わかりやすい言葉が全て?
これさえすれば、◯◯になる。××は大雑把にわかりやすくいうと△△ということだ。
最近は、テレビの番組でも、書籍でも、はたまた何かの講演でも、明確・単純化・具体化して言い換えたり解説されたりすることが多い。
一昔前ではこんなことはあまり無かったように記憶している。
確かに、そのおかげで入りにくい分野に足を踏み入れやすくなったり、敷居が低くなったりすることも増えただろう。
最初から高い壁が聳え立っていたら、その分野に詳しくない者は挑むべきか迷い、尻込みしてしまう。
それで、その分野に出会うチャンスを逃してしまうかもしれない。
受け手は壁を低くしてもらい、力を借りて壁に登らせてもらい、取っ掛かりをつくることができる。また自分が全くのゼロから理解する段階を踏むという手間が省けて有難いということもあろう。
でも、わかりやすく具体的に、だけで物事の全体像は語れるのだろうか。
大好きな番組 スイッチインタビュー 達人達で、糸井重里さんが言われていたこと。
たしかに、言葉は便利ではあるけれど、具体的にこれだ!と言い切れるほど明確なことばかりではないし、むしろその周りにボンヤリと漂うことの方を伝えたかったりする。
最近お気に入りの佐治晴夫先生の本にもこんなことが書かれていた。
今ここにイヌがいなくても、4本足でワンと吠える犬を連想されるでしょう。それが言葉の凄さでありそれぞれの個性は違っていても、似た種類のものを十把一絡げに表現できるという凄さです。しかし、よく考えてみれば、どの一匹の犬を見ても、すべて個性があり、異なっています。じつは、そこに、言葉の持つ負の側面があります。あくまでも、言葉は現実や実在の一側面を切り取ったものですから、その表現と中身との間には、いつもズレが生じています。
文章で正しく状況を説明するには、数学を解いている時のような論理性がなければなりません。しかし、その一方では、言葉の曖昧さが、ものごとの擬人化などを通じて話し手、聞き手の双方に想像力を呼び覚まし、“心で感じられる”出来事ときて直感的な理解へ導く働きをする場合もあります。現代は、物事の真偽、正邪など、すべてを言葉によって規定し、それを判断基準にして動いていますから、言葉の奴隷だと言っても言い過ぎではありません。
なんとかこの気持ちや情景を伝えたい。
漂う感情を伝えたい。
私は毎回noteを書きながら、どう書き記せば私の心のうちをうまく表現できるのかと頭を悩ませている。
言葉をうまく使えるようになりたい。
ステキな文章を書けるようになりたい。伝わる表現ができるようになりたい。
言葉の持つ曖昧さや負の側面があるとしりながらもそう思って書いている。
また別の回のスイッチインタビュー 達人達 では、
浪曲師の方が、自分の表現の幅を広げるのに、「言葉を使う仕事であるが、言葉ではなく別のモノをインプットしたり別のモノに触れたりすることで、自分の中の感性、感覚を養いたい。」とおっしゃっていたのだ。
言葉をうまく使えるようになりたいから、ひたすらがむしゃらに本を読んだり、がむしゃらに書き記すだけではなく、
その言葉を生む背景、土台を作るということが大切だ、ということではなかろうか。
たしかに、表面に出てくる、最終的に自分の外に出てくる言葉だけを磨いても、その奥にある感性や感覚が養われていなければ、陳腐な言葉や表現しか出て来ないだろう。
当たり前のことといえばそうかもしれないが、ガツンと頭を殴られたかのような衝撃だった。
きっと、私がnoteを書こうとしている原動力は、A=Bというような単純明快なことを言いたい、あるいは言葉によって何かを規定したいわけではなく、周りに散りばめられた形のないものを記しておきたいと思う気持ちなのだと思う。
楽しいことだけでなく、辛い経験も、生きて色々な経験をすることも、きっと言葉にする土台となりうると思っている。
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