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捨て石は、青く輝く

私は沖縄戦で米軍が上陸した村で生まれ、
数年前に引っ越したのは普天間基地のすぐ近く。

これを偶然と思えず
なにか使命を与えられている気がして、
博物館へはよく沖縄戦関連の資料を見に行ったりしていた。
琉球王国の華やかな装飾品から一転、日用品がたちまち色味の無い軍払い下げのブリキ製品に変わるのがいつ見ても衝撃的だ。

そんな中、noteの『読書の秋2021』企画で
《敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻》
という書籍と出逢う。

著者の古谷経衡先生のことは
お恥ずかしながらこの本で初めて知ったのですが、
臨場感のある文章を追っていくと、自分が本の中に浸かってしまう、久しぶりにそんな感覚を味わうことができた。

インパール、沖縄、岩川飛行場を
自分の足で訪れ取材される方とは、
厳格な歴史学者か、
はたまた屈強なバックパッカーなのか…
私はあえて検索などせず、古谷先生を想像しながら読み進めていったのでした。


軍国主義の日本、強い制約のもとで
中央からの理不尽な要求に正論で抵抗し、

最後まで合理的精神を持ち続けた
《敗軍の名将》たちにスポットをあてつつ、日中戦争、連合軍、ソ連など複雑な第二次世界大戦の背景を丁寧に解説している。

古谷先生が戦地に赴く際の、空気感のある描写が
自分もその地を訪れたような錯覚をしてしまう文章表現がとても魅力的な一冊。


名将たち

*インパール作戦

佐藤幸徳さとうこうとく中将
部下の命を守るため、軍法会議での死刑も恐れず上官に逆らい撤退行動をとった。

宮崎繁三郎みやざきしげさぶろう少将
現地住民に対し、横柄な態度は取らない姿勢が好感を持たれ食料などのを受けていた。一人の餓死者も出さず撤退に成功させた。



*沖縄戦

八原博通やはらひろみち大佐
上官や大本営の方針とは違う防衛計画《戦略持久》を考え、陣地に誘い込み狙い撃つ戦法で米軍上陸から一ヶ月、圧倒的戦力の米軍を五分五分で抑え込んだ。



*特攻

美濃部正みのべただし少佐
日本海軍航空部隊で唯一特攻を拒否し、終戦まで一機の特攻も出さなかった。
死を恐れているのではなく、勝算があっての特攻でないと意味がない、
飛行機一機作るのと、優秀なパイロットを一人養成することは天秤にかけるまでもない、
という考えの持ち主。

ちなみに私は本作の中で一番、
美濃部少佐の言葉にしびれ、ファンになってしまったので、美濃部部隊の拠点である鹿児島には今後絶対行くと確信している。


インパールを知る

インパール作戦とは…
イギリス領インド帝国、北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦。
20日分の食料や武器を持って行軍し、尽きたら現地調達。
コヒマはインパール北方100kmの山岳地帯で、日本軍が進出した最大限界地。

私が初めて知った事実は、コヒマへ向かうインパール街道は、現在も戦中と変わらず険しい道であること。

アスファルト整備がされず、雨季で大きな水たまりがあり、トヨタSUVでも平均時速30kmしか出せなかったという記述だけでも、インパール作戦の無謀さが伝わった。

現在でもインパール攻略はこれほど難しいのに、
日本兵は食料や武器など36〜60キロを担いで、ほぼ登山に近いことをしていた。多少の訓練はあるとはいえあまりに酷すぎる。



そして、古谷先生のインパールの旅。
《インパールの三ツ星ホテル》では
湯をひねると冷水が出ることを気にしたり

《コヒマ最高の宿》にはドライヤーがなく
家電量販店へ買い求めに行く姿に、ものすごく親近感を抱いた。

あまり『屈強な』方ではなさそうだ。


当初、反対の多かったインパール作戦は
どのように実行され、どんな問題に直面し、
撤退を図った佐藤幸徳中将は何を考えていたのかも細かく書かれていて、戦史の知識がなくてもじゅうぶん理解できると思う。

印象に残ったのは
撤退時に高低差のある険しい道を進む際、
歩くのが困難になった兵は鉄帽、
防毒面、小銃を捨てたが
飯盒と呼ばれる野外用炊飯器は捨てなかった、
という一文。

お国のために命を捨てるのが当たり前とされた時代に
生きる希望を捨てなかった、
命の大切さに気づいた瞬間、人は人間らしさを取り戻すのだと私は思った。
当たり前の道徳心が変わってしまう、
これが戦争なんだと改めて恐怖を感じた。


***


沖縄県民だけの戦いではない

沖縄戦とは…
フィリピン、硫黄島を攻略したアメリカは、台湾ルートと沖縄ルートどちらで枢軸日本を攻略するか考えた結果、台湾は面積が広く米軍の損害が大きいと判断し、沖縄ルートを攻めることを決定した。

しかし当時、米軍上陸が台湾なのか沖縄なのかは大本営にとって未知数だった。

沖縄戦については小学校から平和学習をしてきて、授業の一貫でガマと呼ばれる防空壕へ行ったり、戦争体験者の話などを聞いたりとだいぶ分かっていたつもりでいたが、私は日本兵の目線での《沖縄戦》を知らなかった。

