見出し画像

4月、アパートにて。

もう1か月、一歩も外に出ていない。
この世界に生まれてきた意味が分からない。
それでもなお、地球上にある限られた酸素を取り込み、二酸化炭素として体外に繰り出し、日々地球温暖化の後押しをしているオレ。生きているかぎり、腹は空くので買い溜めていたカップヌードルを貪り食い、地球上にゴミだけを残すオレ。食べたら出るものは出るので、便器に座り汚物を水に流すオレ。地球に謝るべきだ。地球に住まわせてもらっているのに地球を汚してばかりでごめんなさい。頭を地面にすりすりして土下座するべきだ。もういっそ消えてしまおうか。そう思いながらもなんとなく踏ん切りがつかないオレ。無念。

どうしてここまでオレが思い詰めているのか。
理由は至って簡単である。
オレには【何も無い】からである。
気の許せる親友、、いわばソウルメイトも
一生一緒にいてくれや!と思える恋人も
ああ、愛しいポチよ!と思えるペットも
ずば抜けている才能も
これだけは譲れないと思える趣味も
誇り高く胸を張れるような個性も
【何も、、、無い】
そう気がついてしまったからである。
前々から薄々は気がついていたものの、薄々は本当にうすうすであり、うす口醤油を水で割って、さらに炭酸水で割ったようにうすうすだったため、さほど意識はしていなかっただけなのである。
今は昼の1時。カーテンを閉め切っているので分からないがおそらくそんなところだろう。
つきっぱなしのテレビから聞こえる演者達の笑い声がノイズと化してオレの鼓膜を揺さぶる。苛立ちテレビを消す。すると例の如く、右隣から聞こえてくる謎の言葉の数々。『一人暮らしええわー』また始まった。オレの右隣にはやばい奴が住んでいる。そいつはやばい奴の中でも群を抜いてやばい奴であり、トップオブやばい奴、やばい奴の中のやばい奴である。言葉を遮るためだけに再度テレビをつけた。というかこのオンボロアパートにはやばい奴しか住んでいない。

「ピーンポーン」
突如、玄関のチャイムが鳴った。宅配を頼んだ覚えはない。
「ピーンポーン」
また玄関のチャイムが鳴った。うるさい。
「ピンポ、ピンポーン、ピンポーン」
おいおいおいおい、誰だよ。何だよ。うっせぇよ。
「あのぉーーーーすみませーーーん!新崎さんいらっしゃいますかぁーーーー!」
甲高い女性の声がする。聞いたことのない声。そして騒音レベルに大きい。70dBほどか。掃除機かよ。
「えええーーーと!いらっしゃいませんかー!、、また来ますねーー!」
遠ざかる足音と共に過ぎ去る雑音。台風が過ぎた後のような静けさを取り戻したオレの部屋。
なんなんだあの無駄に声のデカい女は。

