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夢、記憶、可塑性。

 連続の夏日が薄らいだ昨日、夢をみた。

 「何処でも行けるけど何処にも行けない」彼はそう言っていた。中目黒のベッカーズから学校まで歩く途中で、山手通りの排気ガスとビルの谷間を屈折して、アスファルトに反射する照り返しに眩しく目を細めて、人生について話し合っていた。青春時代の悩みの大半は哲学に触れてから、人生というカテゴリーに分別される。似ているようで似ていない。重いようで軽いようで。擦れているようで純粋なようで。あるボーダーラインを超えたら終わりになることを、何となく理解していた。未来はとてつもなく遠くに続いていて、今はまだドアを開き歩き始めたばかり。お互いに口にすることは無かったけれど。
悲しくて怒りが収まらないならば、何かを食べてお腹を満たせばいいし、
エスケープしたいなら、音楽を聴いて踊ればいいし、
楽しいならば、異性とデートして馬鹿になり切って笑っていればいいし、
嬉しいならば、お洒落に決めてスキップしていればいいし、
ただ単純に生きていた。

 言葉にならないもどかしさも、通過点に過ぎない。

 老化は20代から始まるというけれど、老化も悪いことばかりじゃない。熟成肉が美味なように熟したものだからこその良さがあると思った。

脳は、神経細胞同士の信号のやりとりによってさまざまな機能を実現している。脳に新しい情報が入ると、神経細胞どうしは新たに回路を形成してつながり方を変化させたり、すでにある回路の太さや、やりとりする信号の強弱を変化させたりする。このように、神経細胞が柔軟に変化する性質を「可塑性」という。練習を重ねることでできなかったことができるようになったり、くりかえし勉強することで記憶が定着したりするのは、可塑性によって動作や記憶に関する神経細胞のつながりが変化した結果だ。〈Newton別冊  『死とは何か』脳の老化①より〉

 この「可塑性」を自身で実感している。繰り返すことで耐性が付くんだと思っていたけれど、人間の脳が成すこと、もともとの性質で備わったものならば、それは砂漠に水みたいに救いになる。 

 若い頃は試練がしんどいと感じることが多かった。それは生き物として未熟さからの美しい尊さでもあり、なにくそ根性で守りながらその極端な思考から「もう終わり」を選択しようとしたり、勢いを持った鼓動の速度を簡単には止められない。 でもこの「可塑性」を知ったら、よく周りの大人が言っていた「今は辛くても時間が必ず解決してくれる」は嘘ではなかったと知れて良かった。細胞は毎日死んで新たに生まれてを繰り返しているならば、個体としての寿命を終えるまで、この世を足湯に浸かるように楽しむのもいいかも知れません。


 「何処でも行けるけど何処にも行けない」この意味が少し朧げに見え隠れする。強くもなければ弱くもないように。

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