中ほどに整然と重ねられており、格子もなかったので、侵入者が想定されていないことが伺われた。

 壁のあちらこちらにはパロス島産と思われる薄手の大理石板がはめ込まれていて、外からの光が透過し、やわらかな明るみを帯びていた。陽も傾きかけたというのに、部屋全体がうっすらと明るい光に満ちている。その光は、白さゆえに、死の天使の羽ばたきを思い出させたけれど、それは白昼夢のようにおぼろげで、ここでは怖ろしくは感じられないのだった。

 この宮殿は隅々まで、なにもかも手入れが行き届いている。そのことに、驚かされることもしばしばだった。また、そのことによって、見知らぬ住まいであっても、どこかしら居心地が良く、誰かに守られている感覚を覚えるのだった。

 中央のテーブルには、象嵌ぞうがんの小箱や花水の入った針水晶の水差しなどがさりげなく置かれていて、時折新たな宝飾品に取り替えられていた。
 プシュケーは、昼間のもの寂しさをまぎらわせるために、よくそれらの品々を手に取り、飽かず眺めていたのだった。

 アモールから、自由に使ってもよいと言われていたので、彼女は髪飾りや細い腰に結ぶ飾り帯などを、もの柔らかなあめ色の瞳にあわせて選ぶのを楽しみとしていた。
 彼女自身が、それらすべてを結びあわせてもなお足りないほどの、自然なる優美をその身から耀かがよわせていることにも、気づかないまま。

 そして、夕べの恋歌マドリガーレのように可憐に歩んでは花々に立ち交じり、蝶のようにそっと花びらにふれては慈しんでいたのだった。

 不思議なのは、誰ひとり姿が見えないのに、食事の用意がなされ、あたたかな飲み物が置かれていることだった。あたりには人の気配というものはなかったけれど、どこか翳りを帯びた七絃琴キタラや軽やかな葦笛シュリンクスの音が、ほど遠からぬところから聞こえてくることもあった。

 ムーサミューズの九柱の女神のひとり、ポリュヒムニアそのひとかと思われるほど清らかな讃歌が、遠く風に乗って運ばれてくることもあった。プシュケーは我知らず胸に手を当てて、まだ知らぬあてなるものに祈りを捧げるのだった。



 その宵──暗闇のなか寝台に腰掛けたプシュケーが、まだしっとりと乾ききらないうちに軽く結い上げていた栗色の髪から、煙水晶の長い一本櫛を抜くと、蜜の川のように腰まで流れるつややかな髪が、なめらかな乳白色の肌にほどけた。
 アモールはその髪に頬を寄せて言った。
「綺麗な髪──今日はいつもより薔薇がよく薫るね」
「湯浴みのとき、長く浸かっていましたの。なんだか…気が晴れなくて」
 プシュケーは、いつ話を切り出そうかと気が重いのだった。
「そう…」
 アモールは、後ろからプシュケーを抱きしめると、蜜蝋みつろう柔肌やわはだを風の指で優しく奏でながら、髪に顔を埋めてささやいた。
「きみの甘い香り──こうしていると安らぐんだ…昼には、きみがいないから、いろいろと考えてしまって──きみはまた、灯りがほしいと言うのだろうね……でもどうか、私の姿を暴こうなどと思わないでほしい──同じひとつの命として、分けへだてなく、愛してほしいから」
 それは、何度か言われていたことだった。淡い夢心地に浸されて、プシュケーはいつの間にか頷いてしまうのだった。

 けれど、今日のアモールは、さらにこう続けた。
「──ひょっとして、きみが怖がるようなことになってはと思うだけなんだ」
「怖がる……?」
 優しい声と、深くやわらかな香りに包まれている今、このひとを怖がるようなことがあるとは思えなかったけれど。

 それでもプシュケーは、急に寄る辺ない思いにとらわれた。暗闇を透かして、見えぬままアモールのおもてを見定めようとする。偶然に、心細げな瞳がアモールの眼をまっすぐにとらえ、彼は胸を衝かれて眼をそらした。
 あなたは誰なの? ──大きな瞳は、そう訊いていた。
 それは単なる秘密を超えて、もはや答えがたい謎のように、この頃の彼には思われるのだった。
「いや…おかしなことを言ってすまなかった──きっと、そんなことにはならないから…」
 アモールは何かを追い払うように首を振ると、指先でそっと、花の香り立つ栗色の髪をかき寄せ、白いうなじに口づけた。

