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離婚で理想の家庭に破れて経済破綻中の熟年女性が脱ノウハウコレクターから第2の人生輝くまでのリアルロードマップ!子供を支えたいし老後の不安もある。人生丸ごとコンテンツで夢叶えよう


はじめまして!

そのみと申します。

現在の私は
54才 女性 独身

本業で看護師(介護施設)とAmazon物販歴5年です。

結婚時代に発症したうつ病持ち。


様々な副業にチャレンジしてきて

①本業・介護施設で看護士
②物販で副収入を得ながら
③将来のためにブログを立ち上げ
④コンテンツビジネスと平行して積み上げ中
④過去のノウハウコレクトも再挑戦

です。



令和2年4月から運用を始めたアカウントですが、

途中で達成感や成長してる感がなくなり

年末から3月半ばまでほぼ休んでました。


メンターと袂を分かち

Twitterにこだわってどうする?と言う迷いです。

みんなすごい人ばっかりやし・・・。


こんな時は無理しない方が良い。


昔のノウハウコレクターの経験や

モチベーションアゲアゲの頃を思い出しながら

「このまま発信しなくても個人で、細々と稼いでいきゃいいじゃん。

って、思ったんです。


でも、稼ぐ以上に得られた物も合ありました。

それは、

・日々のモチベーション上がる
・共感し合えるコミュニケーションに勇気をもらえる
・自分の意見を言える
・楽しい

そして、気づいたのです!

「Twitterでマネタイズ」

「ビジネスの本質」

「発信とマネタイズは一つに限定」


これは、

コンサルやコンテンツビジネスで夢を兼ねた人がしてきた王道

だけど、

必ずつまづいた経験は誰にでもある!

これは絶対です!


私がこの数ヶ月、イヤイヤ期になっていたのも

このためだと。通り道なんです。

「人生はいつでも通過地点」を

思い出したんです。


メンターに言われた

「人生逆転だ」「プライド高い!」「素直じゃない」

と言われて悔しくてもついて行こうと思う矢先

放置された心のキズ。


こっちは50万払ってんだぞ!

確かにすがりたいけど、こっちはお客。

人間性を否定される覚えはねえ!


人間関係はいかなるコミュニティでも

ほぼ、つかず離れずがバランスをとりやすい。

それを乗り越えた関係が

・恋愛・師弟・家族・仲間・親友、だと思う。

私はそこには行き着けなかったし、

メンター選びは慎重に行いたいと思いました。


改めましてこれまでの、経緯をおはなしさせていただきます。

48才の時
自営業と夫婦間での亀裂から

6年に及ぶ泥沼離婚裁判が始まり

家を追い出され別居となりました。


前もって保険を解約したり、貯金を現金化して

当座の生活資金を袋に詰めて

子供2人(大学生と高校生)を養育するため

別居後半年で看護師を再開しました。


その頃、

裁判が終わるまで(財産分与)お金が持つだろうか?

うつ病を患っている自分がいつまで働けるんだろう?

副収入を稼ぐ手立てをみつけなきゃ


という気持ちで、

不安しかありませんでした。


『自分は大抵のことは乗り越えてきたんだから今度も大丈夫』


そんな思いにすがりつき

大した情報収集もせずに

「再現性」
「直ぐ稼げる」
「誰でも出来る」
「月100万」

という言葉に踊らされ、

数件の商材詐欺に遭い100万失いショックを受けました。


しかし

Amazon物販に出会い一ヶ月後に収益化。

月利20万~30万を安定的に稼げるようになりました。

ここで地道に継続していればよかったのに・・・


1年後

仕入先案件の契約詐欺でで300万失いました。

これはショックでした。

300万あればもっと楽だったのに・・・



東京に送りだした2人の子供

大学に通う娘の学費生活費と
会社を辞めて引きこもった息子の生活

毎月50万の出費を維持したいが為

挑戦し続けるも物販以上の収入を得られることができず


その後はノウハウコレクターにまっしぐら。

・ブログアフィリエイト(Amebaブログ)
・Twitterアフィリエイト
・バイナリーオプション
・マーケティングコンサルへの挑戦
・「ココナラ」というサイトで人生相談を出品

結局、収入は看護師と物販のまま


結婚生活で自分を戒めていた事へのリバウンドなのか・・・

裁判に勝っても財産分与は子供の為に使い果たし・・・

ビジネスを学ぶつもりで投資もたくさんしてしまいました

結果

自分の失敗分が借金として残りました。


しかし

ネットビジネスの可能性を捨てきれず諦めの悪さで継続していました。

「何かが掴めそうなのに!」

「突破口がどこかにあるはず!」


「やめればいいじゃん」
そんな思いもちらつきながら・・・


独学でこれまで運用して生きたTwitter、Instagramをコツコツ継続していました。

娘に勧められて「note」も始めました。


メンタリストDAIGOさん
マナブさん
イケハヤさんの

YouTubeをきいて、

これをアウトプットブログにして販売すれば!