沖縄戦では兵力の増強も、弾丸の補給もなかった。


大本営はいつも嘘つきだ。

インパールのときも補給はもうすぐだと言いながら
手配すらしていなかったし、沖縄への兵力増強を渋った。

兵力が少ないため、八原大佐は奥地に誘引してから撃退する戦略持久を考えた。
しかもそれが序盤ではうまくいっていたのに、大本営から総攻撃の命令があり従わざるを得なくなった。
こんな理不尽なことはない。


総攻撃が決定した際、長勇参謀は八原大佐に
『一緒に死のう』と言ったのだが、なんて悲しい言葉なんだと思った。


『日本軍は神の軍隊だから負けることはない』という間違った思い込みの犠牲になった人はどれほどか、

沖縄戦は時間稼ぎのはずでは?
『敵米鬼を積極的に撃砕せよ』という大本営の意図は何だったのだろうか。



そして日露戦争以降、連戦連勝の日本兵は降伏を知らなかった。
敵に負けた時どうするかという教育を全くされてこなかったのだ。



沖縄戦で兵力増強がなされていたら、
住民から招集せずに済んだはず。
降伏を知っていれば、きっと多くの命が助かっただろう。
お国のためではなく、自分のために生きて欲しかった。

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嘉数公園高台には
京都や島根からの部隊を追悼する碑があり、
気候も全く違う場所からやってきて、沖縄を守るために戦ってくれたのだと思うと心が締め付けられるほどに苦しい。


現在は桜の名所にもなっており、ヤシの木と桜が共生する不思議な光景が見られる。少しでも心穏やかに眠ってほしいものだ。

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夜間出撃の航空部隊

特攻作戦…
敵戦車に潜り込み、自分もろとも爆破する陸上特攻は日中戦争時から存在し、戦況が悪化するにつれ常態化していった戦法。
空中特攻、水中特攻、対艦特攻などがある。他国でも、どうせ死ぬなら…という心持ちの特攻はあるが、死を前提にした特攻は日本だけ。


美濃部少佐率いる芙蓉部隊は、頭脳派ぞろいだと感じた。
沖縄戦の際、鹿児島から飛び立った自機が
夜間にどこを飛んでいるのか理解するため
沖縄の模型を作り地理を叩き込み、

いよいよ本土決戦かという時には
芙蓉部隊の飛行場が空襲に会わぬよう、周辺に牛を繋いで牧場に見せかけたり
昼間は滑走路を芝生で覆うといった事もしていた。

そんな美濃部少佐は、
海軍幹部の前で堂々と『特攻拒否宣言』をする。



『なんの作戦もたてず、やみくもに突撃するだけではせっかく命をかけても無駄になってしまう』


『ただ机の前にいて、
言葉だけは勇ましいがみずから突撃することはない指揮官に、どうして自分たちの運命が決められてしまうのか、せめて勝算のある手段を考えてほしい』

宣言の部分を要約するとこのような内容なのだが、
この原文は本当に、この本で読んで頂きたい。
美濃部少佐の放つ単語のひとつひとつが力強く、
目が覚めるほどかっこいいのだ。



これは現代にも通じる言葉だ。
現場を知らない上司が、部下に次々と無理を押し付ける事と非常に似ている。


私も以前お仕事で商品の受注対応をしていたとき
対応するのは私一人なのに、
上司が販売促進の広告を次々出すので
頭も手も回らず身体を壊してしまったことがあった。

今思えば、身体を壊す前にできることがあったと思う。

命どぅ宝

最後まで読んで感じたのは
『命こそ宝』である。

私は、軍国主義の中でどうやったら染まらずにいられるのか?と疑問だった。
名将として登場する4人が元々、相当な人格者であったのは間違いないと思うが、気づいたことは序盤はおおむね作戦がうまくいっているということだ。

切羽詰まった状況では冷静な判断ができない。
苦戦しながらも作戦が成功したからこそ人間の力、
命の大きさに気づけたのではないだろうか?

本当に、上司の命令は正しいのか、
自分が人間らしくいられる最善の方法はなんだろうか。
この本は、仕事に忙殺され人間関係で悩む若い人にこそ読んでほしいと思った。


実際に足を運び、目で見ることも重要だと学んだ。

東京五輪がインパール作戦に例えられたりしていたようですが、インパールへ行かずに、本当のインパールを知らずにどうして語れるのか。

自分の故郷の名前が『無謀なこと』の意味で使われていたら
どんな気持ちだろうか。
少しでも真実を学んだ上で、言葉は丁寧に発するべきだと思った。

古谷先生は、私の知らない事実を教えてくれた
文字通りの《先生》である。
数えきれないほど気づきを貰えたので、感謝を申し上げたい。


古谷先生のおわりの言葉、

・戦争を知らないと平和を知ることはない
・歴史は私たちの土台をつくる
・現在を知るために現地へ行く

に激しく共感した。
戦争関連の作品を見たり史跡へ行ったりする私に対して、疑問を持つ人が時々いるのですが、これからはこの言葉を盾に、堂々と胸を張っていく。



***



そして
捨て石と呼ばれた

私の生まれた島は


私にとって

これからもずっと
どんな場所よりも輝いて見えるのだ。

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