「ピーンポーン」
おい、またかよ。
ピンポン祭りはいつになったら終わるのか、開催されてからもう3日になる。主催者は多分というか、絶対にあの声デカ女だ。
「ピンポ、ピンポーン」
その1回目鳴り終わる前に被せるやつ止めろや。
「新崎さーん、おはようございますー!」
毎日毎日ドアの前で切り裂くような大声を出されては近所に迷惑がかかるため、ここはひとつ注意をしてやらねばと思ったオレ。仕方なくドアを開ける。
「あ!新崎さんですか?」
「はい。毎日何の用すか?うるさいんすけど」
「あ!えーと、3日前?に隣の108号室に越してきた、細越まなかと申します、引越しのご挨拶に」
「あー、、そうだったんすねどーも」
「こちらつまらないものですが、、」
そういって細越まなかは百貨店の洋菓子コーナーでの定番お菓子であるフィナンシェの詰め合わせをオレに差し出した。というか押し付けた。
「どうぞ、食べてください」
「置いといてくれれば良かったのに」
「いや、しっかり目を見てご挨拶したくて、、」
「あ、、じゃあ遠慮なく、、どーも」
「はい!どーもどーも!どーぞどーぞ!」
「はい、、じゃ、、失礼し、、」
そうドアを閉めようとしたオレの手を彼女は事情聴取に来た警察官のごとく阻止しドアの間に華麗に足を挟みこんだ。
「あのぉ、このアパートって、めちゃくちゃ魅力的な方達ばかり住んでますよね」
「ん、、?」
「思いません?3日前、2階の208号室と隣の107号室にご挨拶行ってきたんですけど、、もうウキウキしちゃって!」
うん。彼女はやばい奴だ。紛れもなくやばい奴だ。やばい奴認定証を差し上げましょう。
何を隠そう、208号室には毎日同じ時間に起き、同じものを食べ、同じ服を着るところまではジョブズなのに訥弁な【一丁前偽ジョブズ気取り野郎】が住んでおり、107号室には家具が全てぬいぐるみで、それどころか部屋中ぬいぐるみだらけで、それどころか自分をぬいぐるみ化しようとしている【ぬいぐるみヲタクサイコ野郎】が住んでいるからである。白熊のようなモコモコ部屋着がトレードマークだ。
「あーーと、ホントに見てきました?」
「はい!きちんとご挨拶を!」
細越まなかは一見、何の変哲もない普通の女性であり、顔もそこそこに美人であり、スタイルもそこそこに良かった。しかし、騒音レベルの声量とやばい奴を魅力的だというやばい感性の持ち主でもあった。
「このオンボロアパートに貴方のような女性は危ないんじゃないですか?色々と」
「え?色々とというのは、、」
「いやぁーホントにサイコ、、あ!変わった人ばっかりですからねぇ」
「ビバ!変わった人!私変わった人大好きなんですよね!」
両手を突き上げて、満面の笑みを見せる細越まなか。
「はぁ、、あの、もういいっすか?」
「あ、いや、もう少しお話ししませんか?」
「いい、いいっすよ、お菓子ありがとうございました、失礼します」
ちょっと!と言いかけた細越まなかの声を遮るように重いドアを閉めた。

薄暗い部屋に戻って考えてみるといくつか不思議な点があることに気がついた。オレは暇だったのでそれらを書き出してみることにした。

越してきた細越まなか

①ほそごえなのに声がデカすぎる。矛盾。
②オレは3日間、風呂に入っていない。そのせいで体からは鼻を突き刺す臭いがするはず。それなのに細越まなかは一切嫌がる素振りを見せなかった。それどころかまだオレと話そうとしていた。我慢していたのか。いやでも満面の笑みを見せていたぞ。恐怖。
③女性と話すことが苦手なオレだが、細越まなかとは普通に話せた。何故だ。

2022/04/16

その夜はいつものカップヌードルとフィナンシェを食べた。フィナンシェなどいつぶりに食ったかオレには思い出せないが、口全体に広がるバターの柔らかい風味がオレを気持ちよくさせた。風呂に入って床につく。心なしかぐっすりと眠れた。

「ピンポ、ピンポ、ピンポーン」
被せる頻度が上がってきてるぞ、細越まなか。
「細越でーす、まなかでーす、細越まなかでーす!煮物作りすぎたんで良かったらー!」
なんなんだ。【細越まなか】はコンビ名なのか。今から漫才が始まるのか。声デカ女は【細越】か【まなか】かどっちなんだ。
「あー良いですよそんな、、」
「あ、いや私一人暮らしなんで余らせたくなくて、困っちゃうんですよ、、なんでほんとにどうぞ!味には自信あるんで!」
「はぁ、、良いんですか?」
「もちろんです!」
「じゃあいただきます」
「いただいちゃってください!」
「ありがとうございます、、では、、」
また細越警察が来た。足を器用にドアの間に挟み込む。
「まだ、なにか?」
「はい、、あのぉー、、つかぬことをお聞きしますが新崎さん、消えてしまいたいと思ったことありますか?」
あれほどまでに騒々しかった声量が一気に下がった細越まなかの様子を見てオレは思わず怯んでしまった。
「はい?」
「この世から消えたいって思ったことありますか?」
「、、、それは、ど、どうゆう、、」
「あ、いや何でもないです、失礼しました!また!」
急に起こった出来事を処理する間も無く、事情聴取は終わっていた。いつもの笑顔に戻った細越まなかの顔を見て、何故か安心していたオレ。