でも、
いいねを貰っても購入者は0

実体験を元にした「Amazon物販の教科書」も

売れるどころかDMすら来ません。


Twitterと同じかも・・・

「まずは認知されないとだめやな」


一向に稼げる様になるという手応えがえられず

なにをどれくらいがんばればいいのか

全く想像できず「ビジネス迷子」のままでした。


記事を書いたり、Twitter自体は楽しいのに

収入に結びつかない原因がわからないまま

1年が過ぎました。


なんで、
こんなにネットビジネスにこだわってんのやろ?

続けていく内にそんな疑問も湧いてきました。


娘が大学院を卒業し

引きこもっていた息子も

ようやく落ち着きを見せ始めた。


これからこそ

自分時間でビジネスに取り組めるんやないか!


借金返済もある

コロナで子供の収入も不安定で支えが必要

自分の老後はどうなるの?


60才になったとき老後に不安のない生活を手に入れたい。

これが最後のチャンスかもしれん?!

母のため
夫のため
姑のため
身内のため
子供のため
会社のために

生きてきた私でしたが

初めて「自分の為に生きて良いじゃん」と自覚したんです。


年齢や場所にとらわれず

『自分らしく生きられる、稼げる力』!


もう島へは帰ってこないだろう子供達のもとへ

元気な内に自分がいけばいいやん♪


これまで

忙しくてできなかったこと

さまざまな芸術鑑賞
親子の時間
娘が東京でお世話になった人達への恩返し

ができる。


その環境を作れるのは

ネットビジネスしかないと

決意を新たにしました。


これまでの人生の失敗を糧に

新しい第2の人生を始めたい。


ビジネスに挑戦しているおばさんがいる。


どの世代の人の励みにもなり

仲間となってくれればこれこそ本望です。


そのみのWebビジネスビジネスリアルロードマップ!

私がビジネスでわずかばかりの収益化と困難を乗り越えられた姿が

これからビジネスを始めようとしているあなたへの道標となれば幸いです


【ここからは私の激動の人生を圧縮した内容です】

ここからは、1万文字位の長文になりますし、離婚に関わるエグい話もあります。興味ある人だけ読んで下さい。

改めまして、そのみと申します。

私は1967年8月生まれの54歳。


小学校の6年生の時「看護婦になる」と決めました。

理由は思い出せませんが

アル中で脳梗塞の父親を

貧乏暮らしの中、懸命に働く母を支えたい一心でした。


その決意は変ることなく

すぐに安定収入が得られる看護師になる。

何の躓きもなく看護師になれました。

「収入」「他者貢献」「知識」「チームワーク」「命の現場」

私の求めていた環境がそこにはありました。


21才の時知り合った別居中の男性と大恋愛。

母の強い反対
「再婚」「17才年上」「家付き」「親付き」「姉弟多い」「酒飲み」「実家から遠い」と

学生指導者という出世の道より恋愛を選びました。


先妻との離婚が決まると同時に

7年余りの看護師生活をあっさり捨てて

結婚生活をスタート。


17才も年上の男性に逆らうなど

考えもしなかった初々しい私。                              

家庭を守ることにひたすら尽くす妻。

          

でも、若さってすごいよね。

怖い物知らずってこのことですよね。        

「大丈夫、やってやる」と自信満々。

好きな人と結婚できるの「最高の幸せ」と感じていました。 

                     

結婚後家庭内に起きるであろう出来事も

予測しての決断です。

島暮らしは

「不便」「病院あるの?」「お店は?」「信号無い」「コンビニ無い」

友人も信じられないという顔をしていました。 

          

しかし

自然の中で子育てをし親を看取り

近所づきあいを誠実に行い

地域行事に家族で参加する。 

                    

