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言葉、、、

(2016年ごろに書いたお蔵入り雑記#熟成記事)

海外で生活していると年に数回、「言葉って大事だよな。」
「ちゃんと語学やらないとだよな。」と猛烈に落ち込むタイミングがやってくる。そこで「よいしょ!」と一念発起始められた人は素晴らしい。
すでに何度かそのような波が私の方にも押し寄せてきているのだけど、ドイツ語に関して言うと、ん〜なんか ダメ。そもそもドイツにドイツ語やらないで来ている時点で「お前は向こう見ずのアホゥだ」という意見もあるのは重々承知している。

海外生活ー言葉の壁、文化の壁、周りは壁だらけの生活だ。
そうではあるものの、自分がその壁を乗り越えようととすれば、それは超えられない壁ではなく、ただコツコツと日々「努力」して、(もしなくても)「学習」ー「理解」、によってその壁はどんどん低くなっていっていることに気づいた。
そもそも現地での生活が、ほぼ引きこもりのような生活であっても、その土地で呼吸しているだけで、日々その壁が低くなっている。


特にこちらで会社員として毎日外に出て働くような生活形態でない私は、家で作業をしたり、家事をしている方が多いので、驚くほど自分が海外で生活をしている事を忘れている事がある。今だってこうやって、日本語で文章を書いて遊んでいるし、ご存じのようにネットに上がっている日本語のテレビ番組だってもう見きれないぐらいよりどりみどり揃っているような状況だ。

そう、全然〜どっぷりドイツ語の世界に浸かってい ない。
ナマケモノなのです。
言葉の壁も、文化の壁も、まだまだ高いように思うけど、ここで10年暮らしているだけで努力しなくても、壁はどんどん低くなってきているんだよね。
私は壁が低くなること自体は嬉しいけど、壁を超えて同化しようなんて事は微塵も考えていないから、日々、日独比較文化の思考で遊びながら生活しているだけ。


モチロン!言葉ができない事で落ち込む事は日常生活の中で多々あるのだけど、言葉ができたからって、物事は100%理解できる事でもないので、あまり考えないようにしている。
私も年に数回は、その必然性を強烈に感じたりして、時折猛烈に単語を覚えたり文法の勉強をするのではあるが、本来の語学な苦手な脳みそへの負荷が大きすぎて長続きはしない。そして、それが精神的にすごくストレスになるならば猛烈な「努力」や、語学堪能であるコトだけがすべてでないような気もして日々生活の中でゆっくり自分のペースで習得しているというのが正直なところ。

もう社会に追い立てられて、そのシステムに乗る為にアジャストする為に、強制されるような努力ならしたくないのです。
じゃァ、社会の方から見放される可能性もありますが、そこは社会性と人間関係をうまく読みながらやっていこう。。というのが私の目指す「生き方」です。

言葉はあくまでコミュニケーションツール、言葉が達者でも気持ちが繋がってない人結構います。究極、言葉が壊れていても伝わる事って結構ある。相手と気持ちが繋がっているときや、その取り組んでいるものに情熱がある時には。と、逃げてしまったかな。で、結果、海外生活で喋れない事にそんなに不安になることはない、なんか自分は結局外人で、移民で、〇〇語出来ません。”理解できまっせ!”っていうプライドだけ捨てたら意外に気楽という、だってわからなかったら「わからん」って聞けばいいし。言葉ってまるで鎧のようなもんだよな、と。子どものようにアホでそこにいる。という生活の実験中の報告でした。




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