部屋に戻り、煮物をレンジで温める。
レンジの中でくるくると回る煮物を見つめながらオレはさっきの質問を頭の中でぐるぐると巻き戻しては再生する。うむ。そしてカップヌードルと煮物をつつきながらメモを取った。

煮物届けた細越まなか

・さっきの質問の意図は何だ
・一瞬笑顔が消えたのは?
・分からない
・そもそもオレはなんでこんなメモを書いている

2022/04/17

細越まなかのつくる煮物は、食べる手が止まらないほどに美味かった。味が染みた蓮根に大根。柔らかすぎず硬すぎない人参。鼻を突き抜ける椎茸の風味。カップヌードル生活に慣れ味覚認知機能が狂ってしまっているオレの舌には少しばかり刺激が足りない味であったものの、その薄味がどこまでもやさしく包容力がある味で、また食べたいと思わせてくれるような味だった。

翌朝、何故か早く目が覚めた。
細越まなかにもらった煮物の皿を返さなければ。
洗い物がうんずくたまと溜まったシンクで久々に皿洗いに勤しむ。朝から皿洗い。割に合わないが新鮮だ。気分が良い。
せっかくだからカーテン開けてみるか。
「うわっ、ちょ、、」
思わず目を覆う。綺麗すぎて恐ろしいくらいに青く澄んだ青空に燦々と輝く朝日。某スーパーモデルだったら生活感のない馬鹿みたいに綺麗な部屋でこの朝日を浴びながら白湯をコップ一杯飲み、なんちゃらかんちゃらとゴマとマカをミキサーでぐちゃぐちゃに混ぜた謎スムージーを嗜む画が映えそうだ。しかし朝日が照らし出したのはここ1か月放置したままのカップヌードルのゴミと埃まみれのスーツ、テレビ、布団。それに脱ぎっぱなしの下着達だった。ついでにパンツ一丁のオレの腹の臍に光るゴマ。我が家のゴマは、オレの臍のゴマだ。どうだ、スーパーモデルよ。服の山から無作為にグレーのジャージを選ぶ。
「よし、行くか」
なんだかんだで1か月ぶりに外に出る。といっても隣に行くだけ。2メートルも無い。

ドアを開けると、部屋の前の換気扇の上に鍋が置かれているのが目に入った。鍋には四角い付箋が貼られている。

4/8
茄子の煮浸し、残り。
今日は一日家を空けますので、こちらに置いておきます。置きっぱなしだと煮浸しがヒタヒタどころかビタビタになってしまうのでお早めにお召し上がりください。

細越まなか

今度は茄子の煮浸し、、なかなかいいセンスだな、、というかまた残り物!?しかも部屋の前に食べ物置きっぱってどういう神経してんだよ。皿はどうしようか。帰りの時間がわからないだけにどうしようもないな。煮浸しを右手、皿を左手に持って部屋の前を右往左往した挙句、オレは細越まなかに"仕返し置き付箋"をすることにした。

4/8
煮物、完食。
あの、家の前に置くくらいだったら自分で食べたほうがいいのでは。皿、置いておきます。煮物はうまかったです。煮浸しはピタピタくらいでしたが、勿体無いのでありがたくいただきます。

新崎

4/10
豚汁、残り。
ピタピタでしたか、、予想外でした。
お皿綺麗に洗っていただいてありがとうございます。ウキウキルンルン気分です。

細越まなか

4/11
豚汁、完食。
あの、家の前に置くくらいだったら自分で食べたほうがいいのでは。カップヌードルとの合わせ食いはお腹がチャポチャポになるのでおすすめしません。

新崎

4/12
回鍋肉、残り。
カップヌードルとは食べないのでご安心下さい。隠し味入れてみました。

細越まなか

4/13
回鍋肉、完食。
回鍋肉は好きな食べ物ベスト12なので、さすがに興奮しました。隠し味は蜂蜜のような気がしました。

新崎

オレの”仕返し置き付箋”作戦はなぜか交換日記のように数日間続いた。
細越まなかは引っ越しの挨拶以来、家を空けることが多くなった。70dBの声も聞かなくなった。忙しいのなら置き飯も、置き付箋も要らないのに。