親は子を育み子は親を敬い

それを目を細めて笑顔で見つめる私。 

そんな家庭を夢見ていた私には

思いもよらない運命が待っていました。   



家業(海運業で船乗り)が忙しく

夫のいない生活が数ヶ月

認知症の義母と幼児の子供二人を抱えて

不安な日々を送っていました。


帰ってきた夫は

趣味のつりや友達家に連れてきては

遅くまで飲みしゃべり

その接待や片付けは私の役目でした。


母親が認知症になっても

子供が泣いていようが関心がない様子で、

妻は何をおいても夫に尽くす。

家庭のことは女がやる。


子供が病気をしても

学校行事への参加をお願いしても

全く無関心。


その癖
SEXだけは強要してきました。


姉弟が多く、本家取りの私の家は

盆と正月に、20人以上の親戚が集い

私は旅館の仲居のごとく

働かねばなりませんでした。


皆で出かけるときは

認知症のお姑さんと留守番。

帰ってきたときの夕食やお風呂や寝間の支度

朝一番に起きて、一番最後にお風呂を洗って寝る

昭和初期の様な待遇でした。


それでも、

賑やかな家庭がいいと思って頑張りましたが

一切を管理していた私には

ストレスが溜まっていきました。


そんなある日

3人目の子を身ごもっていることが

わかりました。


夫にそのことを告げると

「前の嫁にも3人も子供がおるのにこれ以上子供はいらん、堕ろしてこい」

と言われました。

このことを知る人は誰も居ません。


今の家庭を維持するだけで精一杯だった私は

あのとき「産みたい」と突っ張るより

「やっぱりそうか、そうするしかない」

と思ってしまいました。


実家の母も、C型慢性肝炎の末期でしたし

お姑さんは認知症

自分の事しか考えない夫。


家庭を維持するには

堕ろすしかありませんでした。

その後ますます苦しくなっていったのは

その時の罰かもしれませんね


この頃から、お姑さんの認知症も進行がみられ

徘徊、二度食い、引きこもり、せん妄が

強くなってきました。


相変わらずの夫に

私は初めて離婚を切り出しました。

結婚2回目の夫に恥をかかすまいと

頑張っている私に労いの一言もなく

好き放題。


私は、ノイローゼ気味で

突然涙が出たり

自分が誰かに発した言葉にひどく後悔したり

後ろにもう1人自分が居るような感覚を覚え

初めて心療内科へ行きました。

精神安定剤だけでした。


「言ってもわからぬなら文書にしよう」

会社のために無理矢理やらされたパソコンで

用紙3枚分の直訴状を書きました。


さすがに驚いたようで

おばあちゃんを施設に預けることになり

申し訳ないと思いながらも

安堵して1年くらいで症状が消え

楽になったことを覚えています。


これで、

子供と海運業に専念できると

安心したのも束の間

もっと、

夫がもっと大きな事を始めたのです。



私が38才、夫が54才の時

観光事業をやると言い出しビックリ仰天

                      

妻の私に何の相談もなく

勝手に観光事業を決めて

研修もコンサルも飲食店の勉強も一切無し!


「昼も夜も営業するお店なんか作ったら家庭が崩壊する」

「自分の嫁に水商売させる言うことがどういうことかわかってんの?」

私は辞めさせれるものならと言う

思いを込めて叫びました。


しかし、

自分の顔を私の顔に押し寄せて

「わしのやることにいちいち口を出すなー」

と怒鳴られ、

恐怖の余り言い返す言葉はありませんでした。


本業も上向きで忙しくなって来ていた頃

資産も良いところまで来ていました。

人より多くを得られている人は世の中に還元した方が良い
(寄付や地域行事に参加したり、年中行事の役を受ける等)

と、苦言を呈した私に対して

「お前はわしの言うことだけやってればえんや」

と、ばっさり。


これまでの蓄えを投げ打って

観光事業所(民宿飲食店)を起業し、

夫の事業手伝いに多忙を極めました。


海運業と飲食業と家庭管理が始まりました。

 

