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転落死のニュースに不寛容社会を考えさせられ淡路島のサルの協力実験に学んだこと

10/3「全盲の男性が新宿駅に線路に転落し死亡」というニュースにとても驚いた。
亡くなったのがブラインドサッカーの日本代表選手だったことも驚いたが、このニュースに驚いた理由は「あんなに人の多い新宿駅でなぜ?」という違和感。

私もよく利用する世界一の乗降者数を誇る新宿駅では、半径1m以内にだいたい2~3人は人がいつもいるはず。ホームドアだけが転落防止を防ぐものではない。自殺の可能性もあるとのことではあったが、なぜ白杖を持った人をただ安全な場所に導くことができなかったのか、そんな思いにかられた。

先日世界一安全な都市に輝いたばかりの東京。だが、人を気づかう、手を差し伸べる、声をかける、そういうことが都市機能の中で欠如している、または極端に少ないように感じる。

先日、新宿駅で人と激しくぶつかった時、反射的に「あ、すみません」と振り返ったら、相手が誰かわからなかった。右半身が真正面から、結構な衝撃でぶつかったので、気づかないものではなかったはず。
(故意にぶつかりにきたのか?)(何も感じなかったのか?)とても不思議で不気味だった。
故意だったとしても気づいてなかったとしても、相手にとって私は”人”ではなくただの障害物だったのかもしれない。そう。東京は、大都市特有の人混みのなかで、”人”として扱われない感が極端に高い場所。

同じ都市に、同じ空間に自分以外の誰かと人間として共存している感覚、誰かを気にかけることが自分やその空間に影響を与える、まさに「情けは人の為ならず」の道理感覚が、いつの間にかごそっと抜け落ちてきてはいないか? そこで思い出すのが”不寛容社会"という言葉。

不寛容性の正体

不寛容は、一つのロジックを正当化すること、つまりそれを抽象化したり、複数のロジックを想定できない、または見つけられないことが生み出す。
自身の視点や思考が、仮説やロジックの一例でしかないことに気付かない、もしくは気づいていないかのように主張し、自分の原理にこだわり、主張し続ける。こだわる理由には、価値観、保身、承認欲求、信念、色々あるだろうが、その背景はとても個人的なものごとの正当化だったりする。

ある共通の目的や目標に対し、集団が存在するときには、それこそがぶれる事なく、こだわり続けるものであり、それ以外はほとんど手段にすぎない。その手段に向かう過程において一つの視点にこだわりを持つ必要は基本的にはないように思える。成熟社会に入って久しく、共通の大目標や理想を持てなくなくなったことも、アイデンティティの複雑化・不透明化も、隣の人が自己実現の対象にないことも、不寛容のトリガーに関係しているのかもしれない。自らの思考の居場所がみつからず寛容性を求めながら、他者に不寛容になっていくスパイラルが起こっているように感じられてならない。

不寛容がもたらすもの

不寛容性が正当化される環境では、個体内コミュニケーションのロジックに集中する。それは、自己への相対的かつ客観的視点の欠如をもたらし、自己のロジックに関わらない他者への理解、そして他者からもたらされる新たな視点を受容できなくなる体質を作っているのではないか。
それはこのような現象となって現れる。

• コミュニケーション不全(フェアネス、インタラクティブ性の欠如、他者去勢の蔓延)
• 内省機能停止
•偏った想像の暴走 

個体内のコミュニケーションに終始したロジックや意識の世界に浸った状態では、
人は言葉をまるで資本主義の装置のように、差を生み出すことだけに使い、涵養や歩み寄りの方向に使うことを忘れていく。

間違い、同調できないこと、(あなたの)”普通”や”常識”と違うこと、(あなたが)理解できないこと、に否定的な感情的が生まれ(感情は思考が生み出す)、それを極度に肯定することは、なんて傲慢で不自由の連鎖を生む世界だろう、と感じる。”寂しい”人がどんどん増えているんだろう。

協力行動は、“寛容性”から生まれる

自分にはない新しい視点を取り込んで複数の理解を作り出すことを拒む雰囲気が一度作られると出てくるのは、その正義を切り崩すことへの躊躇。
団体という環境の場合、それが一方的支配構造の猿山的構造を生み出すのではないか。

だが、先日、猿山構造こそが社会であるニホンザルから寛容性についての学びがもたらされた。このリサーチリリースを見たとき、まさに今、淡路島のニホンザルが寛容性がもたらす協業の創造力を人間に改めて教えてくれているのだな、と感じた。

特に”社会の中で協力行動が起こるためには、知性の高さだけでなく、社会全体の寛容性の高さが重要である”の一文、肝に銘じておきたい。
どんなにフレームワークを駆使してもスローガンを訴えても、社会全体の寛容性を醸成できなければ協力行動が自発的に起こることは難しいのだ、と。知識を蓄え言葉を駆使し芸術を愛しながらも、得に集団になるとサル性を遺憾無く発揮することがある我らヒトですが、もっともっとヒトであることを他の動物から学びたい。

このリリースには、”ニホンザルの寛容性には地域によって大きな差がある”
ともある。自分がニホンザルだったら、どんな環境に身を置きたいか。私はやっぱり協力行動ができる淡路島のサルになりたい。

一億総中流から人口減少、格差、多様化する社会のなかで

高度成長の達成がもたらした一億総中流社会の意識は、バブル崩壊後の失われた10年のなかにさえ根強く残り、私たちを思考停止にさせてくれていたけれど、最近の「就職氷河期世代支援プログラム」の発足など、やっと現実を捉え直し見直す動きが出てきた。だが、社会制度の仕組みや評価、教育システムは、まだまだその頃あるいはそれを目指してつくられたまま。
もちろん中間層を厚くすることは、国の経済発展や安全性の確保には欠かせない。中流である意識からの恩恵もあるだろう。

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今年は、令和元年。
2010年には8000万人以上だった生産年齢人口は、2030年に6700万人ほどになり「生産年齢人口率」は63.8%(2010年)から58.1%(2030年)まで下がるという。
日本は、愛と平和、共創のベクトルに向かえるのか。ディストピアを作り上げるのか。この帰路に対する一人ひとりのアクションは重要だ。
まだまだ混乱しそうだから共通の目標は一旦おいておき都市機能の中での
• コミュニケーション不全
• 内省機能停止
•偏った想像の暴走 
自分、そして目の前の人との関係性の中で、このあたりに手を差し伸べ、問いを投げかけ、チャレンジすることから始めていきたい。


石井選手、あんなに人の多いところでどうにもならなかったのか。たとえもしご自身の意思だったとしても、どうにかならなかったのか。心からお悔やみ申し上げます。

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