「んんんんん!、、、ふぁぁぁぁー」
何故か最近、朝起きることが気持ち良く感じている。ベランダに出てみたりもする。少し冷たい朝の風はなかなか気持ちが良いもんだ。このアパートはオンボロだけれども、立地と日当たりが良く、都内を一望できるようになっている。オレもこのアパートを買い始めた頃は毎日のようにこの景色を眺めていたなぁと思い出した。石川県のど田舎から上京して希望に満ち溢れていたあの頃。今となっては懐かしい。

その時ふと、左の方からタバコのにおいが立ち込めてきた。このアパートは禁煙だ。やばい奴が集まっているがこのルールは誰1人として破らない。それがまた奇妙なのだが、恐る恐る左隣を覗いてみる。すると、タバコを吸いながら遠くを見つめる細越まなかの姿があった。
「あ、、、」
今日は家にいるんだと思ったのも束の間、思わず出てしまった声。それもそのはず細越まなかは目から大粒の涙を流していた。それらは朝日に煌めくビー玉のようだった。すすり泣く訳でも、子供のようにわんわん泣きじゃくる訳でもない。澄ました顔をしているのに、瞳から次々に涙が溢れている。
あの満開の笑顔を見せる細越まなかの姿はどこにも無く、無表情のロボットが泣いているようにも見えた。降り注ぐ朝日に照らされた細越さんの顔は透き通る白さで、細い産毛が金色に輝いている。対して薄い唇からすっと吹き出るタバコの煙は薄黒い灰色である。
オレは何故か慌てて回鍋肉の空き皿を持ち部屋を出る。向かうは108号室。