家庭のことはこれまで通りやりながら

会社が2つと家族分で通帳が15冊ほどを管理。

億単位のお金の管理業務だけでも大変なのに・・・


交際費は増え続け

年賀状は500枚超え

季節のご挨拶のお届け物は

来る数も送る数も数十になり

私1人で、裁いていかねばなりませんでした。


「お金があるからいいやん」「長男の嫁やから仕方ないな」

これが、夫の姉の言葉です。


貧乏で育った私は十分すぎる環境だと

結婚当初は感じていて

それなりに幸せでした。


生活に困らない収入があることは

お金に苦労した実家の母も

安心させることが出来ましたから。


しかし、

家庭を振り返らない夫の元で

ママ友も出来ない

自分の時間もない

気の休まる時がない

何かを1つクリアすると

また別のすることが増えていく。


耐えがたい苦痛の中

それでも、
自分が我慢すればいい。

それで何事も上手く行くならそれでもいいと

自分に言い聞かせ耐えようと決めました。


とうとう、飲食店の開業準備が進められ

業者さんとの打ち合わせが始まりました。

事業計画です。


コンセプトは「新鮮な地魚を使った海鮮料理を提供する」

その後、

夫が自作していた設計図を元に修正を掛け建築がスタート

ロゴ・テーマカラー・厨房機器の搬入から

のれん、備品、箸袋、食器の選定、従業員集め

喫茶店でコーヒーを配ったこともない私に

「女将」という役目が命じられました。


そして、私の体は突然動かなくなりました。

這いながらトイレに行き

激しい頭痛に耐えながら

寝たり起きたりを繰り返すのです。


かすかな意識で従業員が差し入れてくれた

アイスクリームとポカリスエットを飲む

そんな生活が1ッカ月も続きました。


3つ病院を回って

ようやく納得のいく診断と治療が
受けられるようになりました。

病名は「中等度 うつ病」です。

薬を飲みながら回復しては用事をする。


一ヶ月ほどするとまた激しい頭痛から

数週間寝たきりになる。


追い詰められた精神は病院の救急室で

「夫に殺されるー」
「この人は私を殺そうとしているー」

と叫んでいました。


それでも、

家庭という枠を守るためなら何でもやる。

ど素人からの出発。

私は腹をくくりました。


業者という者は

お金を出せばいくらでも提案し

仕事をしてくれます。


夫が業者の提案に

「いいね」「いいね」と直ぐ了承している様子を見て

見積もりもないのに建設費がどれくらい膨らむのか

考えもないんやろなと言う不安と腹立ち

また、

飲食店や宿泊業務は複数の行政機関か許可を得なければなりません。

委託した建築会社は何もわかっていないようでした。


申請が出来ていないと通知が来ては

幾つも指導や許可証を届けに行くのは私。


紹介された料理人とメニューの打ち合わせ

夫とケンカが耐えない日々

店を有名にしたい夫
地域の人に愛される店にしたい妻

始める前から経営方針は違っていました。


3ヶ月前から、

テントで土産屋を始め

オープン予告のチラシを配りました。


オープン前日は

練習をかねて地元の方々を集めて

注文を頂き、無料で食べて頂きました。

接客や料理に感想を頂き明日に備えました。


オープン当日はロゴ入りのライターを用意して

お客様に配りました。

覚悟を決めてユニフォームを着て接客に当たり

従業員を励まし、労い、

「これからよろしくお願いします」と

改めてあいさつをしました。


それから、2ヶ月後

東京に住む兄から

「母ちゃんがもう何日も持ちそうもない、会いに来るなら早く来い」

と言う連絡。


夫に相談したら

「勝手にしろ」と言われました。

子供・お姑さん・オープンしたばかりのお店・東京は遠い

私が不在の間どうなるんだろう。


あの時「なにも心配せんでええから行ってこい」と

背中を押して欲しかった!。

そうすれば何の迷いもなくいけたのに・・・。


私は、嫁ぐ日まで母と苦労を重ねてきました。

母がC型慢性肝炎とわかってからは、

ゆくゆくは癌へ移行することはわかっており

残された10年余を2人で闘病生活に

全力で取り組みました。


昨年末、

子供を連れてお見舞いに行き

今生の別れを告げていた私です。


もう、冷静な判断は出来ませんでした。


その後、お葬式の為

東京で火葬し骨壺を持って

帰省する兄に合わせて

私と夫と子供2人で里帰りをしました。


後始末をし

一端島へ戻りお店に出て

49日をして再び島の生活に戻りました。

一周忌の時は夫は居ませんでした。


話を戻しますと

経験豊富で同じ年の料理長に

考えや思いをぶつけて精進の日々。


「自分が出来ないことは人に教えられない」と決めて

何でも率先してやりました。


1年~2年と周知され

土日の営業は行列になっていきました。


宿泊が始まる頃には

私の女将姿も板についたと

言って頂けるようになり

段々と営業の楽しさが実感出来るようになってきました。


お客様とのコミュニケーションや

電話でのやりとり

業者との交渉事も

心を通わせた上で落としどころを探る。

そんなやりとりに醍醐味も感じるようになりました。


ローカルを中心に映画のロケや取材も増え

認知度も徐々に上がっていきました。

特に看板メニューになった

島の天然穴子を使った「穴子重 限定30」と

花街で栄えた歴史になぞらえた「花魁撒き(海鮮太巻き)」は

大人気。

自分のアイディアが当った喜びは成長の証と

自分でもうれしかったことを覚えています。


ところが、

人生最大の驚きに見舞われたのです。