 そのしなやかな首すじや耳朶の陰には、やわらかな果物のような、どこかいたずらっぽく甘くくすぐる香りが、密やかに立ち迷っている。
 ほほえみのうちにどこか憂わしげなところのあるプシュケーの、慎ましい風情とは正反対のものを語りかけてくる。
 その優しい謎を解きたくて、今宵もまた乙女を抱き寄せるアモールだった。

 プシュケーは、夜のまにまにたゆたうしっとりとした声で、アモールの名をささやいた。
 首筋に唇を感じると、千の息吹が駆け抜けて、自分がいつしか牧神パーンの唇に吹き鳴らされる葦笛シュリンクスになった気がする。そのやわらかな感触は、アモールの優美な声を蜜にとかし込んだほどに甘やかだった。プシュケーは瞼を閉ざした。
「ふるえているの…?」
「ええ…これがかりそめの夢なのだとしても──ずっとこうしていられたらいいのに…と思って」
「私もだ」
 春の少し暑い日、夕方の涼風がふとたつように、アモールのやさしい密語ささめきが首筋をそよいでいった。

 アルペジオを奏でる指が、ふっくらと息づく白い胸もとに静かに触れ、それから心臓の鼓動の真上で止まった。プシュケーも、その手に自分の手を重ね、とくんとくんと打っている己の命の脈動を、自分の身体を通して聞いていた。

 こうして優しい腕に抱かれていると、もう自分は人間ではなく七絃琴キタラになったのだと思えて、ひどく心地よかった。きっと、気づかなかっただけで、初めからこうしてアモールの両腕かいなに収まっていたのだろう…。
「ちがうわ…きっと、花なのだわ…」
 アモールの首から肩に続く稜線の、いつものくぼみにこうべを落ち着けると、プシュケーは、夢見心地でつぶやいた。

 どんなに姿の美しい人間であっても、一輪の花ほど沁み入る優美さはない。アモールの腕の中にいると、たくさんの花にまぎれて自分もいつしか花になれそうで、自然にほほえみがよぎるのだった。わたしが花になったら、密やかなる愛の掟のままに、アモールはそれを摘むのだろうか。
「そして、あなたは夜の精なんだわ…だから夜にしか生きられないのね」
 その思いつきにくすぐられて、プシュケーは瞼を軽く合わせたまま、唇をほころばせた。
「どうかな…きみが花の精なのなら、あるいはね」
 アモールは、奇妙なほど静かにつぶやいた。

 プシュケーはそのまま身体をずらし、アモールのなめらかな胸に頬を寄せ、ふわりとほほえむ。
「あなたの鼓動も…聞こえるわ」
 限りないあたたかさにくるまれるように、鼓動に耳を傾ける。アモールの鼓動は、不思議にゆったりと間遠まどおに息づいており、大河の流れを思わせた。耳を傾けていると穏やかな気持ちになるのだった。
 むずかしい話は、きっと明日でもいいはずね──。

 幼い頃、少し年嵩としかさのふたりの姉とプシュケーを膝もとに集めた母が、順に顔を見つめながら、こんなことを言っていた。──あなたたち王女は、どのようなお方のもとに嫁ぐことになるかはわからない。けれど、たとえ惑うことがあっても、心の底から受け入れて、心を尽くして愛していれば、きっと幸せな一生を送ることができると、お母様は信じているの──。

 姉たちはもう、しかるべき王族に縁付き、幸せに暮らしていた。順に顔を思い浮かべ、姉様方もこうして良人の腕の中で安らいでいるのだろうと、プシュケーは瞳をなごませた。それぞれの良人とも言葉を交わしたことがあり、立派な人となりのように見受けられた。

 やがてプシュケーはすうっと息を吐き、そのまま眠りになだめられていった。
 アモールは妻のやわらかくあたたかな身体の心地よい重みをしばらく腕に抱き、眠りに落ちてなおかぐわしく匂い立つ栗色の髪に口づけた。
 それから妻が深い眠りについたことを慎重に確認したあと、ようやく浅くまどろんだのだった。
 それが、秘密を抱えた彼の眠り方となっていた。


⇒〈3〉灯火ともしび



[frontispiece] Angelica Kauffman: Cupid and Psyche (1792)

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