「ピンポ、ピンポ、ピンポーン」
「あ、、新崎でーす、タケルでーす、新崎タケルでーす!回鍋肉のお皿返しに来ましたー!」
こんなに大きな声を出したのは何年ぶりだろう。覚えていない。何がそうさせたのかはオレにはわからない。
「えー!新崎さん!?はい!はーい!ちょっと待ってくださいねー!」
中からは70dBほどの大きい声が聞こえて来る。最近は付箋での会話ばかりだったから何だか懐かしい気分になった。玄関先で待っているオレ。なかなか細越さんは出てこない。オレはいろんなことを考えていた。流れる涙が止まらないのだろうか?タバコの匂いを消すために歯を磨いているのだろうか?気持ちの切り替えをしているのだろうか?
「ごめんなさいー!わざわざ!いつもの所置いといてくださればよかったのに、、」
「いや、、、今日は朝出て行かれないんですか?」
「あーー、はい、よく分かりましたねぇ!びっくり!」
「最近付箋上の会話ばっかりだったから、、なんか久々っすね」
「確かに!確かに確かに」
「なんだかんだで残り物のお礼、伝えられてなかったんで。煮物も煮浸しも豚汁も回鍋肉も、めちゃくちゃうまかったっす」
「でしょーー、んふふっ。ありがとう」
「オレ、この一ヶ月カップ麺オンリーだったんで、マジで染み渡りました身体に」
「うわ、もっと残り物作らなきゃ」
「いや、そーゆーので言ってないんで」
「分かってるって!」
天を仰ぐようにして笑った細越さん。ふと見えた鼻の下は乾燥して赤くなっていた。いつからベランダにいて、いつからタバコを吸って、いつから泣いていたんだろう。どのくらい泣いていたんだろう。
「んじゃ!また置いとくね!明日も朝早いからさ」
そうドアを閉めようとした細越さんの手をオレは事情聴取に来た警察官のごとく阻止しドアの間に華麗に足を挟みこんだ。
「えーと、、あの実はオレさっきベランダ出たんすけど、、」
「はい」
「あのータバコ、吸ってましたよね?ベランダで」
「はい、、あ、このアパートダメでしたっけ!うわっ!ごめんなさい!」
「いや、別にそれをそんな咎めるつもりないんですけど、、」
「あぁ、、」
「あの、つかぬことをお聞きしますが、細越さん。さっきなんで泣いていたんですか」
オレは空気が読めない。そしてデリカシー無し男でもある。心で思ったことをストレートに言葉にしてしまう。そういう悪い癖がある。細越さんは驚き、少し困惑した表情を浮かべた後、いつもの笑顔に戻ってオレを見た。
「あの、、今からお時間大丈夫ですか、、?」
「え?あ、はい、いっつも暇なんで」
「じゃあ、どうぞ」
そう言って細越さんはオレを部屋に招き入れた。
オレは抵抗する間も無く、部屋に招かれた。いとも自然に、簡単に。胸がドギマギした。そして歯を磨いて、風呂に入って、髭を剃っておいて良かったと心から思った。
部屋の中は女の部屋って感じがした。
でも声デカ女の部屋ではなくて、声ホソ女の部屋な感じがした。
家具や家電が綺麗に整理されていて居心地がいい。小さなラグは淡いピンク色で、ベッドは白色。木製のまん丸い壁掛け時計。壁にはたくさんの写真が貼られている。ほんのりと香るムスクの香りと微かなタバコの匂いが鼻腔をくすぐる。
細越さんの声はdB数がかなり下がったようだ。胸のドギマギはさらにひどくなっている。早く帰りたい。
「お待たせです、緑茶です」
「ありがとうございます」
「あの、、さっきの話、、なんですけど」
「あぁ、、」
「ふぅぅ、、、」
細越さんは深く息を吸って、ゆっくり、長く息を吐いた。そしてたくさんの写真が飾られていた壁の下にある棚を指差した。
「あれ、何かわかります?」
視線の先には円筒状の箱が置かれている。
「あれ、骨壷です」
「骨壷?ですか、、」
「私、夫を亡くしたんです」
「、、あえ?」
「今から1か月前くらいかな、火事で」
オレは足を踏み入れてはいけないところに足を踏み入れてしまったようだ。そしてあまりの自分の愚かさに心から自分を憎んだ。
「ここに来る前も似たようなアパート住んでて、私たちフリーランスでカメラマンやってて、お金なかったから、大体この部屋くらいかな、2人で住んでたんです。その日は私遠くまで撮影行ってて帰りが遅くなっちゃったんですよ。それで最寄り駅着いて家帰ろうと歩いてたらサイレン聞こえて、なんか人だかりできてるし、何かなーって思ったらうちのアパートで。近づくたんびに嫌な予感が全身に回って。火の元見たらうちの部屋だった。そこからのことは記憶にないんですよね。思い出したくもないというか、、でも彼のことはいつも思い出したくなります。思い出すというか常に一緒にいる感覚ですから。彼の好きな銘柄のタバコを吸う時、彼を1番近くに感じられるんです。」
そう言って細越さんはジーンズのポケットからHOPEを取り出した。
「あ、、あ、あの、どうしてそんな、、こう、大事な話をオレなんかにしてくれたんですか」
「んんんん、なんでだろう。誰かに聞いて欲しかったのかもしれないですね」
そう言って細越さんは静かに泣いた。
「私にはもう【何も無い】。あの人が全てだったから。あの人がいてくれるだけで良かった」
言葉を詰まらせて何度も細越さんは言った。