料理人を宿舎に住まわせていたのですが

ある朝、弟子から社長に電話が

「おやっさんが死んでます!」

ただ事ではない夫の様子に「何事かと」問うと

「料理長が死んでる」と


生まれて初めて”腰が抜ける”と言う経験でした。

余りの驚きに足に力が全く入らず

数分間立ち上がれなかったのです。


立ち上げから関わり

素人の私を形有る者にしてくれた料理長の

突然の死は、

お店の先行きと

残された料理人を不安にさせ

私を絶望へ突き落としました。


当時も寝たきりの私でしたが

彼への恩返しと奥様へ感謝とお詫びを

伝えるべく何とか葬儀に出席しました。


夫にも「社長として行くべきだ」と注進しましたが

「次の料理長を探す。あいつは最初から気にくわんかった」

といって、私1人で行きました。


彼の実力や経歴を認める業界の方々

内のお店の建設に関わった人達と

久しぶりに顔を合わせ、

「彼には感謝しかない。申し訳ないことをした」

と言いました。


お子様が高校生と大学生

奥様の心痛計り知れぬと思うと

顔を合わせいたわり合いながらも

二度と会うことはありませんでした。


結局、社長の人間性が調理師会で噂になり

あの店には料理人は紹介しないと

厨房機器販売の営業から聞かされました。


うつ症状の発作が絶えず

料理長の突然の死で

私は寝たきりになりました。


夜遅く帰宅して

夕食を食べ散らかした後を片付け

売上や取引伝票など会計業務を終わらせ

1時間だけ煙草を吸いながら映画を見るだけが

唯一の楽しみ。


そんな生活でしたが

まだ私の夜は終わりません。


SEXです。


私が仕事をしている間に

夫は焼酎を飲み、

子供に私の悪口をいいながら夕食を食べ

うたた寝する。


やっと用事を済ませ

ベッドに入った頃、夫が起きて

要求してくる。


たばこと酒と17才も年上で加齢臭?

何とも耐えがたい口臭を放ちながら

要求してくるのです。

嫌がれば怒鳴られます。


とうとう私は言いました。

「マグロでもいいですか?」

「いくらわしでもマグロなんか抱かんわい!」


これで、夫婦関係も切れたのですが

私は部屋を追い出され

お姑さんが施設に入るまで

寝ていた仏間に移りました。


そこで私は深刻な長期寝たきりになりました。


大学入試を控えていた娘は

当てに出来ない私に見向きもせず

父親に洗脳されていきました。

息子は大人しく誰にも逆らえず

たった一度私に「大丈夫?」と・・・


最後の拠り所、兄へ電話をしました。

「私、このままやと何も与えてもらえんから死んでしまう。
誰の役にもたたんのなら死んでもいいかな・・・」

すると

「自殺だけはだめやぞ、子供のために元気にならないかん。
人生をリセットするために入院した方がいい」

とアドバイスをくれました。


その言葉がどれだけ励みになった事か!

「いきてもいいんやぞ」

そう言ってくれたようでうれしくて

涙が止りませんでした。


社長の意向で、

残った弟子が営業を続けている

と言うことでした。


「実力の伴わない人間に任せても長続きしないから
ちゃんとした料理長が来るまで店を休もう」と

提案しましたが無視されました。


私は、残った者で上手く料理が回せるように

単品メニューを減らし

御膳で利益を取れるように

弟子と打ち合わせをした後

子供達に入院の事情を話して

広島の専門病院へ入院したのです。

45才の夏のことでした。


経理が全く出来ない夫は

見舞いではなく

会計業務を私にさせるべく

病院を訪れました。

子供は連れてきて貰えませんでした。


それでも・・・それでも、

従業員と家庭が維持できるならと

悔しい気持ちを抑えて入院中も業務をしました。


一ヶ月経つ頃、随分と楽になりました。

Dr.が離婚したらと言ってくれましたが

実家はもう誰も居ない。


子供と一緒に居たい一心で

「家に帰ります」といって退院しました。

もう二度と店にはでないつもりで・・・


しばらくは感情不安もあり、

激やせして体力もなかったので

店には近づきませんでしたが

皆が喜んでくれたのが有り難く嬉しかった。


秋の行楽シーズンを向かえようとする時期に

弟子が1人辞めていきました。


社長が家に帰ってきてから言うことには、

「僕は料理長を慕ってここに居たのであって、女将さんが帰ってきたのなら僕はもう辞めます」と。

「家出同然のお前を雇ってやったのはわしじゃー」

と言ってしまえば

元には戻りませんよね。


それから数日経ち、

広島で料理長の経験がある地元出身の人が

雇って欲しいと来ました。


前の料理長の弟子が残って

1人で苦労していましたし

有り難いお話でした。


弟子が1人辞めてしっまたり

従業員からお店に戻って貰いたいという

言葉を聞いていた私は

これを機に復帰することにしました。


団体客を断っていたこともあって

秋の行楽シーズンはどうにか

乗り越えることが出来たのです。


しかし、残っていた弟子が「辞めたい」意思を

ほのめかしてきていましたので

次が見つかるまで居てくれるようにお願いしていました。


年末年始の営業間近い12月中旬でした。


そして、事故が!

彼が雨のひどい夜、

自宅に帰ろうと会社の軽トラを運転していて

スリップ事故を起こしたのです。


電話は夫にかかりました。が、

「あいつが勝手にしたことなどしらん」といって

無視するので、急いで現場へ向かいました。


知り合いの自動車修理工と警察へ連絡し

レッカーを呼んで事情徴収と後始末


一連の手続きを済ませた翌週


新しい料理長から一本の電話が!

