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モラトリアムの最期に思うこと

もし明日死ぬとして、やり残したことはありますか?この質問は、その人物が明日に死なないことを前提として成り立っている。
本気で明日死ぬかもしれないとか、日常生活においてずっと死ぬことばかりを考えている人がいれば、その人はおそらく健常とはいえないだろう。
しかし、私はその健常ではない人間の1人であり、家までの道を散歩しているときも、音楽を聴いているときも、はたまた大切な卒業旅行の最終日においても、「死んだらどうなる?」という命題について、ずっと考えているのだ。

この問いに対し、おそらく日本人のほとんどは私と同じように答えるだろう。

人間が死んだ後にあるのは無だけだ。私がこんなに面倒臭いことを考えられるのもこの灰色の脳細胞のお陰であり、そこに血液と酸素が運ばれなくなり、機能が停止した状態では、何を考えることも感じることもできなくなる。今、この記事を読むことのできている貴方や私にも、これを認知することのできなくなる日が事実として必ず訪れる。

私にはそれが本当に怖くて仕方がないのだ。

そこで、この恐怖に折り合いをつけることのできる理由を探すため、私は死について考えを巡らせることをやめられない。

以下、死への恐怖から自分を納得させようと試みている中で、拾ったり思いついたりした考え方を羅列していく。

・ただ生まれる前の無に還るだけだから怖がる必要はない
・死を感じることのできる恐怖は生きている時にしか味わえないのだからありがたく感受するべき
・死について考えてもどうせ死ぬんだから考えるだけ時間の無駄
・死ぬのが怖いからといって、じゃあ永遠に生きられるとしたら生きたいか?
・死という期限があることで、人生が有意義なものとなっている
・なんだかんだ80くらいまで生きたら、特に死にたくないとは思わなくなる

こんなことを今日も考えているが、やはり死への恐怖はおさまらない。

この恐怖への根本的な解決策は一つしかない。それは、死について考える暇を与えないことだ。私がこんな文章をつらつら書けているのも、大学生という何の責任もなく自由に考えに耽ることのできる立場であるからに他ならない。

4月に晴れて(?)社会人になるまでのこの2ヶ月間こそが、死への恐怖という、生きているものの特権を味わうことのできる最期の機会かもしれない。今のところ時間は前にしか進まないため(いずれインターステラーのように時間への干渉が可能と証明されるパラダイムシフトが起こる日まで生きられなければ)、この素晴らしいモラトリアムが終わる時も近い。そこで、私が生きた証を残してみたいという月並みな欲求の充足を兼ねて、現在感じていることをnoteとして記録に残すことにした。

どうせ三日坊主だからすぐに更新に飽きるだろうが、それまではADHD感の拭えない、とても読みづらい駄文を世界に公開したいと思う。

今ふと思ったのだが、冒頭に死ぬことばかり考えるのは健全ではないと述べたことに対し、そもそも死への恐怖を感じられないような個体は、種を遺すことを目的としている生物として破綻しているだろう。私のように死への恐怖をつらつら述べている面倒臭い個体は、意識を獲得したヒトという生物としては最も健全なのかもしれない。

こんなことを考えながら、大好きなMI8Kさんの『タイムイーター』を聴く、とても素敵なバレンタイン・デーでした。ここまで読んでくれた方がもし居たら本当にありがとうございます。


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