細越さんが泣いたり、泣き止んだりを繰り返している中、オレは自分がどれほど阿保で馬鹿でどうしようもない奴なのかを考えていた。1か月前、就職活動が難航し、ただそれだけで何もかも面倒になり、勝手に自暴自棄になり、勝手に社会から自分を切り離し、自分には【何も無い】と嘆いていた。【何も無い】と言い聞かせていた。【何も無い】と思った訳は単純で、強欲にあらゆるものを欲しがっていたからだ。親友も恋人もペットも才能も趣味も個性も。オレは大切なにかを持ったこともなければ、失ったこともない。何かひとつだけを大切にすることも知らない。だから大切な何かを失くした時の感覚が分からない。オレの言う【何も無い】には中身が無くて、軽くて、チンケなものだけれども、細越さんが言う【何も無い】は重く、どこまでもデリケートなものであるのは直感的に理解できた。
「これ、火事の原因なんです。タバコ」
「え、」
「タバコの消し忘れ」
「そうだったんですか」
「夫が亡くなって、吸ってるとふと思っちゃうんですよね。これ床に向かって手、放したらどうなるかなって」
「ダメですよ、それは」
「うん、分かってる。私にはそんな勇気無い」
「前に、細越さん、オレに聞いてきたじゃないですか。消えてしまいたい時あるかって」
「うん」
「オレ、全然辛さとか違うと思うけど1か月前、就職活動失敗しまくって腐ってて。そんで不貞腐れて引きこもっててずっと。もう消えてえなぁって毎日思ってました。でもやっぱそんな勇気無くて。なんかいざ覚悟決めてやろうとするんですけど、怖いんすよね。まだやれることあるんじゃないかって、心の隅の隅で思ってるんでしょうね。諦めきれないというか。一丁前に、今まで生きてきた自分に失礼だろとか思っちゃうんすよ」
「うん、分かるよ。すごく分かる。私だって今もずっと考えてる。だって生きる意味を失くしたんだから。でも、なんか、そこで消えるのは違うって、心の隅の隅にあるような気がしてきたよ」
「でも、オレ、今はそんな風に思わないんすよ」
「え?」
「細越さんと話すようになってから、なんか全然そんな風に思わないんすよ、思えないんすよ」
「どういうこと?」
「多分人間にとって1番の恐怖は孤独でいることで自分の周りから何も無くなる。誰もいなくなるってことだと思うんですよ。オレ、細越さんと初めて話した時、つまりは一昨日。1か月ぶりに人と話したんすよ。それで昨日、煮物持ってきてくれましたよね?あの夜煮物食いながらオレなんかじわーーって感じしたんすよ。うまく言えないけど」
「じわーーってしたんだ」
「そう、じわーーって。ずっとこの煮物食い続けたいな。煮物食うために生きててもいいなって」
「ふふっ、それは大袈裟ですよ」
「うん。でも、ほんとにそんくらいこの煮物は美味かった。味もだけど心も美味かった、あんなに声デカい女の人が作ってるとは思えないくらい」
「ふふ、、ありがとう、、実はね私昔から変わった癖があってね。心に余裕が無くなるとね自然と声がデカくなるの。運動会の走る前とかね、高校受験の前とかね、不安に押しつぶされそうになるとデッカい声出ちゃうんです。なんだろ、空元気っていうのかな。無意識に防衛しちゃうんですかね身体が。ごめんね、めちゃうるさかったよね」
「ああ、まあ、、いや、、でもおもしろかったですよ」
声デカ女には声がデカい理由があった。そしてやばい奴でもなく、普通の女性だった。
「あの、、定期的にここ来ても良いですか?」
「え?」
「オレ、もう一回やり直したいんで」
「ん」
「もう腐るのはやめにしたいんで」
オレはすっかりぬるくなった緑茶を一気に流し込んだ。

「細越さん、また話しましょう」
「うん、そうですね」
「お互い踏ん張って。じゃ」
「じゃあまたね」
「あ!豚汁待ってまーす」
「あ!はーい」
「じゃあ、、」
そうドアを閉めようとしたオレの手を彼女は事情聴取に来た警察官のごとく阻止しドアの間に華麗に足を挟みこんだ。
「新崎さん、ありがとう」
そう言って笑った細越さんの笑顔は今までに見たことがない笑顔だった。その時初めて今まで見ていた笑顔が無理に作られた笑顔だったことに気がついた。

翌朝、けたたましいサイレンの音で目覚めた。
オレの部屋はいつもより煙臭くて、一目散に外へ飛び出した。火事だと気付くまで10秒もかからず、これが人間の防衛本能かと冷静に思ったりもした。オレの部屋の前には、お椀一杯分の豚汁が置かれていた。ただ、そこに付箋は無かった。急いで階段を駆け上がる。

アパートの下には、住人達が轟々と音を立てて燃える出火元の部屋を見上げている。個性的な住人達。今なら可愛らしく思える。
消防隊員が、懸命に消火活動を続ける。
一向に消える兆候のない火。
出火元の部屋は、オレの隣の部屋。
108号室。
細越さんの部屋。
消防隊員が何かを叫んでいる。
オレは見慣れた東京の風景を背に、もう一度眠りにつくとしようか。
「ありがとう、細越さん」

この記事が参加している募集

イチオシのおいしい一品

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?