「あいつの部屋がもぬけの殻でっせー」

「何ーーーーーー!?」

夜逃げでした。


もともと、平日は

レギュラーは料理長1人、弟子1人、

パートのホール担当のお姉さんが2人。

土日祝日は

洗い場のお兄ちゃんが1人

島なので高校生のバイトを4~5人で

回していました。


ところが夜逃げです

年末年始の営業に料理超1人と女将の私。

とうとう私は米をとぎ、野菜を切り

料理人見習いで、
揚げ方と煮方 兼 指示だし

を担う事に・・・


それでも、


みんな着いてきてくれました。

多忙を極めた中、

まだ来て浅い料理長も

いらつきながらも活魚を捌いてくれました。

色々教えてくれました。


冬休みが終われば閑散期です。

収容人数80人の店

採算を取るなら月収400万以上は必要です。

それを埋める営業をするなら

料理人がどうしてももう1人必要です。


しばらくして

「社長が1人面接に行くんだが、一緒にきてくれんか?」
というのです。

腑に落ちん。

「雇って欲しいなら向こうからくるべきやろ」と言って

私は相手にしませんでした。

そして

1月の下旬、橋で繋がった1つ向こうの島から
社長が1人の男を連れてきました。

「マジメで大人しそう。できるんやろか?」

第一印象はそんな感じ。

ところが

この方、厨房に立つと全然違ってたんです。

「出来る!」と直感しました。

ここへ来たわけを聞いてみると

「俺は来たくて来たんじゃない。そこまで言うなら、
売上の立つ店になるかどうか見て働くかどうか決める
っていうやんじゃ」と言うのです。

社長が言ってた事とは真逆でした。

今までもそうでした。

社長に近寄ってきた人は、社長の夢物語に乗っかって

一稼ぎしようという人達ばかりでした。

まるめ込まれた社長が

お客に「女将に話をしてみてくれ」と

私に合わせるのです。

従業員皆で、社長はおかしい。

怪しい人ばっかりと仲良くなる。


営業だけでも結構苦しいのに

余計なことばかり起こる。


そんな中、

料理長と新しい料理人の不和が起きました。

肩やサラリーマン
肩や職人気質

ぶつかるのは自然の流れだったかも知れません。


とうとうどちらかを選ばざるを追えない状況になり

私はここへ来るまで別の店で料理人をしていた

職人気質の人を選び、料理長に給料の減額を告げました。


彼は、時間の延長をとても嫌うサラリーマンスタイルを貫いて

しかし、ゴールデンウィークが終わるのを待って彼は去りました。


その頃も寝付くことは毎月ありましたが、

残った料理長が、従業員を上手くあしらうので

店も明るくなり、お客様も増えて来ました。


新しく任命にした料理長と女将の2人3客の営業が

始まりました。

社長は私が楽しそうに仕事をしているのを妬いていたのでしょう

いつも駐車場の売店で私を監視しているようでした。


難しい判断は全て私に丸投げしておきながら・・・


観光協会の事務局長をやらされた時にできた人脈で

お客様を紹介して貰ったり

取材が来たり

ドラマや映画のロケ弁や撮影スポットを教えてあげたり


地域では、法事をする場所や送迎バスがない

夜の見たくても行くところがないという需要を満たしてくれる

と言う思い出で使ってくれる人が増えはじめました。


「女将があれだけ頑張ってるんだから、わしらも応援しようじゃないか」

最初は敬遠していたり

来ては無理を言ったりしていた

地元の人達にも受け入れられ

オープンして6年目の夏、初めて黒字になりました。


私は、過去に

社長の友人を家に送っていく途中で

襲われたことがありました。

しかし

夫として同乗してくれなかったことや

私より友人と不仲になる事を怖れ何も言えなかったことなど、

もう経営者としても夫としても冷めていました。


もう、「自分の思い通りにやる」と決めてから

消費税8%に合わせて値上げと大幅にメニュー変更。

眺望備品も配置換えをして、少人数で以下に効率良く

料理が出せるかを考え、料理長に提案したり

また、料理長のアイディアを取り上げ

パートさんやバイト高校生でも

何でも疑問や提案、私が間違ってることをしたら

どんどん言う様に声を掛け、

これまでになく活気のある店になっていきました。


しかし、
逆にひがんでいく社長

従業員に優しくしない夫は嫌われていました。

社長という肩書きだけで尊敬するよう強要していたのです。

彼が現れると変な空気が漂いました。


店が繁盛すればするほど彼の怒りは家庭内で爆発することとなり

私が家に帰ると

玄関の鍵がかかっていたり

「お前のせいでわしから人が離れていく」

とか

「お前のせいでわしは不幸になる」

「なんでわしが子供の飯の支度をせんならん」

と言って自分の家なのに門前払いです。


裏口からこっそり入ってこっそり寝るようになりましたが

今度は

ある日布団がなくなっていました。

息子が「お父さんが片付けてたよ」と。

私は追い出される日も近いと感じながら

片付けられた布団を出して寝ました。


それでも

「子供から離れたくない、子供の将来のために離婚はしない」

と、決めて店の売上を上げることに励みました。


「じゃらん」という宿泊サイトをご存じですか?

民宿部門で年間ランキング2年連続1位

にもなったんですよ。


生き方のステージも価値観も人間性もかけ離れた私達は

夫が私の顔を見れば何かと言いがかりをつけ

冷静に返す私にかっとなっては怒鳴り散らす。

そんなパターンばかりの毎日のあげく

とうとう

お金にたいして言いがかりをつけてくるようになりました。


私が

・会社の金を横領している
・家の金を勝手に使った
・金の動きがまったくわからん
・こんなにお金がなくなるはずがない、と。

私は恐ろしくなりました。


私がお嫁に来てから

家計・家族の面倒は女が管理する
会社の通帳さえ見ることも相談にも乗ってくれなかった男が
今になってそれをいうか?

私がやりくりにどれだけ苦労し

子供の習い事や学校行事を伝えても

知らん顔してた男です。


自分は売店で知り合った男と東京で毎月豪遊し

儲かるビジネスがあると言って株主になる為の

投資を幾らしたか本人さえもわからない。


それを棚に上げて

手を振り上げて殴らんばかりに鬼の形相

必死に自分を支えながら店に出続けていましたが

家のあちこちに穴が空いていました。


このままでは「怒鳴り殺される」

どうせ家に居ても子供達との時間はない

殺されるよりは子供の側に居られて店も回せる。


私は店で物置になっていた場所を片付け事務所とし

自分の手持ちの財産と最低限の生活用品をもって

やむなく引っ越しをしました。


店は繁盛していますが労働は20時間。

明日死ぬか?今日倒れるか?という日々です。           

夫婦で公私混同で事業を2つ同時進行。

介護・育児。          

家庭を振り替えれない自分のいらだちと、

自分の事しか考えない夫への不満は、

経営方針どころか人間性さえも真逆になり

とうとう

離婚調停~会社の経営権を争う裁判へとなりました。


最初の1年は会社の経験を争う裁判となり

株式だったため株の保有率(社長60:女将40)で敗訴となりました。

その後も

離婚調停
離婚裁判(慰謝料・親権)
私と料理長の不貞疑い
会社資金の横領
財産分与の確定
私の名前で会社に貸した貸し付け金返済請求

家も追われ店も追われ

長い戦いが始まりました。

                            

関係が切れて別居が始まると

「この世にこんな自由で恐れの無い日があったなんて」と安堵しました

しかし別居直後は当座の資金しかなく

裁判が全て終わるまで財産分与は確定しません。


家庭崩壊の中で

東京の志望大学に受かった娘

大人しくで内気。ようやっと私学の高校に入れた息子です。


養育費は拒否され

私が賄う事になりました。


幾つもの案件にかかる裁判費用

子供にかかる諸経費

仕事が決まるまで私の収入なし

小さく古くても新生活のために必要な物もあります。

持ちだした厳禁は崩していくほか有りませんでした。


先行きの不安に駆られた私は仕事が決まるまでの

半年間の間に「副業」を調べて

「ネットビジネス」を」知ることになるのです。


4年前の4月から介護施設で看護師として

働ける事になりましたが 

しかし裁判は続行中。

解決は途方もなく遠く感じていました。


子供2人の学費と養育費に私の収入では、到底太刀打ちできません。                               

また、40代に発症した「うつ病」発作の心配で

いつ働けなくなるかも知れないという不安が大きくのしかかってきました。

その上、娘が大学院に行きたいと言いだす。

音楽家で才能があると認められここまで実績を作ってきた子。

トコトンやらせてあげたい

私は覚悟を決めました。

また

大学へ行かずに就職した息子が突然の退職宣言。

「自分を変えたい」「ちゃんとした大人になりたい」と

自立心の芽生えがなかった息子が初めてわがままを言ってきた。

叶えてやりたい。


結果、子供は2人とも東京になりました。


想定外のことって、次々に起こるんですよね。


大学院の娘は学費と生活費以外に

衣装や交際費、楽器のメンテナンス代など
付帯する出費が多く。

息子は数回の面接で自分を見失い

東京のアパートで引きこもってしまいました。

月額50万の出費生活が始まりました。


離婚裁判が6年経ってようやく終わりましたが

今年の春

ようやく娘が自立できましたが

コロナの影響で演奏会が出来ず

アルバイトも自粛等でまだまだ支援が必要


息子は、1年半の引きこもりからようやく

アルバイトを始めましたが長く続かず

そのたび家賃を送っています。


貰った財産分与はなくなりました。


4年以上物販で20万余りの利益に手取りを足して

3人分別々の生活を補うには貯金を切っていくしかありませんでした。               


                        

「生活費の不安が最も老化を進ませる」と知ったのは最近の事です。
 

 現在、介護施設で看護師として働いています。          

仕事のやりがいと同僚とのモチベーションやプロ意識の違いに戸惑う中、

昨年9月に体調を崩して一ヶ月の休職

その後1週間後の三日間の発作。

来るべき時が来たかという思いでした。


福祉に戻って良かった。これが私の生きる道。 

           

という思いとは別に

想定外の子供達への出費・

商材詐欺に遭い・行き詰まるネットビジネス。



そんな日々でしたが、

ある若い男性メンターにご縁を頂いたことから

人生捨てたもんじゃ無いという事を思い出し、

悪いことばかりじゃないなと、思い直します。    

                       

テレビで言われる物とは異なるSNSの世界。            

人間関係と同じで類は友を呼ぶということ。             

ネットビジネスで頑張っている人達が、

思い思いの前向きな投稿や切瑳琢磨している姿を見て

自分の意欲は上がっていきました。



【ネットビジネスを続ける理由は】

*生活にゆとりを持ちうつ病を軽快させる             

*私が理想とするベネフィットを目指す。

60才にライフスタイルを新しくスタートさせるという
夢に向かう決心をしたのです。


【私の人生の信念】

①他者貢献

②島に不足している商業施設・他地域から訪れる人達の受け入れる場所

高齢化過疎化の中で不便な生活を送る老人の居場所や行政と繋ぐ受け皿となる庵を作りたい。

③②が無理なら子供達のいる東京へ出てそういう事業所の一端を担える人間になる。

生きる事が苦しい人達の駆け込み寺のような場所を作る。

④泣きながら来ても笑顔で社会復帰できるような場所を作りたい。

そんな夢を講師に話して半年、

講師が「今は、ネットでも人脈を作れる時代ですと、

おっしゃられました。

ところが

私は早く結果を出したい重いが強すぎて講師の真意を理解できませんでした。

素直さ 謙虚さを見失い

教えていただける感謝も忘れてしまっていました。

自らその方と縁を切るという取り返しのつかないことをしてしまったのです!


そのため、再び独学に逆戻り





日々Twitterと向き合う内に、DMで来るリクルート。

動画投稿や様々なプロフィールを見て


「ネットビジネスは集客ができない」と収入は得られないと気づき

ならば「集客を教える人になろうと決意」します。

独学で勉強しながらプロフィールを試行錯誤。

昨年12月に「集客に特化した仕組み」をコンサルティングから

伝授されるも

「プロフィール→ツイート→集客導線への一貫性」

が保てずブランディング迷子に。



年齢と体力を考えると肉体労働には正直限界を感じています。

思考労働にシフトすべく物販を縮小し、

コツコツとSNS運用を継続していると

正直、

月10万円の返済をしながら

月収手取り20万+物販10万足らず

読む人によっては十分じゃん

て思う人もいるかもしれません。

 

これまでの苦労を乗り越えてきて、

「今度もなんとかなる」って思ってました。


お勤めを辞めて体の負担を減らそうにも

収入がなくてはやめられない。

独学では完全にビジネス迷子です。


やっぱり無理か・・・と思い始めた

今年の5月にInstagramにメーセージが!


その人との出会いで私は第2の人生輝きたい。

令和3年5月にブログビジネスを再開しました。
(再開としている理由は後に述べます)


①収入を増やして借金を返済し

②東京に住む子供達と時間を場所を共有しながら

③フリーランスとして文化的趣味を楽しみながら

④高齢者福祉事業に携わる夢を実現したい

⑤自分と向き合いやりきったという最期に向かって

ブログビジネスで稼げるようになろうと決意をしました。




それらをひっくるめて「素直じゃなかった」とわかりました。

この出会いに感謝し、ブログを使ってビジネスをする


ネットビジネスとであったことで

改めて自分を知り人生の価値観が

変りつつあるのを実感してます。

全ては自分が引き寄せた運命と受け入れて。


東京フリーランスになりたい

夢を実現する為に日々頑張っています。


よろしくお願いいたします。








脱ノウハウコレクター兼ブログビジネスで人生変える

そのみが誕生しました。












 































令和3年5月にブログビジネスを再開しました。
(再開としている理由は後に述べます)


①収入を増やして借金を返済し

②東京に住む子供達と時間を場所を共有しながら

③フリーランスとして文化的趣味を楽しみながら

④高齢者福祉事業に携わる夢を実現したい

⑤自分と向き合いやりきったという最期に向かって

ブログビジネスで稼げるようになろうと決意をしました。







それらをひっくるめて「素直じゃなかった」とわかりました。


この出会いに感謝し、ブログを使ってビジネスをする


ネットビジネスとであったことで

改めて自分を知り人生の価値観が

変りつつあるのを実感してます。


東京フリーランスになりたい

毎日希望に溢れた生活を

実現する為に頑張っています。




よろしくお願いいたします。全ては自分が引き寄せた運命と受け入れ、

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